『ひよっこ』「乙女たち、ご安全に!」 ― 2026-09-13
2026年9月13日 當山日出夫
『ひよっこ』「乙女たち、ご安全に!」
この週から、向島電機の乙女寮の生活になる。
このドラマは、悪い人が出てこないと言われている。しかし、だからといって、社会の暗い面を描かないということにはなっていない。
昭和40年、高度経済成長期の日本である。多くの集団就職の若者たちが、東京にやってきた。みね子たちは、高校を卒業しての就職であるが、向島電機に同期で就職することになった澄子と豊子は、中学卒である。この時代、中学卒で、東京に出て働く地方出身者は多くいた。
新しく会社にやってきたみね子たちに、舎監の愛子は、「頑張れ」と言う。なんとなく、たよりない感じはするけれど、愛子としては、どうしてもこう言いたくなる。
ドラマの中での説明としては、愛子も、15才から向島電機で働いて苦労してきた。頑張って仕事をしてきたので、なんとか会社の女子寮の舎監ということになった。おそらく、これまでに、上京して就職してきた女の子たちをたくさん見てきたのだろう。彼女たちが無事に仕事を続けていくことができたというわけでもなく、脱落していく女性もいた。その後、どうなったかは語っていないが、この時代のことであるから、なんとなく想像はつく。寮の自分の部屋で歌っていたのは、「下町の太陽」この時代の映画であり、歌である。
乙女寮にやってきてすぐに、「手のひらを太陽に」の合唱で出迎えられる。これは、唐突な感じもするが、寮のサークル活動ということだから、納得できることになっている。(これも、視点を変えれば、会社側の女子社員への福利厚生であると同時に、ある種の管理でもあるのだが。)
最初の食堂での晩御飯は、カレーライスだった。お肉が入っている。これを食べて、みね子は、故郷のことを思う。以前の回で、みね子が、お母さんが留守にしているときに、カレーを作っている場面があったのが、伏線になっている。これは、食堂のおじさんの特別サービスだったようだ。後で出ててきた、スパゲッティは、大盛にはしてもらえるけれど、具はほとんどなかった。
乙女寮で同室になったのは、みね子、時子、澄子、豊子、優子、幸子、である。これらの女性が、それぞれ個性的であり、見ていてきちんと区別できる。(もう年をとってくると、若い女性が登場しても、区別するのが難しくなってきている。)そして、それぞれが向島電機で働くことになった背景……具体的に家庭の事情であるし、さらにその背後には、戦後の日本の社会のいろんなことがある……を、それとなくであるが、きちんと分かるように描いていることがある。
まずは、豊子が、中学での成績はトップだったのに、高校に進学できない。向島電機につとめて、通信制の高校で勉強する。どうしても、高校卒業でやってきた、みね子や時子と対立することになる。この感情と社会的事情、家庭の事情、これらを、この時代だからこういうこともあったなあ、ということで上手く描いていると思う。(これを、もっとリアルに悲惨に描くことも出来るのだけれど。)
寮には、15才から29才までの女性がいると、愛子が言っていた。15才というのは、中学卒で就職したということだが、29才までというのは、30才定年ということだろうか。あるいは、それ以上の年齢になったら、寮を出て生活ということになっているのか。たいていの場合は、寿退社だっただろうと思うが、これも、また、こういう時代のことであった。
向島電機で作っているのは、トランジスタラジオである。昭和30年代以降、AM・FMのトランジスタラジオが普及した。私の記憶だと、中学生か高校生ぐらいで、自分用のラジオが持てるようになったのを憶えている。考えてみるならば、このころのトランジスタラジオは、みね子たちのような工場労働者がいて、工場の流れ作業があって製造していたことになる。もちろん、MADE IN JAPAN である。
これを、戦後の「女工哀史」として描くこともできるが、そういう面は強調せずに、当時の日本にとっては、重要な輸出品であるという誇りを感じるということになっていた。これはこれで、ドラマの作り方である。
乙女寮のみね子たちの部屋、食堂、工場、それから、愛子の部屋、これらのセットがとてもいい。きちんと作ってある。そこで人が生活していて、働いている、という雰囲気がきちんと出ている。
2026年9月12日記
『ひまわり』「第十一章 一難去ってまた一難?」(9月7日~9月12日) ― 2026-09-13
2026年9月13日 當山日出夫
『ひまわり』「第十一章 一難去ってまた一難?」(9月7日~9月12日)
この週から、裁判官である。
法律にかかわるドラマとして見ると、このドラマでは、法の正義、ということをださいない。社会正義ということや、人権とか平等とか、そういう価値観でものを見ることをしていない。法律がかかわることになった場合、弁護士としであれ、検事としてであれ、裁判官としてであれ……のぞみが基本的に考えることは、この事件に関係することになった人たちが、より幸福になれるのは、どういうことであるのか、これを思っている。そして、のぞみの周囲の同期の研修生たちも、すでに法律のプロである人たち(弁護士、検事、判事)も、そういうのぞみを否定するということにはなっていない。せいぜい、のぞみの考え方が甘いということを指摘するにとどまっている。
これを法曹のドラマとして見た場合、もの足りないと思うか、あるいは、実際にはこういうことを描いてこそ法曹の世界の人間であると見るか、これは、人によって判断が分かれるところだろう。
少なくとも、正義感があって、法律の知識を駆使すれば、難事件も解決する
……ということにはなっていないことには、私は、これでいいと思って見ている。
南田の家庭もややこしくなってきている。親子の関係であり、男女の関係が、さまざまに錯綜している。問題がないのは、優と桃子の夫婦ぐらいである。そして、錯綜した人間関係について、ことさらに誰が正しいとか、誰の思いを中心に描くとか、ということになっていない。それぞれの登場人物の思いを、等分に描くように作ってある。正しい人がいるわけでもない、正しさのお手本があるわけでもない、これが実際の人間の世界のことだと、感じるように作ってある。このあたりは、近年の朝ドラとは、違うと感じるところである。
2026年9月12日記
『風、薫る』「環」 ― 2026-09-13
2026年9月13日 當山日出夫
『風、薫る』「環」
親と子の関係……情愛もあり、また、反感もあり、その入り交じった気持ち……これを、これまでのドラマできちんと描かずにきておいて、この週で、りんと環のこと、さらに絵描きで生きていくこと、これらをまとめてドラマとして描こうとしても、無理なことでしかない。
このドラマの不運(?)は、同時並行で、『ひまわり』『ひよっこ』の再放送と重なったことがある。『ひまわり』『ひよっこ』では、親子の関係ということが、ドラマの主軸としてある。しかし、『風、薫る』では、親子のことが、基本的に出てきていない。
これは、意図的に、親子関係を描かないという方針であったのだろうか。夫婦ということも、大きく出てきていない。それならそれでいいと思うのだが、では、そのかわりに、人間のあり方をどう見るのかという視点が明確にはなっていない。ただ、りんと直美の二人のお母さんがいる、しかし、お父さんはいない、という、ちょっと変わった家族が出てきていただけのことになる。
明治のこのころだと、江戸時代からの「家」にかわって、近代的な「家庭」ということが、意識されるようになってきたころになるだろう。環が、母親のことを、「お母さん」という呼称で言うようになったのは、日本語の問題であると同時に、新しい近代的な「家庭」を学校教育の中であつかうようになってきたことの反映でもあるはずである。(こういうことに無反省なまま、ただ現代的な言い方として、環に「お母さん」と言わせただけだったら、この脚本は、無知にすぎる。)
那須のころのこととしては、りんの父親の信右衛門が登場してきていたし、それは、娘たちを新しい時代に向けて教育してくれる、新しい感覚を持った父親としてであった。また、りんのとつぎさきの亀吉と貞は、古い封建的な「家」を代表する描き方になっていた。
だが、東京に出てきてからは、古い那須での封建制を脱ぎ捨てたのはいいとしても、その代わりに、いきなり個人と社会ということになってしまった。瑞穂屋の卯三郎の登場である。国家ということを出さなかったのは、意図的にそうしたのだろうが、この時代だったら、個人と社会を考えるときに、国家をはずすことは無理だっただろう。
夫婦として出てきていたのは、大山捨松と巌であるが、この夫婦は変わっている。愛し合って夫婦になったということではなく、お互いの利益(陸軍大臣としてであり、女子教育や看護婦のためである)という、打算によってなりたった夫婦である。とても、近代的な恋愛感情をもとめることはできない。
母親は登場するが、これは、直美が自分を産んだ母を探すということが軸になっていた。ここで、実の母の文とのことは、印象に残ることではあったが、ドラマの中で、りんと母の美津との関係の対比として、どうこうということにはなっていなかった。直美と文のことは、単なるエピソードで終わってしまっていて、母と娘ということで、広がりをもつことにはなっていない。
環についても、りんが、環にどんな母親であろうとしたか、まずは、美津がそのロールモデルになるか(その逆の場合もふくめて)と思われる。美津は、瑞穂屋で率先して働き、りんが看護婦になることについても、基本的に何にも言わなかった。美津は非常に開明的なのだが、それがこの時代としては変わっているということにはなっていない。美津が、なぜ、このような女性であったのか、那須の時代に何があったのか、東京に出てきて、どうかわったのか、分からない。
瑞穂屋ではたらく開明的な母親はずっと出てきているが、その一方で、「学ぶことは~~」と教えてくれた父親のことは、もう忘れ去られてしまっている。なんとなく不自然である。りんにとっての学ぶこと、環にとっての学ぶことは、信右衛門の教えからからすると、どうなるのか気になるのだが、まったく無視である。
環が小学校に入学するとき、さらに、女学生になって、自分の父親は誰なのだろうかと、まったく気にしなかったのは、なんとなくおかしい。この時代に、女学校に入学するような女性は、社会のごく一部の上流階層だっただろうから、当然、それぞれの女学生の家庭はどんなであるかは、生徒どうしでお互いに、また、学校の教師としても、気にすることだったはずである。
これも、対比的に、詐欺師だった寛太のような社会の底辺の人間なら、親のことなんか知らない、ということで、環と対比的に描くこともできたかもしれないが、そうはなっていない。
直美は、息子の明に、父親のこと(軍人だったこと、日清戦争のときに台湾で病死したこと)を、どう伝えていたのか、これも、まったく出てきていない。
その他いろいろあるが、要するに、このドラマでは、親子とか、夫婦とか、家庭とか、ということについて、描き方があまりに粗雑にすぎるのである。りんと直美と美津と環の家族は、かなり特殊な形態であるが(お父さんがいない、お母さんが二人いる)、これを、どう特殊なのか、それでも家族の情愛はあるとしてそれはどのようなものだったのか、納得のいく作り方になっていない。
このようであったところに、この週で、いきなり那須から環の父親の亀吉が登場してきて、いったい何を言いたかったのだろうか。さっぱり分からない。那須で無事に商売ができているらしい、ぐらいのことである。せいぜい考えてみて、亀吉がりんに、患者さんをみるように、環のことをみてやれ、と言っていたが、この科白を言わせるためだったとしか思えない。
少なくとも、環が、自分の父親のことや、出自を知って、どう思うことになるか、多感な女学生としてどう感じるのか、普通なら非常に気になるはずのことが、まったく描かれていない。意図的に省いたとしたとしても、それならそれで、環は自分の出自のことなんか気にかけない人物として、これまでの人物造形があってしかるべきだが、それもない。
患者さんをみるように環のこともみる……この科白が意味を持つためには、看護婦の仕事に忙しくて、環のことをかまってやれなくて、環が寂しい思いをする、しかし、それを言えないで苦悩している……ということが、あっていいと思うのだが、印象に残るようには、描かれてきていない。あんなお母さんだけど、私は私よ、という雰囲気であった(私が見て感じていたところでは)。
亀吉の科白を聞いてから、りんと環の関係が、どう変化することになったのか、これが分からない。これまでの流れだと、亀吉の科白があってもなくても、りんは環の希望を尊重するということになっただろう。(これが、りんは自分は看護婦の仕事を一生懸命だが、環には良妻賢母教育を受けさせて、普通に結婚してほしいと思うような、新しさと古さの両面をもった女性として描かれいたなら、ちょっと違ってくるのだが。)
環は絵を描くことに興味があって、シマケンに相談して、新聞社の編集長に会って、お団子屋さんの広告の絵を描く仕事ができて……どう考えても、都合よくいきすぎである。絵を描くこと、創造するすることの苦悶、明治になってからの新しい美術の潮流、自分はどんな絵を描きたいのか、絵描きの先生のところで徒弟修行するのか、美術の学校に行くのか、そういうことが背景にあっていいと思うが、まったく出てきていない。
はっきりいって、美術や芸術にこころざしをもって創作にはげんでいる人たちのこと(その当時でも、現代においても)を、バカにしているとしか思えない。まったく無理解にすぎる。
2026年9月12日記
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