ハートネットTV「私のリカバリー 竜ちゃん、それでも生きていく 広川ひかる」2026-09-09

2026年9月9日 當山日出夫

ハートネットTV「私のリカバリー 竜ちゃん、それでも生きていく 広川ひかる」

録画しておいてあったのを、ようやく見た。

この番組を作っている人にはもうしわけない気持ちになるが、下手なドラマを見るよりも、こちらの方が、ずっと面白い。人間というのは、こういうものだよなあ、という気持ちになる。

芸人の世界も、いろいろと大変だなあ、と思う。月に100万円ぐらいなら、安い方かもしれない。

今の時代、自分の正しさを主張することには非常に熱心になるのだが、どうであれ、目の前にいる人間のことを肯定する、ということが、なかなか難しくなってきている。その人によりそう……ということを言いながらも、実は、その裏に、かなり強い正義の主張があるという番組が、非常に多い。簡単にいえば、よりかわいそうな人を探してきて、番組を作っている、としか思えない。

日常の生活の中で、身の回りの隣にいる人、ちょっと困っていることがあるかなと思うことがあるとして、それを、そのまま受け入れるということは、そしてその人がそうである理由を思って見る、これは人間にとって意外と難しいことである。

ホッブズの『リヴァイアサン』の中に、こういう一節がある。人間は、人を赦すときよりも、批判するときに、正義を感じるものである……、こういう意味のことが書いてある。社会契約論として国家を論じることの根底にある、非常にするどい人間観である。

人を批判するよりも、赦すことの方が難しい。人を批判して、そこに正義を感じていてはいけないのかもしれない。こう思ってみることは、意味のないことではないだろう。

上島竜兵の死のニュースは、なんとなく記憶に残っている程度なのだが、見ながら、どういうことばで、何を語るか、かなり慎重にことばを選んでいることは分かるし、だからといって、それについて語ることを避けていることもない、場合によっては、かなり直接的にことばにしている。こういうことのノウハウは、これまでの経験と研鑽があってのことだと思う。

2026年9月7日記

英雄たちの選択「サムライたちの石垣大レース〜徳川秀忠の新・大坂城〜」2026-09-09

2026年9月9日 當山日出夫

英雄たちの選択「サムライたちの石垣大レース〜徳川秀忠の新・大坂城〜」

この回は面白かった。こういう企画が出来るのは、高田祐一の研究があってのことなのだろうと思うが。

大坂城の石垣の積み方から、徳川政権のあり方とか、さらには、その後の日本人の生き方というところまで、話しが及んでいる。(これは、ちょっと話しを飛躍させすぎかなという気もするが、こういう番組であるなら、これぐらいのことは言ってもいいだろう。)

石垣の工事の仕事の分担や技術ということでは、おそらく、番組の中で言っていたとおりのことでいいのだろうと思う。

言っていなかったこととして気になったのは、工事の工区を割り振っているとして、隣りあった工事が、お互いにトラブルのないように、そして、最終的にきちんと仕上がるように、全体の工程管理や、現場の指揮監督、ということが緻密になされていただろうと思う。このとなりあった部分の一個の石を、どっちが積むかというようなことで、もめ事があったりは、しなかったのだろうかと思うが、こういことを調整する機能が全体として働いていたということになる。

小豆島の採石の跡、黒田の矢の工夫とかは、とても面白い。また、石垣を調査して、コンピュータで解析するのは、やはり現代ならではの研究手法である。

番組では言っていなかったことだが、気になるのは、石垣の内側の工事。これは、単に土を盛っただけのものではなく、さまざまな土木工事、築城の経験があってのことがあるにちがいない。表から見える石垣の石と積み方だけのことではなく、その内側の地面の下の工事がどうだったのか、気になる。

それにしても、大きな思い石を、どうやって小豆島から大坂まで運んで、それを、工事のために上の方まで運び上げたことになるのだろうが、具体的には、どんな技術や道具でこれをやったのだろうか。

実際に石に矢穴をあけて割ってみるというのは、実験として、とても面白い。

矢の形状や材質は重要だろうが、穴をどういうふうにあけるかということもあるはずである(穴のことについては、番組では何もいっていなかったが。)

石の運搬、それから、従事した人たち(足軽と言っていたが、これは実際はどうなのだろうかと思って見ていたが)の宿泊や生活など、今でいえば、兵站、ということにかかわる仕事が綿密に実行できたことになる。こういうことがあったから、江戸時代になってからの参勤交代ということも可能になったかと思うが、飛躍しすぎだろうか。

中で、磯田道史が、昔は、命が安かった、と言っていたのは、そのとおりだと思う。死生観というのは、時代や状況によって変わるものである。現代の日本では、人命第一主義が、メインの考え方であるが、これは、ずっとそうだったわけではない。

石垣の石のように、枠にはまった生き方が、その後の日本人の生き方の基本になったということだが、おそらくは、武士の社会のあり方であり、それが、人間の生き方の見本のように考えられるようになってきた、近代からの日本人の自己像ということも、考えるべきだろう。

江戸時代になってからも、かぶきもの、という人たちがいたこともある。さらには、小泉八雲が描いた日本の生活とか、『逝きし世の面影』の日本人の姿もある。多様性は重要であるが、その多様性も、時代や地域によって、さらに多様であるというのが、人間の歴史である。

2026年9月4日記

3か月でマスターする世界史「(10)グローバル化とヨーロッパの覇権」2026-09-09

2026年9月9日 當山日出夫

3か月でマスターする世界史「(10)グローバル化とヨーロッパの覇権」

この時代のことになると、これまでなじみの(?)西欧中心の世界史ということに近づくので、逆に、見ていて意外性を感じるところが少なくなってしまう。面白さが減ったというべきだろうか。

現代の観点から考えることとしては、国民国家(主権、領土、国民)の誕生が、フランス革命以降のことであり、その後の世界は、この国民国家を基本の単位としてなりたつようになった。このことは、当たり前のことだが、重要だろう。

国民国家というのは、昔からあったのではない。

ただ、日本の場合、日本人……日本語をつかう人びとぐらいの意味であるが……は、そのほとんどが、日本列島の中にしかいないし、日本列島の中ではほとんど日本人しかいない、たまたま、こういう状況が、おそらくは弥生時代か古墳時代か、それ以降は、ずっと続いてきているといっていいだろう。ただし、北海道と琉球のエリアは、別に考えることになるが。こういう国としては、近代になってからの国民国家としての日本を、簡単に過去に投影して考えることができる。これが、完全に間違いであるとまではいいきれないかもしれないが、歴史をたどってみるならば、かなり問題があることはたしかである。日本がこういう国であるから、他の国も、だいたいそうなのだろうと思って見てしがいがち、というのが、一番の問題点かもしれない。ヨーロッパの国々でも、アメリカはもちろん、アフリカや東南アジアの国々でも、また、ロシアも、むか~しから、今の国境線にあった国家が連続しているということではない。しかし、なんとなく、そのように思ってしまいがちなところがある。

もちろん、「想像の共同体」ということも、十分に考慮しなければならないことである。

帝国と帝国主義を分けて考えるのは、そうだと思う。中国の帝国である清朝と、産業革命以降の英国の帝国主義を、ならべてくみあわせて見ることによって、その違いがはっきりする。こういうものの見方は、非常に有意義なことである。

この番組の中では言っていないことだが、帝国であることしか歴史的に経験していない中国の人びと(というしかないが)が、国民国家(基本的に相互に対等であるというタテマエである)に、どうなじんでいくことができるのか、というのが、今の国際社会の大きな問題点かなと思う。国民国家であることを飛び越して、テクノ自由主義とお金の力で、(それに軍事力を加えて)、勢力圏をひたすら拡大しようとしているのが、今の中国であると考えることもできるだろう。

2026年9月7日記

NHKスペシャル「少女たちの戦争 時を超える学級日誌」2026-09-09

2026年9月9日 當山日出夫

NHKスペシャル「少女たちの戦争 時を超える学級日誌」

これは、BSでの拡大版の方を録画しておいて見た。

見ながら思うことはかなりある。

学級日誌の文字と文体である。これは、私が、国語学、日本語学ということを勉強してきたからということであるのだが、まず、このことが気になる。学級日誌に書かれた文字は、女性の文字である。当たり前のことのようだが、一昔前までのこととしては、女性が書く文字のスタイルと、男性が書く文字のスタイル、これは違っていた。見ただけで、これは女性の文字だと分かる。今でも、昔風の教育をうけた高齢の女性の書く文字は、見てすぐに女性の文字だと分かる。

そして、文体が、口語散文の女性ことばである。現代の日本語研究としては、役割語という概念でとらえることになることだが、文体が書き言葉であって、女性のことばで書いている。

しかし、勤労動員の時の日誌になると、文体が変わっている。女性ことばではなくなっている。

女学生という立場を意識しているときと、勤労動員のときとと、意識のありようで文体に違いがでたものだろうか。

もちろん、(番組の中ではまったく触れていなかったことだが)、書いた日誌は、教師の目に触れることになる。検閲とまではいわないにしても、誰が読むことになるのかは、意識して書いたことはまちがいない。まったくプライベートな個人の日記ではない。このあたりことは、史料の性質として、まず言及があるべきとことだったかと思える。

現代の部分についていえば、かなり古風な校風を残しながら、自由なところがある。

「週番」ということばが出てきていたが、これは、もともとは軍隊用語である。もう今では普通にはつかわないことばになってしまったかと思うが、私が、子どものころ(今から半世紀以上昔になるが)、小学校で、日常的に使うことばとして残っていた。

今の生徒のことばとして、広島、長崎、とならんで、靖国が出てきていたのは、はっきりいってちょっとおどろいた。今の、リベラルの考え方からすれば、靖国神社などは、未成年の中高生が行ってはいけないところ、という位置づけだろう。個人で行ったか、学校の行事で行ったかは、定かではないが、いずれにしても、靖国に行ってみるということは、これはこれで意味のあることである。それを推奨することでもないし、逆に、禁じるべきことでもない……これが、原則であるはずである。(私の立場としては、近代の国民国家として英霊祭祀は必要であるが、靖国神社がそれにふさわしいかどうかは、また別の議論になる。)

「平和を欲すれば~~」ということで、何を考えるかということで、「戦争に備える」と言っていた生徒がいる。これも、このようなことばを放送することをゆるすというのは、今の時代の雰囲気からすると、かなり勇気のいることである。下手をすると、学校の教育方針について、(自称)リベラルな平和主義者から、クレームがつくことになる。(いや、もうすでに、こんな生徒の発言はまちがっていると抗議が学校にあってもおかしくないと思える。絶対平和主義、軍備廃絶以外の「正しさ」はない、という立場もある時代である。)

時代や社会の流れの中にあって、自分で判断することを重視する……これは、どのような立場についてもいえる。いわゆる戦争の時代にあらがうだけではなく、今の時代のデフォルトの価値観である平和主義についても、それを疑う姿勢を認めるべきである。どのような思想であれ、それが教条化することが、もっとも危険なことである。

このような教育ができるのは、神の教えを絶対善として信仰することができるから、ということかなとも思うが、現代の事例としては、ミッションスクールだからといって、生徒が自由に考えることを教育することになっているかどうか、その悪い方の事例について、大きく話題になっているときでもある。

戦時中の日誌を見て、学校や生徒にまったく自由がなくなってしまったということを、強調するような作り方にはなっていない。えてして、戦時中は自由がまったくなかったという側面を強くいいがちである。しかし、どのような時代であっても、社会の中で順応して生きること(それが戦争への協力であっても)と、今の生活を楽しむこと、これは、両立することである。人間の生活とは、そういうものである。勤労奉仕ばかりになったからといって、女学校生活が全面的にみじめなものであったとは、かならずしもいえない。それは、残された日誌からうかがい知ることができる。(こういうことを考えるためにも、まずどういう史料なのか、ということが必要なのである。)

歴史の考証として、ちょっと気になったところとしては、召集令状の名前を書く作業が、この女学校の生徒の仕事であった、ということは、非常に興味深いことであるのだが、このとき、誰を召集するか、その選定はどういうシステムだったのか、そして、どうやってその人のもとにとどけられたのか……これは、女学校の生徒のあずかり知らぬことであったということも、言っておくべきことである。というよりも、どういうシステムで、徴兵ということが行われてきたのかについての、一般的な解説した本が、私の知るかぎり、ほとんどない状態である。

教室で、生徒に見せていた、召集令状(赤紙)は、現代に作った複製であることはもちろんであるとしても、そもそも、赤紙の実物がほとんど残っていないということも言っておくべきことだったとも思える。これは、入営した先で提出することになっていたので、家庭に残ることはなかったものである。

余計なこととしては、次の次の次だったか、NHKの朝ドラで『ほんのモキチ』になる。斎藤茂吉と妻の物語のはずである。北杜夫は、この夫婦の子どもであり、『楡家の人びと』は、この一族がモデルになっている。中に登場する藍子は、東洋英和女学校の生徒として出てくる。さて、ドラマでは、いったい戦争の時代の東洋英和(東洋永和)女学校を(別にこの学校でなくてもいいかと思うが)、どう描くことになるのだろうか。

2026年9月7日記