ETV特集「カイル博士と棚田の集落」 ― 2026-09-26
2026年9月26日 當山日出夫
ETV特集「カイル博士と棚田の集落」
再放送である。最初の放送のときも見ている。いろいろと思うところはあるのだが、考えがまとまらない。
二つの矛楯することをふくんでいる。
一つには、山間部の棚田の稲作が、循環型の農業で、これを維持していくことは、非常に意味のあることである……という、きわめて現代的なメッセージである。
二つには、限界集落の現実。現時点で平均年齢が70歳ぐらいということは、あと10年すれば、おそらく人口は半減する。絶対に、今のままの農業を維持できない。
だからといって、都会から多くの人が移住してきて、この村落を守るということになるかというと、そうはならない。見学に来る人はいても、住み着く人は、カイル博士のような、きわめて例外的な人ということになる。
番組では言っていなかったことだが、今でも、この村の生活を維持するためには、道路があり、自動車が通れて、電気があって、電話もあって、ということが前提になっている。農作業に行くにも、軽トラックがないと無理である。草刈りをするのには、エンジンの草刈り機を使わないといけない。昔ながらに、鎌で手で刈るということは無理である。さらには、クマ、イノシシ、シカ、ということもある。もし、シカの猟ができなくなれば、増えすぎて、これも地域の生態系に大きな変化をおよぼす。
では、これからどうすべきか、ということになると、誰にも妙案があるというわけではない。こんなところぐらいしか、考えつかない。
それから重要なこととしては、こういう棚田の米作を維持しようとするなら、このような作り方をしたお米であることに、特別の価値があって(その品種ではなく)、普通の田んぼで作るお米よりも、かなりの高額になっても、それを選んで買うという消費者が必要になる。たとえ、あまり美味しいとはいえなくても、作り方や作っている人の生活に価値がある、こう思えるようになるだろうか。
かつては、普通の田舎の生活だったことが、現代では、ことさら意図しなければ維持できないし、お金(お米のお金であり、場合によっては税金もふくめて)がかかるものになっている、ということである。
2026年9月23日記
クラシックTV「教えて!作曲ってナニ?」 ― 2026-09-26
2026年9月26日 當山日出夫
クラシックTV「教えて!作曲ってナニ?」
音楽、その中でも、作曲ということになると、まったく知識がない。せいぜい、著名な作曲家として、ベートーベンとか古関裕而とか、名前を知っている程度である。
まあ、こういうのは、芸術の神様が微笑んでくれる特別な人、ということに思うことにしている。
現代だと、作曲するのに、PC一台あれば出来る。AIを使って当たり前。もう、こういう時代だなとは、感じるところである。昔ながらのように(?)、ピアノを使っているという人もいるいるだろうし、頭の中で音楽と楽譜をイメージできるという人もいるだろう。
コンピュータを使う、AIを使うことのメリットは、たしかにある。これも、考え方によるが、人間の演奏では出せない音楽を作ることも可能になる。かつて、シンセサイザーが使われはじめたころ、演奏といわずに、作った、という言い方をしていたのを憶えている。
芸術とAI、ことばとAI、こういうことは、とてもややこしい議論があるのだが、もう、このての議論につきあっていくのは、面倒になってきた。AIについての議論は、今では、3か月もすると陳腐化してしまう。
2026年9月23日記
BSスペシャル「禁じられる物語 〜アメリカ 愛国教育をめぐる攻防〜」 ― 2026-09-26
2026年9月26日 當山日出夫
BSスペシャル「禁じられる物語 〜アメリカ 愛国教育をめぐる攻防〜」
かなり考えて作ってあったと感じる。両論併記ということではないが、それぞれの言い分があり、すれ違うことによる問題点を考えることにつながっている。
ポイントとしては、冒頭に出ててきたこのことばだろう……「多様性を強調すると分断が始まります。だからアメリカの建国理念を学んで愛国心で私たちは一つにならないと。」
全体の基調としては、図書館の蔵書を制限する保守派に対して、いろんな本をおくように主張するリベラル派という構図で作ってある。だから、いわゆる(自称)リベラル左派にしてみれば、アメリカで起こっている危機的状況であり、これが、日本であったら大変なことになる、という警鐘として見ることができる。
しかし、視点を変えれば、いくら保守派が頑固そうに見えても、手続き的には図書館の本を決めることに瑕疵があるとは思えない。公聴会を開いて、市民の意見を公平にきいている。
まあ、図書館の本や、教育の内容を決める委員会のメンバーが、共和党が多数ということはあるにしても、ただ、数のちからで押し切っているということにはなっていない。
むしろ、強行に自分の政治的意見を主張しようとして、公聴会の趣旨にそぐわない発言をしようとする、リベラル左派と思われる人物の方が、民主的にことをすすめるルールを逸脱しているように思える。
まさに、多様性の主張が分断を生んでいるということの現場を見る、という気になる。
私見としては……人間の考え方や価値観は多様であり、多様性は尊重されるべきなのだが、しかし、人間は全知全能の神ではないので、あらゆる多様性を許容することは不可能である。そこには、おのずから、時代と文化と歴史の制約がある。だから、もとめるべきは、多様性の多様性ということであり、そして、異なる多様性相互の風通しを良くすること、これぐらいである。一種類の多様性しか認めずに、それを強要するのは、暴力に他ならない。
性の多様性については、小学生の段階で、これを教えることは、慎重であるべきだろう。まずは、その社会の規範(それは、時代や地域によって異なる)を教えることであり、もう少し大きくなってから、(高校生ぐらい以降だろうか)、世界の人間にはいろんな性的な多様性があるこを教える、ということでいいだろう。そして、何より、性的な多様性は、自分の意志で選ぶことのできないものである。自分の意志で選ぶことのできないことで、社会的に不利益をこうむることがあってはならない。これが、リベラリズムの基本の考え方である。
自分の性的指向や性自認は、自分自身の自由な意志で決めることができる、それは、個人の自由として認められねばならない、という考え方については、私は、同意しない。
それに、今の時代、学校の図書館の本や、教科書に書いてあることで、子どもが知識を得るということではない。他に、たくさんのメディアがある。ただ、子どものSNS利用の制限ということはあるかと思う。また、AIと教育の問題もある。だが、子どもであれ、大人であれ、インターネットで自由に知識を得ることができるという時代になっていることの現実を踏まえた議論がこれからは必要になる。
世の中の流れ全体を見わたした議論でないと、たとえば、差別のない本屋、ということが、建設的でない議論にしかならない。
2026年9月21日記
未解決事件「File.19 「北関東連続幼女誘拐・殺人事件」」 ― 2026-09-26
2026年9月26日 當山日出夫
未解決事件「File.19 「北関東連続幼女誘拐・殺人事件」」
この番組の内容について、DNA鑑定の技術の信頼性の問題があり、おそらくは冤罪ということがあり、過去のいくつかの事件については、根本的な捜査過程や裁判の見直し、ということにつながる……こういうことについては、すでに、多く言われている。
未解決事件のシリーズとして、この前の回が、 「上智大生殺害放火事件」だったのは、かなり意識してこういう順番で放送したことになると思える。
「上智大学生殺害放火事件」については、時効の撤廃という法律の問題と、DNA鑑定の信頼性ということが、論点としてあったと、私の見て思ったところである。
やまもも書斎記 2026年9月18日
未解決事件「上智大生殺害放火事件」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2026/09/18/9877241
DNA鑑定の精度が上がれば、それで、事件があったときに、人物を特定しやすくなる。犯人の特定は無論のこと、被害者の特定もできる。精度の向上はいいことのようだが、はたして、こういうことを手放しで喜んでいいのだろうか。
この場合は、人物の特定ということで、指紋と同じようなものである。しかし、一方で、DNAは、現代社会においては、個人が個人である最後のよりどころとして意識されることが強くなってきている。遺伝子的な親子関係ということが、育ての親ということよりも、以前よりはるかに強く重要なものと考えるようになってきている。
このような社会の意識の変化、人間観の変化、といってしまえばそれまでである。
上智大学生事件について書いたときにも述べたように、また、ハクスリーの『すばらしい新世界』(これは、たまたま、「100分de名著」で今月の本である)のことなど考えあわせると、行き着く先には、人間のDNAデータの管理ということがある。それが、国家によるものなのか、あるいは、別の組織によるものなのか、議論はあるだろう。また、人間が、自分のDNAの全データを解析して、それを、自分のものとして持つ、場合によっては、公表する、ということも、可能になってきている。
犯罪捜査、冤罪、という視点で見ることもできるが、これからの時代に、人間がDNAにどうかかわっていくことになるのか、という大きな転換点に来てしまっていることは確かなことだと思う。
2026年9月24日記
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