『敗戦後論』加藤典洋/ちくま学芸文庫2023-06-10

2023年6月10日 當山日出夫

敗戦後論

加藤典洋.『敗戦後論』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2015
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096821/

再読になる。この本の始めの単行本の時に読んでいる。一九九七年に講談社。その後、二〇〇五年にちくま文庫。ちくま文庫の時は読んでいない。二〇数年ぶりの再読になる。

この本が出たとき、かなり話題になったのを憶えている。

だが、今になってこの本を改めて読みなおしみると、なぜあんなに大騒ぎしたのか、釈然としない。素直に読めば、「敗戦後論」は至極まっとうな議論である。そして、また、こうも言えようか。たぶん、世の中の、「戦後」をめぐる議論は、この本が昔出たときから、さほど進歩はしていない。いや、近年になってむしろ劣化していると言ってもいいだろう。これは、右よりの視点からも、左寄りの視点からも、同様にそう思う。

憲法をめぐる「ねじれ」の問題は、特にこの本が始めて言ったことではないだろうと思うが(まあ、このあたりを細かく戦後憲法論争史を調べようという気にはならないが)、しかし、この本が出た当時は、非常に刺激的な論点であったことは確かである。

ちょうど、東西冷戦が終わり、ベルリンの壁の崩壊があり、日本では昭和という年代が終わりをつげたときである。国内政治では、五五年体制が終わった。これは私の持論であるが……昭和の終わり、冷戦の終わりのとき、日本は、それまでの日本のあり方、戦前から戦後につらなる昭和という時代について、根本的に考えるということをしてこなかった。昭和の終わりのとき、膨大な情報が流れた。昭和を回顧する報道番組などでテレビはいっぱいだった。しかし、そのなかで、昭和天皇の責任論を追求することはなかった。これは、死者になったのだから、そうっとしておくべきだという配慮がどことなく働いたせいかもしれない。だが、昭和天皇の崩御のときにこそ、昭和天皇の昭和の歴史における責任というものを、深く考えておくべきだった。また、戦後の憲法と政治体制(五五年体制)のことも、徹底的に歴史的な考察が必要であった。それを怠ったつけが、この「敗戦後論」という論考をめぐる、右往左往に現れていると言ってもいいのではないだろうか。

代表的なのは、高橋哲哉との論争であるが、今になって読みかえしてみると、私には、加藤典洋の語ったことの方が、自然に思えてならない。どんなに国民国家、あるいは、国家というものに対して否定的にであるとしても、現実には、今ある国家のシステムを前提にしないと議論はすすまない。(ただ、これは、盲目的な現状肯定ということではない。現実にどのように批判的であるにしても、まず、現実からスタートすべきだということである。)

「敗戦後論」を読んで思うことの一つは、加藤典洋の議論のなかには、「戦後」という時代の記憶が生きている。その記憶の生々しさが、議論の根底にはある。これに反論するのに、ただ論理的に正しい立場につけばよいというものではない。

記憶の生々しさを感じるのは、太宰治について論じたところにもある。いや、逆に、太宰治の文学に何を感じ取るかというところに、加藤典洋の文学的感性の根本がある。この感性の部分を、まず読みとっておく必要があるだろう。

この本を読んでふと思ったが、丸山眞男が「虚妄」ということばを使ったとき、丸山眞男には、戦後の「ねじれ」が体験的、感覚的にあったと思う。それは、かろうじて、私ぐらいの読者には、共有されているものかもしれない。

加藤典洋の書いたものを続けて読んでおきたいと思う。

2023年4月28日記

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