『虎に翼』「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」2024-09-08

2024年9月8日 當山日出夫

『虎に翼』「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」

この週は原爆裁判がメインだった……ようなのだが、しかし、余計な要素をもりこみすぎてあるので、肝心の裁判のことがきちんと描けていないと思える。いくつか疑問に思うことがある。思いつくままに書いてみる。

裁判に原告側の証人として、被爆者である女性の出廷ということになったのだが、このとき、上京してきて、轟もよねも始めて顔を合わせたことになっていた。これは、どう考えてみても不自然だと思えるのだが、実際はどうだったのだろうか。轟とよねが、雲野弁護士から裁判をひきついで、まずおこなうべきは、裁判の原告たちに会って、担当の弁護士が変わるが、訴訟をつづけることにするかどうか、ということについての確認であるべきだと思う。そのためには、広島に行って、面談してくることが必須であったと思う。これが、もし、書類の引き継ぎだけでよかったということなら、その旨の説明がドラマのなかであってしかるべきである。

そのときに、裁判の法廷に証人として出廷することになるかもしれないが、そのときはどうするか、気持ちを聞いておくべきことであった。

そもそも、原告たちは、何を求めて裁判を起こしたのか、そこから説明がないと理解できないことが多い。国際法、サンフランシスコ講和条約、など考えれば、損害賠償の可能性がきわめてひくいことは、事前にわかっていたはずだと思うが、それをあえて裁判に踏み切った理由、あるいは、覚悟や心情といったものが、まったく出てきていない。金銭的な補賞ではなく、人間としての尊厳にもとづくものである、ということであるならば、そのようにきちんと描いておくべきだったと思う。

現代の日本の常識的な考え方として、原爆は絶対悪であるということが一般である。だからといって、その時代に、法的に損害賠償が可能であったということにはならない。ここはあくまでも法の問題として考えることになる。そこを描いてこそ、リーガルエンターテイメントである……いや、あったはずである。(このドラマは、こことのところを、すでに完全に放棄しているのだが。)

裁判官を主人公としたドラマなのであるから、原爆裁判が法律の立場からはどう見えるのか、そこのところを描くことができたはずである。

ドラマに出てきた範囲で見てのことだが、判決ついては、次のことがいえるだろう。

戦争を完全には否定していないこと。太平洋戦争をはじめたこと自体は否定していないものだった。理想的な絶対平和主義ではない。国家の交戦権を認め、東京裁判(平和に対する罪)については否定したと理解できる。この点については、今日の理想的反戦平和主義からすれば、この判決はとうてい容認しがたいものであるはずである。このドラマを賛美する立場なら、まずこのことが問題になってもいいかと思うのだが、どうだろうか。

無差別爆撃は国際法に違反しているということ。これはうなずけることである。だが、戦争における無差別爆撃というならば、日本軍がおこなった重慶爆撃や、ドレスデンの爆撃のことがある。また、東京をはじめ日本の各地の都市で行われた市街地への爆撃がある。寅子が赴任していた新潟でも、長岡の空襲のことが出てきていた。しかし、ドラマのなかでは、これらのことについて特にふれることはなかった。ここで、寅子が長岡の空襲で娘を亡くした太郎弁護士のことでも回想するシーンがあってもよかったと思う。また、戦争犯罪ということが、強く人びとに意識されるようになったのは、東京裁判を通じてだと思っているのだが、このドラマでは、これまで東京裁判については、まったく触れることがなかった。記者の竹中が、戦争のことをふりかえろう、と言っていたが、それなら、まず考えるべきは東京裁判であったはずである。また、戦時中、猪爪の家は軍事産業としてもうけていたはずだが、このことについて寅子が、反省しているようすはまったくなかった。

それでも、原爆が特殊であること。市民への無差別爆撃であるのみならず、原爆が特殊なのは、その破壊力の大きさ、桁違いの被害者の数、それから、その影響が後々の生活にまで健康被害として残ることである、と私は理解している。特に、後への影響、ここのところが、原爆裁判のなかで、きちんと言及されることはなかった。裁判の始まりから終わりまでの間の、被爆者である人びとの健康状態について触れておくべきだったと思う。(あるいは、そのようなことは今の日本では常識的な知識だから割愛したということかもしれない。また、この時代には、まだそのような認識ではなかったかということなのかもしれないが、それならそうで、ナレーションなどで、説明があってしかるべきである。強いていえば、女性の流産は原爆の影響という理解になるかもしれない。)

それから、証人として登場することになった女性の描き方にも、疑問がある。原爆裁判は、被爆者である人びと全体を代表してのものであると、私は理解して見ていたのだが、よねが言った台詞が気になる。この社会は、声を上げる女性に石をなげる……と言っていたのだが、これは被爆者の立場を、社会における(弱い)女性の立場にすりかえている(ことばとしては確かに正論ではあるのだけれど)。原爆の被害に、男性も女性もないはずである。ここで描くべきだったことは、被爆者ということで、その当時、いわれのない差別と偏見に苦しむことになった人たちの(男女問わず)、その姿であり気持ちではないだろうか。そのためには、まず轟とよねが広島に行って、原告である、またそれ以外の被爆者の人たちと会ってくるということだったと思える。

ここで思い出すのは、以前の『エール』である。『エール』では、主人公の古山裕一は、長崎に旅して、病床にあった永井隆に逢いに行っていたことである。その体験から『長崎の鐘』が生まれた。

ドラマは史実と違ってもいいとは思うが、このようなところは、(事実がどうであるかは知らないけれども)改変があってもいいところだと、思っている。歴史のうえでは、原爆裁判と併行して、広島平和記念公園ができ、原爆ドームの保存について議論があった時代になる。原爆医療法もこの時期にできている。轟とよねが、広島に行って原爆ドームの前でそれを見つめるシーンがあってっもよかった。(広島ロケをおこなうのに、そんなに番組制作のコストがかかるとは思えないのだが。)

航一の息子の朋一が裁判官として長崎に赴任しているということだったので、これは、寅子たちが長崎に行って……例えば、朋一が結婚して式を長崎でするとか……被爆被害に接する伏線かとも思っていたのだが、そういうことはなかった。よねや轟と接触することは問題があるとしても、寅子が長崎に行くことについては、裁判の原告と会って話しをするようなことがなければ、特に問題はないだろうと思うのだが、どうなのだろうか。

ドラマのなかの原爆裁判で、この裁判の意義や難しさを一番強く表現していたのが、被告である国側の代理人であり鑑定人の法学者であった(私はそのように感じるのだが)、というのはそう意図して作ったわけではないだろうが、なんとなく皮肉に思える。

裁判の判決文は、事実をふまえたものだということだが、しかし、裁判においてどういう議論があって、あの判決にいたったのかその過程がまったく見えない。裁判官を主人公としたドラマということは、普通の市民からは見えないはずの、このプロセスの部分が描けるということであるはずだが、そこを放棄してしまっている。

星の家のことも気になる。

(現代的な言い方をすれば)百合の認知症がすすみ、家族はその介護に翻弄されることになる。

私が気になったこととしては、寅子の娘の優未のことである。星の娘ののどかに暴力をふるって(足で蹴って)家を出てしまう。結果としては、山田轟法律事務所にいたのだが、そのシーンが問題である。

まず、寅子は、そう簡単に山田轟法律事務所には行けないはずである。担当の裁判官と、原告側の弁護士である。接触は極力避けるべきであろうし、よねもそのように寅子に言っていた。よねから星の家に電話してくれたようなのだが、だからといって、寅子が自分で出かけて行っていいわけではないだろう。家政婦さんなどが、行くべきところかと思う。

ここで寅子がした行為が理解できない。まず、ドアの外での立ち聞きである。

このドラマが始まった当初、カフェー燈台で、よねの素性について、よねのことを、よねのいないところで、よね以外の人から聞くのはよくない……ということを言っていた。このことは、世評では絶賛されたところである。このような主義をつらぬくならば、ドアの外での立ち聞きは、決してあってはならないだろう。朝ドラでは、立ち聞きで話しがすすむということはよくあることなのだが、このドラマでは、それはしない方針なのだろうと思っていたが、そうではなかったことになる。

その後、寅子は拍手してドアを開けて階段を降りてきた。これが、家出した娘を心配した母親のすることだろうか。このあたりの描写が、どうにもこのドラマに納得できないところである。家出した娘のことを思う母親の気持ちというのを、どう描けばいいのか。いろいろとあるだろうが、拍手については、どうしてそんな行動になるのか理解できない。

山田轟法律事務所のドアの外で、中にいる人の話し声を立ち聞きするというのは、原爆裁判を担当している裁判官として、まずあってはならないことであろう。話しを聞くまで、そこで誰が何を話しているのか、分からないからである。

現実に子どもの親であることと、裁判官であるということは、時として矛盾し対立し葛藤があることかもしれない。特に家庭裁判所にかかわることになる法律家を描くとなると、このこころのうちの問題こそ、もっともドラマとして描くべきことのように思える。であるならば、優未が家出して迎えに来るシーンは、それなりの意味のあることだと思う。悪いこと……この場合は、家族に暴力をふるって家出した……をした少年/少女に、どう向き合うべきなのか、親として思うことと、裁判官として法律的にどう考えるべきか、まず寅子自身が、自省すべきことのはずだが、そのようなことを思った形跡はまったくなかった。

法律事務所では、遠藤が、優未に、口や手を出したら、その責任をとらなければならない、という意味のことを言っていた。これはこれで、正論なのであるが、台詞として空回りしている。遠藤が、なぜ、そのようなことを語るのか、その背景描写が、これまでまったく無かったからである。ただ、その場に居合わせた大人として言っているだけのように思えてならない。その台詞の背後にあるべき人物造形が欠落している。ドラマにおいて、台詞がなにがしかの説得力をもつのは、どのような人物が語るか、ということに大きく依存する。その台詞を、そのような人物が語るこそ生まれる説得力がある。服装や立ち居振る舞い、話し方をふくめて、ここにいたるまでの人物造形が、このドラマでは、まったくの手抜きであるとしかいいようがない。(ここを強いて想像すれば、自分たちのような同性愛者は社会からさげすまれてきた。しかし、そんな自分たちであっても……とあればよかったところかもしれない。だが、これもドラマのなかの描写では、梅子から、あの二人はすばらしい、と言われているので、どうかなとなってしまう。)

これは、前の週でもあった。裁判所で、小橋が中学生相手に話したことである。ここでも、小橋はいいことを言っていたのだが、その台詞のバックボーンとなる人物造形が無かったことが、ドラマの流れのなかで、あまり意味のない台詞にしてしまっていた。要するにこのドラマの作り方が下手なのである。

それにしても、このドラマは、裁判官の仕事を描かない。法廷以外のところで、どんな仕事をしているか、このようなドラマでこそ描けることが多いと思うのだが、まったく無視している。桂場がお団子を食べるシーンよりも、どんな仕事をしているかを描くべきである。でなければ、最高裁判所の判事になるという経緯が理解できない。

このドラマ、始まったころ(はじめのころは面白かった)の密度で描くとするならば、桂場のオフィスに政治家(とおぼしき人物)がやってきて、裁判をはやく終わらせるように……という意味のことを話す……このようなシーンを作ってあったはずである。それが、ドラマの終盤になって、いろんな理由はあるのだろうが、竹もとでの台詞だけで片づけられている。このシーンのために桂場のオフィスを作ることは、番組制作の都合上無理だったということなのだろうか。しかし、それにしても、裁判にかかわることは、竹もとの座敷で、他に一般のお客さんもいるところで、声に出して話すべきことではない。

航一の娘ののどかのこともある。この時代、大学にすすんで英文学を勉強して、銀行に勤めて、という経歴は、おそらくトップクラスの働く女性である。仕事としては、お茶くみだったかもしれないが、しかし、このような女性の存在があって、今の女性の働き方がある。しかし、このドラマでは、のどかを働く女性の一人としてきちんと描こうとしているようには見えない。これは、働く女性の歴史に無頓着であるとしか思えない。

美術に関心のあったのどかが、英文学から学ぶこともあったはずだと思うが、不本意に自分の進路を決められたということになっていた。大学の英文科は、現在では実用英語に主流になっているが、その当時は文字通り文学について学ぶことが基本であった。美術が芸術であり、文学も芸術であるという意識が、このドラマの作者にはないのだろうか。この時代まで、日本でも、文学者、小説家は、芸術家であった。このドラマは、文学に対する偏見である。いや、文学や芸術についての見識の不足というべきである。(どうしても、英文科が嫌いということはあったかもしれないけれど。しかし、芸術について学ぶ機会は多くあったはずである。)

先週も書いたことだが、このドラマで、働く女性として寅子が対等の視線で見ていたのは、裁判所の後輩の判事補の秋山ぐらいである。今週になってもう消えてしまったようだが。よねは、弁護士であるが女であることを捨てたという設定である。お団子屋の竹もとの老夫婦も働く女性である。梅子も今はそうである。だが、このドラマのなかでは、これらは働く女性(寅子と同等)という視線では見ていない。(少なくとも私にはそのように見える。)

また、時代の世相を描かない。原爆裁判の終わった昭和三八年は、東京オリンピックの前年である。東京の街は、そのころどんなであったか。まったく出てこない。

歴史に無頓着なままで、今では歴史となってしまった、しかし、現在の生活に連続する昔の時代のことを、きちんと描けるはずはない。働く女性も、女性の権利も、また、性的マイノリティの権利も、歴史のなかで考えなければならないことであると私は思っている。

寅子が、百合を介抱するとき、困っている人をみすごすことはできない、という意味のことを言っていた。ドラマのなかでは原爆裁判のことを念頭においてのことだったと思える。しかし、以前、東京で家庭裁判所の仕事をしていたとき、離婚の件で、私は困っている、助けてほしい、と言った女性に対して、きわめて冷淡であった。結局、その女性は裁判所内で刃傷沙汰におよぶことになったのだが、寅子は、あの女性が言ったことは、どう受けとめることになったのだろうか。少なくとも、困っている人に手を差し伸べなければ、こじらせて事件になるかもしれない、ということについて、その後の新潟のことをふくめて、学んで成長したということは、なさそうに見える。ただのエピソードとして、消費されてしまったとしか思えない。

その他、道男と梅子のこととかいろいろあるが、これぐらいにしておきたい。

2024年9月7日記