「ゲッベルス 狂気と熱狂の扇動者」2024-09-05

2024年9月5日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ゲッベルス 狂気と熱狂の扇動者

現代社会では(少なくとも日本では)「プロパガンダ」ということばは悪いイメージのことばになっている。おそらく、この悪いイメージからなるべく離れて距離を置いて、歴史や社会、その中に生きる人間というものを考えてみる必要がある。そして、そのうえで、プロパガンダの手法についての冷静な分析が重要だろう。人間とメディアの関係を、歴史としてふりかえる必要がある。

番組の冒頭で言っていたこと、プロパガンダはそれをプロパガンダと気づかせないようにしなければならない……これは至言であると思う。この意味では、これは左翼の(あるいは右翼でもいいが)のプロパガンダだと、言い合っているうちは、まだしも平穏無事ということになるかもしれない。

ヒトラーの手法については、メディア史の方面から膨大な研究があるはずで、その一部は、今では手軽に読めるものとして本になっているかと思う。

ゲッベルスの事跡を研究すること、プロパガンダの歴史を明らかにすることは、視点をかえると、それにだまされた無辜のドイツ市民という構図になる。やはり、ここでは、だまされたとしても、だまされた側に責任はないのか、という論点を設定して考えてみることは意味があると、私は考える。ただプロパガンダがたくみであった、市民はバカであった、という図式で歴史を描くことは、無理がある。

ドイツの場合は、ナチの思想が明確であり(その是非は別にして)、それを普及するためのプロパガンダについても、ゲッベルスは自覚的であったというべきだろう。それを、同じように日本にもあてはめて考えることができるかどうかは、また異なるかと思う。

同じことは、昭和戦前の日本についてもいえることである……と一般に言われる。軍部が悪い、政治家が悪い、ジャーナリズムも悪い、日本国民はだまされていたのである、という歴史観……これが今にいたるまで昭和史を語る常道になっているが……これは、司馬遼太郎の語ったことにも通じることである……統帥権という魔物ということになる……から、距離を置いて考えることも必要であると私は思うのである。ドイツのように明確な思想と、プロパガンダについての自覚が、政府や軍部にあったかどうかは、議論の余地があるだろう。そうはいっても、確かに昭和戦前の時期は、かなり言論が制限された時代であった。日本の言論、表現、思想の歴史については、日本なりの事情があったことになる。

ゲッベルスがやったように日本国民はだまされていた、ということではなく、日本における言論の歴史は、別に考えなければならないことだと思う。それを「空気」といっていいかどうかは分からないが、一つの見方であるとは思う。少なくとも、日本の場合、プロパガンダが悪いといって説明できることではなかっただろうと思っている。

2024年9月4日記

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