「われらの再出発〜失業サラリーマンたちの6か月〜」2024-09-13

2024年9月13日 當山日出夫

時をかけるテレビ われらの再出発〜失業サラリーマンたちの6か月〜

番組とは関係ないことかもしれないが、最近、ふと思いたって、金成隆一『ルポ トランプ王国ーもう一つのアメリカを行くー』(岩波新書)、『ルポ トランプ王国2ー ラストベルト再訪ー』(岩波新書)、『記者、ラストベルトに住むートランプ王国、冷めぬ熱狂ー』(朝日新聞出版)、を読んでみた。ちょっと古い時期、トランプ前大統領が大統領になる前となってからの、アメリカのラストベルト地域を取材したものである。(たぶん、アメリカの大統領が次に誰になろうと、これらの本で書かれたアメリカの人びとの生活は変わらないだろうと思う。)

これらの本を読んで思うことは多くあるが、その一つには、労働者が働くことに誇りを持てることの意味、ということを強く感じる。両手で働けば、家族がやしなえる、老後の生活もできる、家が持てる、そして、その仕事は、国家や地域のために役にたつものである。このような素朴な労働についての感覚と、それをささえるいろんな事情……社会や産業の構造……が崩壊して、自分たちが忘れ去られていると感じるようになったとき、社会の危機になる。それが、今のアメリカ社会の根底にはある。

日本であるが、番組のなかで登場したような人びとは、職を失ったとはいえ、社会のなかで、働くことの意義を見失ってはいない。だから、職業訓練にはげみ、次の就職先を求める。(アメリカのように麻薬が蔓延しているということではない。)

最近、つかわれるようになったことばに、リスキリングがある。ざっくりいえば、解雇しないかわり、新しい職業技能を身につける、そうでなければこれから会社のなかで生きのこってはいけない、ということになる。たしかに、社会の産業構造の変革のなかで生きのこっていくのは大変だろうと思う。(もう自分ではリタイアした身と思っているので、傍観しているということになってしまうのだが。)

今の日本で一番必要なのは、労働者……ホワイトカラーであれブルーカラーであれ……その仕事に自信と誇りをもてるかどうか、であろう。

年収いくらで人間の価値を査定してしまうような世の中になってきている。年収があればそれにこしたことはないとは思う。しかし、それを、人間の幸福の尺度にしてしまっていいものだろうかとも思う。

この社会の中で人間が働いて生きて行くことの充足感、自己肯定感、というものが、最も求められていると、私は思う。この番組の放送された、一九九七年のころには、バブル経済の崩壊ということはあったが、今日のような、なんともいえない閉塞感はなかったように、私としては回顧することになるのだが、どうだろうか。

見終わって、日本もまだこの時代は良かったなあ、と感じたというのが、率直な感想ということになる。

2024年9月9日記

「虹の灯が照らすのは、 “同性婚”法制化 台湾の今」2024-09-13

2024年9月13日 當山日出夫

BSスペシャル 「虹の灯が照らすのは、 “同性婚”法制化 台湾の今」

台湾で同性婚が法制化されて五年になる。それにいたる経緯とその間のことがについて取材したものである。

そのように番組を作ってあるというところを考慮してみても、日本の場合と比べていくつか思うことがある。

まず、日本だと、LGBTQのことは、政治の問題として、政権を攻撃する材料に使われているという側面がどうしてもある。当事者の人びとには、そのような意図はないのかもしれない。しかし、報道などで見る限りであるが、反政府のために、その主張を利用している……という印象をどうしても持ってしまう。これは、本来ならば人権の問題として考えなければならないことについては、マイナスでしかないと思う。

無論、歴史的には、人権の主張ということは、時の政権に対する抵抗であったということはある。フランス革命がまさにそうである。だが、二一世紀の今日において、普遍的な理念としての人権が、政治の道具になってしまうのは、もうそろそろ終わりにしてもいいのではないかとも思うところがある。(ただ、世界のなかには、独裁的で人権が抑圧されている国が少なからずあるということは確かではあるのだが。少なくとも日本では、もう次の段階で考えるべきだろうと私は思う。)

同性婚ということは、それを家族として承認してほしいということである。この番組のなかで見る限りであるが、台湾は家族を大事にする国である。日本で同性婚を求める動きにも、同性愛を社会的に認知してほしいということと同時に、その人たちで家族を作りたいという希望があるものと、私は理解している。ここでは、家族というものが、人間の生活のなかで肯定的にとらえられていることになる。

一方、日本の場合だが、家族の歴史をふり返ってみると……明治以来の家や家父長制に変わるものとして、戦後になってから、夫婦と子どもを基本の単位とする家族が重視されるようになった。それが、近年になって、家族がむしろ個人としての人間を抑圧するものとして考えられるようになってきている。こども家庭庁が出来るとき、「家庭」のことばが入ることに強い抵抗があった。

同性愛だからといって結婚する必要はない、といえばそれまでであり、選択肢の一つとして、法的に認められた結婚の制度があってよい、とはいえるだろう。多数の愛人(?)とつきあう、独身主義の同性愛者がいても、別におかしくはない。

前にも書いたことだが、人間の性については、私は基本的に次のように考えている。

人間の性自認、性的指向は、基本的に生得的なものであって、自分で選ぶことのできないものである。大多数は異性愛であるが、なかに例外的に少数の同性愛の人もいる。それは、自分の意志で選択してそのようであるのではない。自分の意志ではどうにもできないこと……まず、男性に生まれるか女性に生まれるか、性的指向はどうなのか……さらには、どの国や地域に生まれるか、どんな親のもとに生まれるか、その肌の色はどんなであるか……ということについて、不利益をこうむることはあってはならない。だから、男女は平等であるべきであり、性的マイノリティも差別されてはならないし、人種差別はあってはならない。

これに対して、人間は自分の性自認や性的指向を、個人の自由意志で選ぶことができる。個人の自由意志は、この世でもっとも尊重されるべきものである。自由意志で選んだ自分の性自認や性的指向について、他者から干渉されるべきではない。だから、人間は自由に性的に生きる権利があり、それによって差別されることはあってはならない。

ざっと、このように考えることができるだろう。人間の自由意志とは何かということについては、哲学的に問題のあるテーマであるし、また、行動科学などの知見から自由意志とは何かという問題もある。そして、人間の性(ジェンダー)は、文化的な要素をふくんでいる。このことについては、緻密な理論構成が必要になってくるはずである。

また、家族のあり方というのも、歴史的文化的に大きなバリエーションがある。夫婦と子どもからなる家族というものも、たまたまそうであるだけのことである。

このようなことを思って見るのだが、台湾で同性婚についても、それなりの歴史があってのことである。いきなり天啓として理想が出現して、実現したというものではない。この歴史のなかに刻まれた人びとの思いの蓄積こそが、重要である。

また、私の知っている範囲では、日本ではほとんど議論されることのないことだと思うのだが、同性愛の子どもをもった親たちに対するサポート体制があることは、きわめて重要である。ただ、LGBTQの権利を主張するだけではなく、それに違和感を持たざるをえない人びとが存在することをふまえて、現実的な対応をさぐるべきだろう。こういう視点をもたない運動は、ただそれが自己目的化して終わってしまいかねない。日本だと、LGBTQに対する違和感をいだくことが、正しくないことであるとされ、さらには、それは遅れている、間違っているのだと攻撃されかねない。そして、それに対する反動が強まる。これでは、本当に世の中を変えていく気があるのだろうかと、思ってしまう。

2024年9月10日記