「ウェイリー版“源氏物語” (3)「源氏物語」と「もののあはれ」」2024-09-19

2024年9月19日 當山日出夫

100分de名著 ウェイリー版“源氏物語” (3)「源氏物語」と「もののあはれ」

この回は面白かった。

「もののあはれ」ということばは、本居宣長が言ってから『源氏物語』を読むときのキーワードといってよい。近代的な文学の読み方を、日本の歴史、文学史にどうもとめていくかというのは、難しい問題ではあるのだが、本居宣長が一つの重要な存在であることはたしかである。確かに『源氏物語』を読むとき、本居宣長の延長線上で読んでいる、というのは自分自身でも感じるところである。

といって、本居宣長の時代から今にいたるまで、『源氏物語』がそのように読まれてきたかというとそうでもない。『源氏物語』は、朝廷を舞台にした不義密通、姦淫のものがたりであり、不道徳である、という評価が近代になってからも続いていた。いや、このような時代の方が長かったのかもしれない。近代になって、国文学という学問の成立、そのなかで『源氏物語』が読まれるようになったこと。与謝野晶子や谷崎潤一郎の現代語訳が出版されたこと。など、いろんなことがあって、少なくとも戦後になってからは、『源氏物語』が日本の古典文学のなかで最高峰の位置をしめるようになった。

『源氏物語』の魅力は、心理描写にある……ここのところは、おそらく『源氏物語』が、一〇〇〇年にわたって読み継がれ、また、世界の人びとに読まれている理由である。時代や文化的環境などは変化していっても、人が人を思う気持ちを深く掘り下げて描くということには、普遍性がある。その普遍性に達したのが『源氏物語』ということになる。

六条の御息所は、『源氏物語』のなかでは、かなり特殊な存在である。生き霊になって、葵上を殺してしまう……という理解になる。その六条の御息所のこころのうちを、どう描くかということは、興味深い。それを、この回は、能楽ではどうかということで説明してあった。こういうのも、一つの方法だと思う。

2024年9月17日記

「淡路島 真夏のサービスエリアで」2024-09-19

2024年9月19日 當山日出夫

ドキュメント72時間 淡路島 真夏のサービスエリアで

かなり昔のことになるが、淡路島までフェリーで渡ったことがある。短い距離だが、東西方向に行き交う船がたくさんあるなかを、南北方向に交差するかたちで渡っていくことになる。これは、きわめて巧みな操船技術がいることになると、感心して周りの景色を見ていた。

明石海峡に橋が出来てからは、この道を通ったことはない。淡路島に行ってみたいと思っている。淡路人形浄瑠璃を見たいのである。(学生のとき、東京の国立劇場の公演を見たことがある。)

このごろは、高速道路のサービスエリアもいろんなサービスが充実してきている。ここには、観覧車もある。(乗ってみたいとは思わないけれど。)

いろんな人がいるものである。様々な人生の喜怒哀楽が、この七二時間に凝縮されているように感じる。この回は、劇的にドラマチックな人生を歩んできた人というのは登場していなかったと思うが、普通の人びとの普通の感性が感じられる。

自家用バスで、同窓の仲間と旅行してまわるというのは、かなり贅沢といっていいだろう。そんなにお金のかかることではないと思うが、こういう仲間が身の周りにいるということは、いいことだと感じる。

私の興味でちょっと気になったのは、四〇才ぐらいの男性が、自分の配偶者(女性)を「よめ」と言っていた。この言い方、ここ一〇年ぐらいで、よく耳にするようになった。私は、このことばを使わない。私としては、やはり、「よめ」というのは、自分の子ども(男性)の配偶者(女性)という意味である。NHKとしても、このことばは、まだ認めていない(?)のか、字幕では「妻」となっていた。

2024年9月16日記