『べらぼう』「小生、酒上不埒にて」2025-06-09

2025年6月9日 當山日出夫

『べらぼう』「小生、酒上不埒にて」

見終わって、さりげなく台詞の中で言っていたことが気になって、WEBで検索してみた。検索した項目は、蠣崎波響、である。「絵などを学んででおる」と言っていた。この台詞が気になった。(このことが分かった人がどれぐらいいるだろうか。)

蠣崎波響の名前で一般には知られている。この人物が、松前廣年、である。

中村真一郎の『蠣崎波響の生涯』は出た時に買って読んだ本である。『頼山陽とその時代』『木村蒹葭堂のサロン』、これらも出た時に買って読んだ。

つまりは、非常に凝った脚本になっている。分かる人には分かる、だが、もしそれを知らなくても、十分に楽しめる。こういう懐の深いドラマは、見ていて楽しい。

江戸の戯作者たちを描いているのだが、この時代、戯作を本業とする職業作家は存在しない。みな、何かの本業を持っていて……れっきとした武士であったりする……その余技としての戯作である。ドラマの中では、本業のことについては、極力触れていない。恋川春町が表に出るときは武士の恰好で刀をさしている、その屋敷もなかなかのものらしい、というぐらいの描写にとどめている。この時代、戯作者どうしとしても、その本業のことについて、どうのこうのというのは、まったくの野暮ということであったろう。このドラマの作り方としても、恋川春町の正体(?)については、終わってからの紀行で言及するにとどめている。

その恋川春町の面倒くさい人物像が、実に魅力的に描かれている。

江戸時代、『小野篁歌字尽』が広く読まれ、そのパロディが作られたことは、近世文学、あるいは、日本の漢字の歴史について知識のある人なら知っていることである。もっとも有名なのは、(全部ひらがなで書くことにするが)『おののばかむらうそじづくし』かと思うが、これ以外にもある。その一つが、(これも全部ひらがなで書くと)恋川春町の『さとのばかむらむだじづくし』である。とにかく江戸の戯作のタイトルは、使われた漢字自体が、とても面倒なのである。

これらの本を見ようと思えば、今ではWEB公開の画像データで見ることが容易になった。

こういう漢字の遊びは、まさに日本ならではのことであると思うし、それだけ、江戸時代の戯作の読者層は、漢字についての知識があったということである。このような、いわゆる創作漢字の遊びは、現代でもおこなわれている。(こういうところまでふくめて、漢字について研究なのであるが、もう、私としてはリタイアしたところである。)

誰袖がとてもいい。以前に登場していた瀬川も魅力的であったが、花魁というのをこのように描くというのも、これはよく考えて作ってあると感じるところである。特に目元のアップの映像が非常に魅力的である。

そして、この回の演出は、極力暗く作ってある。普通は、テレビのドラマの映像は明るく作るのだが、この回で日中の太陽光のもとで人が動いていたのは、吉原での餅つきのシーンぐらいだった。極力暗くつくった画面のなかで、登場人物の表情が分かるようにしてある。このような暗さのなかでこそ、誰袖の妖艶な美しさかが際立つ。誰袖の魅力を最大限に引き出すために、あえて全編を暗く作ったかと感じるぐらいである。

これは今後の伏線なのかと思うところが……作者の個性ということである。この時代、近代的な個人……近代的な自我を持つものとしての……の個性ということは、人びとに受け入れられるものではなかった。その証拠になるのが、このドラマで、これから出てくるであろう、喜多川歌麿の美人画であり、東洲斎写楽の役者絵である。今でこそ、描かれた人物の内面に迫る絵画表現として高く評価されているのだが、同時代においては、さほど広く人びとに受け入れられるものではなかった。(結果的には、紙くずになって、海外に流出した。)

戯作という文学についても、これも、近代的感覚でいう個性というものを発揮するものではなかった。アイデアがあれば、パクってかまわないものであり、要は面白ければよかった。そのなかにあって、自分だけにしか書けない、描けない作品とは何なのか、というあたりを模索する作者(戯作者、絵師)を、どう人物造形するかということが、非常にむずかしいところだろう。この意味では、恋川春町、歌麿、これらの登場人物が、その後の近代の目をとおして見ることになる、近世の作者ということを、うまく出していると感じられる。

とはいっても、この時代の出版とか、戯作者やその読者たちの背景に、どのような教養を想定して見ればいいのか、ということについては、かなり割りきって脚本が作ってあると感じるところではある。

この回の演出では、キセルが多くつかってあった。これは、今の日常生活から姿を消してしまったものである。煙草とキセル、ということになると、山東京伝のことをどう描くかということで、気になる。

恋川春町は、戯作について「ただのあそび」と言っていた。そのとおりである。あそび、つまり非日常のことであるからこそ、日常の生活がどうであったかということにもなる。この江戸の人びとの日常がどんなであったか、それが、見るものの想像力にまかされていることになる。この意味では、このドラマは、見る人によって、いろんな楽しみ方があることになる。

2025年6月8日記

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