映像の世紀「ヨーロッパ 2077日の地獄 第2部 独ソ戦 悲劇のウクライナ 1941-1943」 ― 2025-08-02
2025年8月2日 當山日出夫
映像の世紀 高精細スペシャル ヨーロッパ 2077日の地獄 第2部 独ソ戦 悲劇のウクライナ 1941-1943
第二次世界大戦における独ソ戦のことが、大きくとりあげられるようになったのは、やはり、『独ソ戦』(大木毅、岩波新書、2019年)のことが大きく影響しているだろう。また、この回で、ウクライナのことを主にとりあげているのは、現在の、ロシアによるウクライナ侵攻をうけてのことになる。
だが、第二次世界大戦で、ドイツとソ連(ロシア)との間で悲劇的であったのは、ポーランドだろう。ウクライナは、ウクライナとして一定の領土があったことになるが、ポーランドは、歴史のなかで姿を消してしまった(消された)こともある。あるいは、独自の立場であった国としては、ハンガリーも重要かもしれない。東欧の諸国は、ドイツとソ連(ロシア)の間で、苦渋の歴史を味わってきた地域といっていいだろうか。現在、EUのメンバーになったからといって、さて、どうなのだろうか、ここは、専門家の説明がほしいところである。
ウクライナをめぐっては、穀倉地帯として、ドイツとソ連(ロシア)の双方からねらわれたということになるだろう。自活できる経済圏を確保するためには、ここはどうしてもおさえておきたいことになる。(まあ、だからこそ、現在のロシアによるウクライナ侵攻ということもあるのだろうと思うが。)
ドイツ軍によるソ連との戦いは、1946年の冬が一つの山場であったことになる。モスクワを目指して進軍していったドイツ軍は、冬の寒さに負けたといっていいのだろう。冬用の装備が十分でなかったこともある。
これを日本から見るならば、日本が、太平洋戦争としてアメリカを相手に戦端をひらいたのが、1941年の12月であるのだが、これが、もし数ヶ月後のことであったら、どうなっていたか。対ソ連戦で攻めあぐねているドイツを見て、それでも、アメリカ相手に開戦にふみきったかどうか。日本の判断としては、ドイツがソ連を屈服させる(ヒトラーがスターリンに勝つ)ということに期待をかけて、対アメリカ戦を考えたということもある。
しかし、石油の禁輸ということで、日本がその後の数ヶ月を耐え忍ぶことができたかどうか、ということは、また別の問題であるにちがいない。対外強硬論にはしる世論、マスコミを、どう懐柔できただろうか。
ともあれ、ウクライナの人びとは、とてもかわいそうであった、ということはよく分かる。だからといって、ウクライナが、ずっと昔から統一的に統治されてきた国民国家であったかどうか、ということは、また別の議論になるかとも思う。(結果的に、今般の、ロシアによるウクライナ侵攻によって、ウクライナという国民国家をより強固なものとして作ってしまったということは、いえそうである。)
国民国家を象徴するのが、国立の戦争博物館の存在であり、国家による英霊祭祀、である。この観点で見ると、ともに現代の日本でかけていることになる。このあたりが、現代の日本の国家としてのあり方を考えるときの、一つのポイントかとも思う。
ウクライナを象徴するのが、一面のひまわり畑である……まあ、私の記憶でも、ソフィア・ローレンは、良かったと感じるのであるけれど。
2025年7月31日記
映像の世紀 高精細スペシャル ヨーロッパ 2077日の地獄 第2部 独ソ戦 悲劇のウクライナ 1941-1943
第二次世界大戦における独ソ戦のことが、大きくとりあげられるようになったのは、やはり、『独ソ戦』(大木毅、岩波新書、2019年)のことが大きく影響しているだろう。また、この回で、ウクライナのことを主にとりあげているのは、現在の、ロシアによるウクライナ侵攻をうけてのことになる。
だが、第二次世界大戦で、ドイツとソ連(ロシア)との間で悲劇的であったのは、ポーランドだろう。ウクライナは、ウクライナとして一定の領土があったことになるが、ポーランドは、歴史のなかで姿を消してしまった(消された)こともある。あるいは、独自の立場であった国としては、ハンガリーも重要かもしれない。東欧の諸国は、ドイツとソ連(ロシア)の間で、苦渋の歴史を味わってきた地域といっていいだろうか。現在、EUのメンバーになったからといって、さて、どうなのだろうか、ここは、専門家の説明がほしいところである。
ウクライナをめぐっては、穀倉地帯として、ドイツとソ連(ロシア)の双方からねらわれたということになるだろう。自活できる経済圏を確保するためには、ここはどうしてもおさえておきたいことになる。(まあ、だからこそ、現在のロシアによるウクライナ侵攻ということもあるのだろうと思うが。)
ドイツ軍によるソ連との戦いは、1946年の冬が一つの山場であったことになる。モスクワを目指して進軍していったドイツ軍は、冬の寒さに負けたといっていいのだろう。冬用の装備が十分でなかったこともある。
これを日本から見るならば、日本が、太平洋戦争としてアメリカを相手に戦端をひらいたのが、1941年の12月であるのだが、これが、もし数ヶ月後のことであったら、どうなっていたか。対ソ連戦で攻めあぐねているドイツを見て、それでも、アメリカ相手に開戦にふみきったかどうか。日本の判断としては、ドイツがソ連を屈服させる(ヒトラーがスターリンに勝つ)ということに期待をかけて、対アメリカ戦を考えたということもある。
しかし、石油の禁輸ということで、日本がその後の数ヶ月を耐え忍ぶことができたかどうか、ということは、また別の問題であるにちがいない。対外強硬論にはしる世論、マスコミを、どう懐柔できただろうか。
ともあれ、ウクライナの人びとは、とてもかわいそうであった、ということはよく分かる。だからといって、ウクライナが、ずっと昔から統一的に統治されてきた国民国家であったかどうか、ということは、また別の議論になるかとも思う。(結果的に、今般の、ロシアによるウクライナ侵攻によって、ウクライナという国民国家をより強固なものとして作ってしまったということは、いえそうである。)
国民国家を象徴するのが、国立の戦争博物館の存在であり、国家による英霊祭祀、である。この観点で見ると、ともに現代の日本でかけていることになる。このあたりが、現代の日本の国家としてのあり方を考えるときの、一つのポイントかとも思う。
ウクライナを象徴するのが、一面のひまわり畑である……まあ、私の記憶でも、ソフィア・ローレンは、良かったと感じるのであるけれど。
2025年7月31日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2025/08/02/9793355/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。