木村多江のいまさらですが「小泉八雲〜怪談 日本の面影を訪ねて〜」 ― 2025-10-01
2025年10月1日 當山日出夫
木村多江の、いまさらですが… 小泉八雲〜怪談 日本の面影を訪ねて〜
NHKも小泉八雲関係の番組をいろいろと作っている。作るセクションが異なれば、違った見方があっていい。その中で、この番組は、あえてNHKのメインストリームから離れたところから、ものを見ようとしている。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲の伝記的なことについては、すでに多くのことが知られているし、特に謎があるというわけではない。あまり一般に知られていなこととしては、強いていえば、故郷のギリシャでのおいたちから、日本に来るまでにどんなことがあったか、というところだろうか。
この意味で、日本に来る前にアメリカで、(今でいう)多文化共生、番組の中で言っていたことばとしては、クレオールの文化にふれることがあった、ということは確かだろう。だが、これも、視点を変えると、そもそもアメリカがそういうなりたち(いろんなところから人があつまってできた)の国であるということと、同時に、一方で、(この時代であれば)WASPの国であって、有色人種(黒人)は差別されていた、というよりは、さらには人権など認められていなかった時代であった、ということもある。こういうことについては、番組では言っていなかった。
そういうことがありながら、なぜ、ラフカディオ・ハーンは、日本にやってきて、有色人種に対する偏見ということを持っていなかったのか(少なくとも、書き残したものからはうかがえないようである)、ということが大きな問題だと思うのだが、どうだろうか。
小泉八雲について語るとき、私が見るところでは、おうおうにして抜け落ちてしまう部分がある。松江にいたのは二年にも満たない。その後、熊本の五高に行き、東京では東大で教えている。その著作の多くは、その人生の後半に書かれたものである。松江や出雲での体験は貴重なものだっただろうが、しかし、それだけで、小泉八雲の事跡を語るのは、かなり無理がある。むしろ、五高から東大という、その当時の日本における、最高レベルの高等教育機関で教えたことの中で、何を感じて何を考えたのか、ということを、総合的に見なければならないはずである。小泉八雲は、日本の近代をどう思っていたのだろうか。
それは、日本では、「坂の上の雲」の時代であったと同時に、『三四郞』の広田先生が言ったように、「日本はほろびるね」という視点もあった時代でもある。さらにこの時代は、「忘れられた日本人」がまだ日本の主流の人びとであった時代でもある。「逝きし世の面影」が十分に残っていた時代でもある。
明治の日本を見た外国人(西洋人)としては、イザベラバードやチェンバレンなどが思いうかぶ。『古事記』についてふれるなら、チェンバレンのことについてもいっておくべきだろう。
最後に、GHQのボナー・フェラーズのことにふれて、小泉八雲の仕事が、戦後の日本の統治、特に天皇制を残したことに影響があったとするのは、そういう一面もあるだろうが、これは、GHQの日本統治と戦後処理についての、総合的な判断というべきことだろう。
2025年9月30日記
木村多江の、いまさらですが… 小泉八雲〜怪談 日本の面影を訪ねて〜
NHKも小泉八雲関係の番組をいろいろと作っている。作るセクションが異なれば、違った見方があっていい。その中で、この番組は、あえてNHKのメインストリームから離れたところから、ものを見ようとしている。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲の伝記的なことについては、すでに多くのことが知られているし、特に謎があるというわけではない。あまり一般に知られていなこととしては、強いていえば、故郷のギリシャでのおいたちから、日本に来るまでにどんなことがあったか、というところだろうか。
この意味で、日本に来る前にアメリカで、(今でいう)多文化共生、番組の中で言っていたことばとしては、クレオールの文化にふれることがあった、ということは確かだろう。だが、これも、視点を変えると、そもそもアメリカがそういうなりたち(いろんなところから人があつまってできた)の国であるということと、同時に、一方で、(この時代であれば)WASPの国であって、有色人種(黒人)は差別されていた、というよりは、さらには人権など認められていなかった時代であった、ということもある。こういうことについては、番組では言っていなかった。
そういうことがありながら、なぜ、ラフカディオ・ハーンは、日本にやってきて、有色人種に対する偏見ということを持っていなかったのか(少なくとも、書き残したものからはうかがえないようである)、ということが大きな問題だと思うのだが、どうだろうか。
小泉八雲について語るとき、私が見るところでは、おうおうにして抜け落ちてしまう部分がある。松江にいたのは二年にも満たない。その後、熊本の五高に行き、東京では東大で教えている。その著作の多くは、その人生の後半に書かれたものである。松江や出雲での体験は貴重なものだっただろうが、しかし、それだけで、小泉八雲の事跡を語るのは、かなり無理がある。むしろ、五高から東大という、その当時の日本における、最高レベルの高等教育機関で教えたことの中で、何を感じて何を考えたのか、ということを、総合的に見なければならないはずである。小泉八雲は、日本の近代をどう思っていたのだろうか。
それは、日本では、「坂の上の雲」の時代であったと同時に、『三四郞』の広田先生が言ったように、「日本はほろびるね」という視点もあった時代でもある。さらにこの時代は、「忘れられた日本人」がまだ日本の主流の人びとであった時代でもある。「逝きし世の面影」が十分に残っていた時代でもある。
明治の日本を見た外国人(西洋人)としては、イザベラバードやチェンバレンなどが思いうかぶ。『古事記』についてふれるなら、チェンバレンのことについてもいっておくべきだろう。
最後に、GHQのボナー・フェラーズのことにふれて、小泉八雲の仕事が、戦後の日本の統治、特に天皇制を残したことに影響があったとするのは、そういう一面もあるだろうが、これは、GHQの日本統治と戦後処理についての、総合的な判断というべきことだろう。
2025年9月30日記
地球ドラマチック「スターダンサーを目指して〜ウィーン国立歌劇場バレエ学校〜」 ― 2025-10-01
2025年10月1日 當山日出夫
地球ドラマチック スターダンサーを目指して〜ウィーン国立歌劇場バレエ学校〜
ドイツ、オーストリア、スイス。2023年。
始めに批判的な視点で見ることになるが、このバレエ学校は、いわゆる人種として白人しか入学できないのだろうか。今どき、そのような規約を堂々とかかげるということはないだろう。だが、実質的に、この学校に入ってくるような子どもたちは、白人に限定されているという理解でいいのだろう。おそらく、イスラムの信仰を持っている人びとにとってみれば、女性がバレリーナとして公共の劇場でダンスをするということは、あまり受け入れられることではないのかもしれない。(あえて意地の悪い表現をするならば、目に見えない文化の壁である。)
このようなことを思って見るところもあるのだが、しかし、一つのことに打ち込む少女や少年たちの、すがたはひたむきで感動的である。こういう苦労があっても、バレエの世界でトップにたてるのは、ほんのわずか……それが、努力なのか、運なのか……であることは、いたしかたないことだろう。
学校に通う男性が映っていたが、レインボーフラッグが部屋の中にあったのは、ただのかざりとしておいてあるのか、その主張に賛成するからなのか、あるいは、それ以上の意味があってのことなのか……ここは、どういうことなのだろうかとは思ったところである。
この番組の趣旨とは関係ないことかと思うが、バレエというのは、立体的なもので上の方から見てもいい、いや、上の方から見て美しくなるように舞台をつくる(踊りははもちろん、演出や、舞台美術など)ということを、強く感じた。舞台の床がきれいである。何の目じるしになるようなものもない。舞台自体が奥行きのある作りになっている。上の方にあるボックス席から見下ろして見て、きれいな舞台になるように、ということかと思ったのだが、どうなのだろうか。ここは、西欧の演劇やバレエの専門家に聞きたいところである。
日本の演劇、芸能は、そんなに上の方からの視線を意識していない。歌舞伎の観劇でも、桟敷席はいくぶん高い位置にあるが、見下ろすということはない。能楽は、基本的には、舞台とほぼ同じ高さの視線で作ってあると思う。これが、近代的な劇場だと、二階席、三階席とあったりするが、新しく設計した劇場ということでいいだろうか。(私は、文楽を二階席から見たいとは思わない。)
演劇、芸能と視線の位置、高さ、という問題になるかと思うが、たぶん考えた人はすでにいるだろう。
学校の生徒の一人が、踊っている自分の姿を、俯瞰できる視点を持たなければならない、と言っていたのが印象的である。また、自分が踊るだけではなく、周りのダンサーたちの動きの気配を察知する……コミュニケーションできる身体感覚ということなるのだろう……ことを語っていたのは、芸術、芸能というものの本質にかかわることばであると思う。
2025年9月23日記
地球ドラマチック スターダンサーを目指して〜ウィーン国立歌劇場バレエ学校〜
ドイツ、オーストリア、スイス。2023年。
始めに批判的な視点で見ることになるが、このバレエ学校は、いわゆる人種として白人しか入学できないのだろうか。今どき、そのような規約を堂々とかかげるということはないだろう。だが、実質的に、この学校に入ってくるような子どもたちは、白人に限定されているという理解でいいのだろう。おそらく、イスラムの信仰を持っている人びとにとってみれば、女性がバレリーナとして公共の劇場でダンスをするということは、あまり受け入れられることではないのかもしれない。(あえて意地の悪い表現をするならば、目に見えない文化の壁である。)
このようなことを思って見るところもあるのだが、しかし、一つのことに打ち込む少女や少年たちの、すがたはひたむきで感動的である。こういう苦労があっても、バレエの世界でトップにたてるのは、ほんのわずか……それが、努力なのか、運なのか……であることは、いたしかたないことだろう。
学校に通う男性が映っていたが、レインボーフラッグが部屋の中にあったのは、ただのかざりとしておいてあるのか、その主張に賛成するからなのか、あるいは、それ以上の意味があってのことなのか……ここは、どういうことなのだろうかとは思ったところである。
この番組の趣旨とは関係ないことかと思うが、バレエというのは、立体的なもので上の方から見てもいい、いや、上の方から見て美しくなるように舞台をつくる(踊りははもちろん、演出や、舞台美術など)ということを、強く感じた。舞台の床がきれいである。何の目じるしになるようなものもない。舞台自体が奥行きのある作りになっている。上の方にあるボックス席から見下ろして見て、きれいな舞台になるように、ということかと思ったのだが、どうなのだろうか。ここは、西欧の演劇やバレエの専門家に聞きたいところである。
日本の演劇、芸能は、そんなに上の方からの視線を意識していない。歌舞伎の観劇でも、桟敷席はいくぶん高い位置にあるが、見下ろすということはない。能楽は、基本的には、舞台とほぼ同じ高さの視線で作ってあると思う。これが、近代的な劇場だと、二階席、三階席とあったりするが、新しく設計した劇場ということでいいだろうか。(私は、文楽を二階席から見たいとは思わない。)
演劇、芸能と視線の位置、高さ、という問題になるかと思うが、たぶん考えた人はすでにいるだろう。
学校の生徒の一人が、踊っている自分の姿を、俯瞰できる視点を持たなければならない、と言っていたのが印象的である。また、自分が踊るだけではなく、周りのダンサーたちの動きの気配を察知する……コミュニケーションできる身体感覚ということなるのだろう……ことを語っていたのは、芸術、芸能というものの本質にかかわることばであると思う。
2025年9月23日記
よみがえる新日本紀行「川並衆角のりのころ〜東京・深川木場〜」 ― 2025-10-01
2025年10月1日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行「川並衆角のりのころ〜東京・深川木場〜」
再放送である。2022年10月15日。オリジナルは、1975(昭和50)年10月20日。
NHKの取材に向かって、いなかっぺにはわかんねえだろ……ということばをかけるというのも、この時代(昭和50年)ならではのことである。こういうのを「粋」というべきかもしれないが、これは、もうほろんでしまったことになる。
だが、この時代の木場の川並衆の男性(かなり高齢だが)のことば、その話し方などを記録してあるという意味では、非常に貴重なことになる。
戦前は、木場で働く職人たちは、みんな刺青をしていた。兵隊に行く前には、一人前であるあかしとして、刺青をすることになっていた。このようなことも、もう今では無くなってしまったことである。
昔の木場の仕事の風景を絵に描いていた老人は、その後、どうなったのだろうか。描いた絵は、今は、どうなっているのだろうか。残っていれば、かなり貴重な歴史の史料になったにちがいない。
以前は、木場に木材を集めて、製材して出荷していた。水は、木材の運搬のためにも、また、貯蔵しておくためにも、必要なものであった。しかし、東京の下町エリアの都市の開発と、地盤の低下で、木場がその役目をはたせなくなる。満潮のときには、木材を組んだいかだが、川にかかっている橋をくぐりぬけることができない。
この番組の中では、はんてん、と言っていた。これが古い言い方である。今は、テレビのニュースなど見ても、はっぴ、という言い方が増えてきている。孫が角乗りのために、はんてんを着ているときに、祖父の男性が、その着方を指導して、規則だ、と言っていた。こういうところも、下町の粋ということになるだろう。
日本の木材の流通も変わってきた。今では、輸入の木材が増えているし、また、加工済みのものを輸入することも多い。戦前ならば、とおく外地から運んできたということもあったかとも思うが、日本の木材の輸入の歴史とはどうだったのだろうか。
今でも角乗りは、受け継がれているが、しかし、それは、一種の伝統芸能としてである。かつて、その技術は、木場で働く労働者の技能の一部であった。こういうところは、やはり時代の流れということになる。
2025年9月24日記
よみがえる新日本紀行「川並衆角のりのころ〜東京・深川木場〜」
再放送である。2022年10月15日。オリジナルは、1975(昭和50)年10月20日。
NHKの取材に向かって、いなかっぺにはわかんねえだろ……ということばをかけるというのも、この時代(昭和50年)ならではのことである。こういうのを「粋」というべきかもしれないが、これは、もうほろんでしまったことになる。
だが、この時代の木場の川並衆の男性(かなり高齢だが)のことば、その話し方などを記録してあるという意味では、非常に貴重なことになる。
戦前は、木場で働く職人たちは、みんな刺青をしていた。兵隊に行く前には、一人前であるあかしとして、刺青をすることになっていた。このようなことも、もう今では無くなってしまったことである。
昔の木場の仕事の風景を絵に描いていた老人は、その後、どうなったのだろうか。描いた絵は、今は、どうなっているのだろうか。残っていれば、かなり貴重な歴史の史料になったにちがいない。
以前は、木場に木材を集めて、製材して出荷していた。水は、木材の運搬のためにも、また、貯蔵しておくためにも、必要なものであった。しかし、東京の下町エリアの都市の開発と、地盤の低下で、木場がその役目をはたせなくなる。満潮のときには、木材を組んだいかだが、川にかかっている橋をくぐりぬけることができない。
この番組の中では、はんてん、と言っていた。これが古い言い方である。今は、テレビのニュースなど見ても、はっぴ、という言い方が増えてきている。孫が角乗りのために、はんてんを着ているときに、祖父の男性が、その着方を指導して、規則だ、と言っていた。こういうところも、下町の粋ということになるだろう。
日本の木材の流通も変わってきた。今では、輸入の木材が増えているし、また、加工済みのものを輸入することも多い。戦前ならば、とおく外地から運んできたということもあったかとも思うが、日本の木材の輸入の歴史とはどうだったのだろうか。
今でも角乗りは、受け継がれているが、しかし、それは、一種の伝統芸能としてである。かつて、その技術は、木場で働く労働者の技能の一部であった。こういうところは、やはり時代の流れということになる。
2025年9月24日記
NHKスペシャル「戦国サムライの城 第2集 家康“巨大城郭”に秘めた夢」 ― 2025-10-01
2025年10月1日 當山日出夫
NHKスペシャル 戦国サムライの城 第2集 家康“巨大城郭”に秘めた夢
再現ドラマ部分は要らないと思うのだけれど、制作した側の意図としてはどうなのだろうか。
江戸時代になって家康の城作りが、どのような政治的な意図があったのか。あるいは、城を一緒に作ることによって、大名たちの関係にどう変化があったのか。ということが一つある。
しかし、これも、江戸時代になって平和な時代になってみんな大名たちは安心したということではなかっただろう。その後、幕府によって改易されたりした大名はたくさんあったはずで、もうこれで戦争はないので安心できるとは、思わなかったはずである。
最新の技術で、石垣の築城が細かに分析できるようになり、大名で分担した区域の違いとか、隣接する区域どうしで協力した(らしい)ということが分かってきた。これは、面白い。
また、石を割る技術として、大きな石に楔をうちこんで割る技術が、どうやら朝鮮から伝わったらしい、ということである。秀吉の文禄慶長の役(こういう名称は、今では使わないかと思うが)からである。そうであるならば、現在の朝鮮半島に残っている建造物で使われている石材がどう加工されたものか、見てみたいのだが、ここは、取材の手間を惜しんだのだろうか、映っていなかった。このことは、再現ドラマにかけるコストがあったなら、朝鮮半島の石材の加工技術の歴史ということを、取材してほしかった。
中井清正のことが出てきていたが、近世の建築史を考えるうえで、中井家文書が重要な史料である、というぐらいは知っている。これも、いくつかに別れて残っている。(京都大学などでは、デジタル化して公開している。)
どうでもいいことなのだが、中井家文書として残っている建築図面など、大きな紙に書いたものである。その他、現代にのこっているものでは、地図とか絵画とか、大きな紙に描いたものがある。こういう大きな紙は、どうやって作ったのだろうか。紙の歴史についての本はいくつか持っているのだが、古典籍の料紙についての研究ということは多くある。地図や図面のような大きなサイズの紙は、どうやって作ったものなのか、これも気になったところである。
2025年9月26日記
NHKスペシャル 戦国サムライの城 第2集 家康“巨大城郭”に秘めた夢
再現ドラマ部分は要らないと思うのだけれど、制作した側の意図としてはどうなのだろうか。
江戸時代になって家康の城作りが、どのような政治的な意図があったのか。あるいは、城を一緒に作ることによって、大名たちの関係にどう変化があったのか。ということが一つある。
しかし、これも、江戸時代になって平和な時代になってみんな大名たちは安心したということではなかっただろう。その後、幕府によって改易されたりした大名はたくさんあったはずで、もうこれで戦争はないので安心できるとは、思わなかったはずである。
最新の技術で、石垣の築城が細かに分析できるようになり、大名で分担した区域の違いとか、隣接する区域どうしで協力した(らしい)ということが分かってきた。これは、面白い。
また、石を割る技術として、大きな石に楔をうちこんで割る技術が、どうやら朝鮮から伝わったらしい、ということである。秀吉の文禄慶長の役(こういう名称は、今では使わないかと思うが)からである。そうであるならば、現在の朝鮮半島に残っている建造物で使われている石材がどう加工されたものか、見てみたいのだが、ここは、取材の手間を惜しんだのだろうか、映っていなかった。このことは、再現ドラマにかけるコストがあったなら、朝鮮半島の石材の加工技術の歴史ということを、取材してほしかった。
中井清正のことが出てきていたが、近世の建築史を考えるうえで、中井家文書が重要な史料である、というぐらいは知っている。これも、いくつかに別れて残っている。(京都大学などでは、デジタル化して公開している。)
どうでもいいことなのだが、中井家文書として残っている建築図面など、大きな紙に書いたものである。その他、現代にのこっているものでは、地図とか絵画とか、大きな紙に描いたものがある。こういう大きな紙は、どうやって作ったのだろうか。紙の歴史についての本はいくつか持っているのだが、古典籍の料紙についての研究ということは多くある。地図や図面のような大きなサイズの紙は、どうやって作ったものなのか、これも気になったところである。
2025年9月26日記
ブラタモリ「東京・神楽坂▼大人の隠れがの街はどうできた?花街誕生のヒミツ」 ― 2025-10-02
2025年10月2日 當山日出夫
ブラタモリ 東京・神楽坂▼大人の隠れがの街はどうできた?花街誕生のヒミツ
神楽坂は、飯田橋の駅から登っていく坂になる。飯田橋ということで、思い出すのは、佳作座である。もう今はない。昔は、東京にいくつも名画座があった。私が学生のときに、ちょうど『ぴあ』が刊行になったばかりのころで、いろいろと行ったものである。
そのころ、神楽坂は、今のようなおしゃれな街というわけではなかったと憶えている。そう気楽に学生が行くようなところでもないが、比較的庶民的な雰囲気のあるところだったと記憶している。
江戸の街から東京の形成ということについては、さまざまに調べられていることだろうし、神楽坂をはじめ、赤坂、四谷、というあたりの歴史は、東京の都市としての発達と、昔の江戸の街とのかかわりで、面白いことがあるにちがいない。
坂の多いところで、わざわざ細い道を作って、まさしく人目を忍ぶように料亭などがあつまっていた、というのは、やはりそれなりの需要があってのことなのだろう。新橋、柳橋あたりとくらべて、東京の花街の歴史を考えることになるだろう。それは、それぞれの花街に、どのような客層であったかということになり、日本の近代の政治と経済の裏面史につながることかもしれない。
見ていて思ったことだが、地面が石畳が多い。石畳は風情はあるのだが、歩きやすいとは必ずしもいえない。だからといって、土のまままだと、雨が降ったりしたらたいへんである。このあたりの石畳の道というのは、いつごろから作られたものだったのだろうか。
戦後しばらくのころに建てられた料亭の建物に住んでいる……とてもたいへんというか、めんどくさいだろう、と思うが、これだけ価値のある建造物となると、そう簡単に壊してしまってというわけにもいかない。維持するのには、とても苦労だろうと思う。一人じゃとても掃除もできない。
2025年9月28日記
ブラタモリ 東京・神楽坂▼大人の隠れがの街はどうできた?花街誕生のヒミツ
神楽坂は、飯田橋の駅から登っていく坂になる。飯田橋ということで、思い出すのは、佳作座である。もう今はない。昔は、東京にいくつも名画座があった。私が学生のときに、ちょうど『ぴあ』が刊行になったばかりのころで、いろいろと行ったものである。
そのころ、神楽坂は、今のようなおしゃれな街というわけではなかったと憶えている。そう気楽に学生が行くようなところでもないが、比較的庶民的な雰囲気のあるところだったと記憶している。
江戸の街から東京の形成ということについては、さまざまに調べられていることだろうし、神楽坂をはじめ、赤坂、四谷、というあたりの歴史は、東京の都市としての発達と、昔の江戸の街とのかかわりで、面白いことがあるにちがいない。
坂の多いところで、わざわざ細い道を作って、まさしく人目を忍ぶように料亭などがあつまっていた、というのは、やはりそれなりの需要があってのことなのだろう。新橋、柳橋あたりとくらべて、東京の花街の歴史を考えることになるだろう。それは、それぞれの花街に、どのような客層であったかということになり、日本の近代の政治と経済の裏面史につながることかもしれない。
見ていて思ったことだが、地面が石畳が多い。石畳は風情はあるのだが、歩きやすいとは必ずしもいえない。だからといって、土のまままだと、雨が降ったりしたらたいへんである。このあたりの石畳の道というのは、いつごろから作られたものだったのだろうか。
戦後しばらくのころに建てられた料亭の建物に住んでいる……とてもたいへんというか、めんどくさいだろう、と思うが、これだけ価値のある建造物となると、そう簡単に壊してしまってというわけにもいかない。維持するのには、とても苦労だろうと思う。一人じゃとても掃除もできない。
2025年9月28日記
フロンティア「サイケデリック・ルネサンス 精神医療の最前線」 ― 2025-10-02
2025年10月2日 當山日出夫
フロンティア サイケデリック・ルネサンス 精神医療の最前線
人間の精神とか心とかについて、それを病気だと考えるということの根拠から、まず問われるべきことかとも思う。無論、その病気といっていいだろうが、PTSDやADHD、鬱病などのその当事者にとっては辛いことである。その辛さをなんとかしなければならないという医療の意図は分かるのだが、その根底にある、人間を脳の働きで説明することができる、という考え方に、わずかではあるが違和感がある。人間の心のあり方を脳の機能に還元して、それをコントロールすることができれば、病気を治すことができる。ここまではいいのだが、その先にどのようなことが可能になるか、ということを想像してみると、いくぶんの不安がある。そういう領域にまで、人間が手をつけていいのだろうか。
これまでの医療と倫理の問題は、技術的に可能なことであるならば、(一般に安全性がたもたれるならば)、その技術を認めるという方向に進んできている。そして、多くの命が助かり、長生きできるようになったことは確かなことである。
人間の人間たる基盤を、生命であること、それから遺伝子と脳にもとめるというのが、現代の人間観の基本になってきている。そして、その先のこととして、遺伝子と脳をコントロールすることが、徐々にではあるが可能になってきている。この先に待ち受けるであろう、倫理的問題にたちむかう準備ができているだろうか。
少なくとも、脳の神経の再配線ということが可能になるとするならば、人間のもつ社会性や文化、言語、ということについての認識を根底から変える可能性がある。
これまでも人間は、医療のみならず、呪術などにおいても、いろんな薬物を使ってきた。それが脳の働きに作用するものであったものもあることになるのだが、現代になって、そのメカニズムがあきらかになってきた。こういう意味では、脳に働きかけるということが、意識的、意図的におこなわれるようになってきている。
現在の精神医療とサイケデリックということで企画した番組ではあるのだが、このことのはらんでいる課題は、非常に大きなものがあるはずである。
2025年9月18日記
フロンティア サイケデリック・ルネサンス 精神医療の最前線
人間の精神とか心とかについて、それを病気だと考えるということの根拠から、まず問われるべきことかとも思う。無論、その病気といっていいだろうが、PTSDやADHD、鬱病などのその当事者にとっては辛いことである。その辛さをなんとかしなければならないという医療の意図は分かるのだが、その根底にある、人間を脳の働きで説明することができる、という考え方に、わずかではあるが違和感がある。人間の心のあり方を脳の機能に還元して、それをコントロールすることができれば、病気を治すことができる。ここまではいいのだが、その先にどのようなことが可能になるか、ということを想像してみると、いくぶんの不安がある。そういう領域にまで、人間が手をつけていいのだろうか。
これまでの医療と倫理の問題は、技術的に可能なことであるならば、(一般に安全性がたもたれるならば)、その技術を認めるという方向に進んできている。そして、多くの命が助かり、長生きできるようになったことは確かなことである。
人間の人間たる基盤を、生命であること、それから遺伝子と脳にもとめるというのが、現代の人間観の基本になってきている。そして、その先のこととして、遺伝子と脳をコントロールすることが、徐々にではあるが可能になってきている。この先に待ち受けるであろう、倫理的問題にたちむかう準備ができているだろうか。
少なくとも、脳の神経の再配線ということが可能になるとするならば、人間のもつ社会性や文化、言語、ということについての認識を根底から変える可能性がある。
これまでも人間は、医療のみならず、呪術などにおいても、いろんな薬物を使ってきた。それが脳の働きに作用するものであったものもあることになるのだが、現代になって、そのメカニズムがあきらかになってきた。こういう意味では、脳に働きかけるということが、意識的、意図的におこなわれるようになってきている。
現在の精神医療とサイケデリックということで企画した番組ではあるのだが、このことのはらんでいる課題は、非常に大きなものがあるはずである。
2025年9月18日記
ウチのどうぶつえん「ちっこいズー」 ― 2025-10-02
2025年10月2日 當山日出夫
ウチのどうぶつえん ちっこいズー
山形の街中にある動物園は、たしか「ドキュメント72時間」でとりあげていたと憶えている。同じ動物園でも、とりあげかたによって、見えるものがちがってくる。
エサなど、近所の人たちが、あまった野菜などをくれる。地域の人たちの協力によってなりたっている動物園である。街中にあって、ふらりと行ける、こういう動物園は、貴重な存在である。
特に、飼育しているのが保護された動物が多いというのは、意味のあることだろう。動物園の活動として、こういう面があることは、多くの人たちに知られるべきことである。(とはいえ、今の時代、クマが増えすぎて困るということもあるし、一方で、貴重な野生動物の危機ということもある。いろいろと、考えることになる。)
チョウゲンボウは、野生にもどすことができたのだろうか。
板橋の熱帯環境植物館は、名前は知っていたが、行ったことはない。小さな水族館があって、一人で切り盛りしている(しかし、ようやく新しいスタッフが一人増えた)、とてもたいへんそうだが、おもしろそうでもある。少ないスタッフであるからこそ、目が行き届いて、運営も自由になるのかもしれない。(だが、ここも、指定管理者としての運営なので、いろいろと難しいところもあるだろう。)
カメがかわいい。
岡崎の動物園にいたゾウ。とても長生きしたことになる。地域の人たちに愛されたゾウである。動物園で一生を終えるというのは、動物にとってどうなのだろうとは思うが、しかし、これはこれで幸せな生活であったと思いたい。
2025年9月28日記
ウチのどうぶつえん ちっこいズー
山形の街中にある動物園は、たしか「ドキュメント72時間」でとりあげていたと憶えている。同じ動物園でも、とりあげかたによって、見えるものがちがってくる。
エサなど、近所の人たちが、あまった野菜などをくれる。地域の人たちの協力によってなりたっている動物園である。街中にあって、ふらりと行ける、こういう動物園は、貴重な存在である。
特に、飼育しているのが保護された動物が多いというのは、意味のあることだろう。動物園の活動として、こういう面があることは、多くの人たちに知られるべきことである。(とはいえ、今の時代、クマが増えすぎて困るということもあるし、一方で、貴重な野生動物の危機ということもある。いろいろと、考えることになる。)
チョウゲンボウは、野生にもどすことができたのだろうか。
板橋の熱帯環境植物館は、名前は知っていたが、行ったことはない。小さな水族館があって、一人で切り盛りしている(しかし、ようやく新しいスタッフが一人増えた)、とてもたいへんそうだが、おもしろそうでもある。少ないスタッフであるからこそ、目が行き届いて、運営も自由になるのかもしれない。(だが、ここも、指定管理者としての運営なので、いろいろと難しいところもあるだろう。)
カメがかわいい。
岡崎の動物園にいたゾウ。とても長生きしたことになる。地域の人たちに愛されたゾウである。動物園で一生を終えるというのは、動物にとってどうなのだろうとは思うが、しかし、これはこれで幸せな生活であったと思いたい。
2025年9月28日記
知恵泉「小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦」 ― 2025-10-02
2025年10月2日 當山日出夫
知恵泉 小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦
私が見た中では、NHKの小泉八雲関連の番組の二つ目である。
そう目新しい内容とか、切り口があるということではない。
やはり問題だと思うのは、『怪談』の執筆のことがメインになるとして、小泉八雲がこれを書いたのは、東京に住んでいたときのことである。小泉八雲が松江にいたのは、二年にも満たない。その後、熊本の第五高等学校で教え、神戸に行き、それから東京に行って、東京大学(東京帝国大学)、早稲田大学で教えている。
『怪談』は、東京に移ってから書いたものである。だが、番組を見ていると、小泉八雲は、ずっと松江に住んでいて、ここで『怪談』を書いたかのような印象をうける。はっきりそう言っているのではないので、番組としてウソを言っているということではないのだが。
小泉八雲が、聴覚と言語の身体性ということを重視した作家であったことは確かである。そのことを最も強く感じるのは、『日本の思い出』における松江の描写であったり、出雲大社の描写であったりする。番組の中では言っていなかったが、松江の朝、街中の物売りの声が聞こえることの描写は、『失われた時を求めて』(プルースト)を連想させる。
小泉八雲の耳の感覚がするどかったことは確かなのだが、だからといって、視覚が劣っていたわけではない。左目が見えず、右目も極度の近視ではあったのだが。書いた文章は、視覚の表現としても、非常に的確に日本の風景を描いている。
それから、この番組の趣旨ではないことになるのだが、小泉八雲の書いたものを読むと、明治のはじめのころの日本を礼讃するあまり、天皇への崇拝、御真影や教育勅語の礼讃……こういうことは、現代の日本の価値観からすると、否定的に見ることになるが……がある。こういう部分を、どのようにあつかうかは、小泉八雲について語るときの、一つの課題ではある。
また、『怪談』が、東京に住んでいるときに、妻のセツ(節子と書いた方がいいかもしれないが)が、古書店などで買ってきた、怪奇を記した書物によっている、ということなのだが、この時代にいったいどういう種類の怪奇の本が、一般に読まれたり書店で売られていたりしたのか。こういうことについて、文学史、書物史、という方面からはどれぐらい研究があることなのだろうか、と思うところである。
2025年10月1日記
知恵泉 小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦
私が見た中では、NHKの小泉八雲関連の番組の二つ目である。
そう目新しい内容とか、切り口があるということではない。
やはり問題だと思うのは、『怪談』の執筆のことがメインになるとして、小泉八雲がこれを書いたのは、東京に住んでいたときのことである。小泉八雲が松江にいたのは、二年にも満たない。その後、熊本の第五高等学校で教え、神戸に行き、それから東京に行って、東京大学(東京帝国大学)、早稲田大学で教えている。
『怪談』は、東京に移ってから書いたものである。だが、番組を見ていると、小泉八雲は、ずっと松江に住んでいて、ここで『怪談』を書いたかのような印象をうける。はっきりそう言っているのではないので、番組としてウソを言っているということではないのだが。
小泉八雲が、聴覚と言語の身体性ということを重視した作家であったことは確かである。そのことを最も強く感じるのは、『日本の思い出』における松江の描写であったり、出雲大社の描写であったりする。番組の中では言っていなかったが、松江の朝、街中の物売りの声が聞こえることの描写は、『失われた時を求めて』(プルースト)を連想させる。
小泉八雲の耳の感覚がするどかったことは確かなのだが、だからといって、視覚が劣っていたわけではない。左目が見えず、右目も極度の近視ではあったのだが。書いた文章は、視覚の表現としても、非常に的確に日本の風景を描いている。
それから、この番組の趣旨ではないことになるのだが、小泉八雲の書いたものを読むと、明治のはじめのころの日本を礼讃するあまり、天皇への崇拝、御真影や教育勅語の礼讃……こういうことは、現代の日本の価値観からすると、否定的に見ることになるが……がある。こういう部分を、どのようにあつかうかは、小泉八雲について語るときの、一つの課題ではある。
また、『怪談』が、東京に住んでいるときに、妻のセツ(節子と書いた方がいいかもしれないが)が、古書店などで買ってきた、怪奇を記した書物によっている、ということなのだが、この時代にいったいどういう種類の怪奇の本が、一般に読まれたり書店で売られていたりしたのか。こういうことについて、文学史、書物史、という方面からはどれぐらい研究があることなのだろうか、と思うところである。
2025年10月1日記
3か月でマスターする古代文明「(1)衝撃!最古の巨大遺跡 見直される“文明の始まり”」 ― 2025-10-03
2025年10月3日 當山日出夫
3か月でマスターする古代文明 (1)衝撃!最古の巨大遺跡 見直される“文明の始まり”
第一回は、トルコのギョベックリ・テペ遺跡。ここについては、NHKでは以前に「フロンティア」でとりあつかっている。検索して見てみると、トルコにおける観光名所になっているようである。
人類の歴史を考えるときに、文化、文明のはじまりをどう考えるのか、ということは、かなり難しい問題である。
何をもってして文化とか文明とかと言っていいのか、ということがまずある。
それを発展段階的に、狩猟採集から定住農耕へと進化して、農耕こそが、人類の文明の基本となったものである、という考え方が、はたしてどこまで妥当なものなのか。この問題がある。
こういうことが問題になる大きな前提として、人間は定住すべきものである、という一種の思いこみのようなものがあることはたしかである。定住を基本として、そこに人間の社会が生まれ、そして、国家が生まれた……大きく見れば、このような枠組みをもって考えることになる。これは、逆に見れば、現在の世界の国家というものが、その国境の領域内(国土)のうちに、国民として登録された人びとからなっている、という国民国家の幻想(といっていいだろうか)がある。人びとが、自由に国境を越えて行き来できる状態では、国民国家がなりたたない。(現在のEUでも、基本的には国民国家という枠組みを尊重することで成立している。)
これをさかのぼれば、原初状態の人間はどんなものであったのか、という議論にもなる。ホッブズのように、あるいは、ルソーのように考えることもできるだろう。また、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』のように考えることもできるだろう。さらには、吉本隆明の『共同幻想論』のように考えることもできるだろう。
考古学、人類学の問題であると同時に、きわめて、現代的な政治的な問題ともつながっている。それは、いわゆる保守的なものであれ、いわゆるリベラルなものであれ、古代を政治的に利用しうる限りは利用しようとするものである。
この回で言っていたことで、気になったことは、人間があつまって集団で組織的に祭祀を行ったとして、それを、祖先信仰と言っていいのだろうか。番組の中では使っていなかったが、アニミズムということがある。アニミズムから一神教への流れがあったとしても、それを、人類の進化と言うべきなのだろうか、これは気になるところである。(ユダヤ教、キリスト教、イスラム、と一神教を基本とする文明が歴史の中で成立してきたことはたしかなのだが。)
かなりことばを慎重に選んで語っていたということは、分かるつもりでいるが、古代を語ることは、すなわち、現代の価値観の投影でもある、という側面については、もっとふみこんでもいいように思う。(そうなると、実証的な考古学ではなく、観念的に政治の理念を語ることになってしまうのだが。)
現代では、遺伝子の解析で、アフリカを出てからの人類(ホモ・サピエンス)の歴史はかなりたどれるようになっているはずである。古代について語ることが、地球における人類の歴史の全体像とどのように整合性のあるものとして語ることができるのか、という問題もある。ここは、この番組ではどうあつかうことになるだろうか。
きわめて実証的なこと(遺跡の実物)、サイエンスの方法論、そして、非情に観念的な文化論・歴史論・政治論などが、からまりあっているのが、古代の文明論であると私は思っている。
2025年10月2日記
3か月でマスターする古代文明 (1)衝撃!最古の巨大遺跡 見直される“文明の始まり”
第一回は、トルコのギョベックリ・テペ遺跡。ここについては、NHKでは以前に「フロンティア」でとりあつかっている。検索して見てみると、トルコにおける観光名所になっているようである。
人類の歴史を考えるときに、文化、文明のはじまりをどう考えるのか、ということは、かなり難しい問題である。
何をもってして文化とか文明とかと言っていいのか、ということがまずある。
それを発展段階的に、狩猟採集から定住農耕へと進化して、農耕こそが、人類の文明の基本となったものである、という考え方が、はたしてどこまで妥当なものなのか。この問題がある。
こういうことが問題になる大きな前提として、人間は定住すべきものである、という一種の思いこみのようなものがあることはたしかである。定住を基本として、そこに人間の社会が生まれ、そして、国家が生まれた……大きく見れば、このような枠組みをもって考えることになる。これは、逆に見れば、現在の世界の国家というものが、その国境の領域内(国土)のうちに、国民として登録された人びとからなっている、という国民国家の幻想(といっていいだろうか)がある。人びとが、自由に国境を越えて行き来できる状態では、国民国家がなりたたない。(現在のEUでも、基本的には国民国家という枠組みを尊重することで成立している。)
これをさかのぼれば、原初状態の人間はどんなものであったのか、という議論にもなる。ホッブズのように、あるいは、ルソーのように考えることもできるだろう。また、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』のように考えることもできるだろう。さらには、吉本隆明の『共同幻想論』のように考えることもできるだろう。
考古学、人類学の問題であると同時に、きわめて、現代的な政治的な問題ともつながっている。それは、いわゆる保守的なものであれ、いわゆるリベラルなものであれ、古代を政治的に利用しうる限りは利用しようとするものである。
この回で言っていたことで、気になったことは、人間があつまって集団で組織的に祭祀を行ったとして、それを、祖先信仰と言っていいのだろうか。番組の中では使っていなかったが、アニミズムということがある。アニミズムから一神教への流れがあったとしても、それを、人類の進化と言うべきなのだろうか、これは気になるところである。(ユダヤ教、キリスト教、イスラム、と一神教を基本とする文明が歴史の中で成立してきたことはたしかなのだが。)
かなりことばを慎重に選んで語っていたということは、分かるつもりでいるが、古代を語ることは、すなわち、現代の価値観の投影でもある、という側面については、もっとふみこんでもいいように思う。(そうなると、実証的な考古学ではなく、観念的に政治の理念を語ることになってしまうのだが。)
現代では、遺伝子の解析で、アフリカを出てからの人類(ホモ・サピエンス)の歴史はかなりたどれるようになっているはずである。古代について語ることが、地球における人類の歴史の全体像とどのように整合性のあるものとして語ることができるのか、という問題もある。ここは、この番組ではどうあつかうことになるだろうか。
きわめて実証的なこと(遺跡の実物)、サイエンスの方法論、そして、非情に観念的な文化論・歴史論・政治論などが、からまりあっているのが、古代の文明論であると私は思っている。
2025年10月2日記
新日本風土記「大阪 天王寺界わい」 ― 2025-10-03
2025年10月3日 當山日出夫
新日本風土記「大阪 天王寺界わい」
再放送である。最初は、2022年7月8日。
見て思ったことは、NHKであっても、帝塚山の住宅地の人びとの生活の感覚を描くような取材はできなかったのだろうか。あるいは、それは、しなかったということでいいのだろうか。
日本の中で、都市部で、居住地域によって社会的階級が歴然と区別されるという地域は、そう多くはないと思うが、大坂のこの地域は、希なそういうところである。
気になることとしては、カメラ屋さん。2022年の取材であるが、このとき、街中の昔ながらのカメラ屋さんは、いったいどういう商売をしているのだろうか。せいぜい、スマートフォンで撮った写真などのプリントの仕事はあるだろうが、(これもコンビニでもできるが)、いったい何でもうけているのだろうか。今の時代、昔のフィルムカメラを使って写真を撮るというのは、一部のカメラ好きのお金のかかる趣味になってしまっている。カメラなどの機材は、かなり安く買えるものがあるのだが、フィルムが高くなっているし、それの現像とプリントも手間である。(もっとも簡便には、現像したフィルムをスキャンしてデジタル化して、プリントすることなのだが、それでは、昔のカメラの楽しみとはいえないかもしれない。)
フラメンコを踊る女性については、はっきり言えばであるが、テレビに映っていた映像で見るかぎり、そう上手とも思えない。しかし、本人が、楽しんでやっていることは、十分に伝わってくる。
これは、ロックを歌っている男性も同じである。ロックが、(私の感覚が古いのかと思うが)抵抗の音楽であるとするならば、帝塚山で店を開くというのは、どういう意味を考えてのことなのだろうか。お客さんの層が違っても、音楽として楽しむならいい、ということだろうか。(もう今どき、アングラなどということばも死語といっていいだろうか。)
陸軍墓地については、その沿革も気になるところであるが、これをこれから、どのようなものとして維持管理していくのか、ということは問題である。基本的な性格としては、国立の施設として管理するのが妥当だろう。しかし、そうなると、世の中の平和活動団体が黙っていないにちがいない。いわく、戦争を美化して政治的に利用するものである、と。こういうところが、国営の墓地として適切に維持管理されてきていないということは、どのような立場にたとうと、必要なことであると、私は思っている。(これは、近代の国民国家が、想像の共同体であるために必要な、ある意味ではそのために必須の欺瞞ではあるが。)
寺町での、お寺どうしの助け合いというのは、今の時代においても必要なことになるだろう。ただ、これから未来についてどうなるかは、いろいろと難しい問題をかかえていることにはちがいないが。
あべのハルカスに行ったことがない。行ってみようと思ったこともない。しかし、こういうところに行って、景色を眺めてみたくなるのも、人の気持ちである。そして、その窓ガラスを拭く職人さんたちの仕事も興味深い。この仕事だけで、特別に番組を作ってもいいぐらいだと思う。
余計なことかもしれないが、縄文時代から人が住んできたエリアであることは確かであるとしても、どう考えても、縄文時代の人びとの子孫が住んでいるというのではない。おそらく、夕焼けの光景は同じようなものだったとしても、安易に、現代の人間の感覚を、古代……縄文であっても、弥生であってもいいが……に投影してイメージするのは、避けるべきだと考えている。(日本という国家を過去のどの時点にさかのぼって考えるか、ということについては、慎重であるべきである。)
2025年9月30日記
新日本風土記「大阪 天王寺界わい」
再放送である。最初は、2022年7月8日。
見て思ったことは、NHKであっても、帝塚山の住宅地の人びとの生活の感覚を描くような取材はできなかったのだろうか。あるいは、それは、しなかったということでいいのだろうか。
日本の中で、都市部で、居住地域によって社会的階級が歴然と区別されるという地域は、そう多くはないと思うが、大坂のこの地域は、希なそういうところである。
気になることとしては、カメラ屋さん。2022年の取材であるが、このとき、街中の昔ながらのカメラ屋さんは、いったいどういう商売をしているのだろうか。せいぜい、スマートフォンで撮った写真などのプリントの仕事はあるだろうが、(これもコンビニでもできるが)、いったい何でもうけているのだろうか。今の時代、昔のフィルムカメラを使って写真を撮るというのは、一部のカメラ好きのお金のかかる趣味になってしまっている。カメラなどの機材は、かなり安く買えるものがあるのだが、フィルムが高くなっているし、それの現像とプリントも手間である。(もっとも簡便には、現像したフィルムをスキャンしてデジタル化して、プリントすることなのだが、それでは、昔のカメラの楽しみとはいえないかもしれない。)
フラメンコを踊る女性については、はっきり言えばであるが、テレビに映っていた映像で見るかぎり、そう上手とも思えない。しかし、本人が、楽しんでやっていることは、十分に伝わってくる。
これは、ロックを歌っている男性も同じである。ロックが、(私の感覚が古いのかと思うが)抵抗の音楽であるとするならば、帝塚山で店を開くというのは、どういう意味を考えてのことなのだろうか。お客さんの層が違っても、音楽として楽しむならいい、ということだろうか。(もう今どき、アングラなどということばも死語といっていいだろうか。)
陸軍墓地については、その沿革も気になるところであるが、これをこれから、どのようなものとして維持管理していくのか、ということは問題である。基本的な性格としては、国立の施設として管理するのが妥当だろう。しかし、そうなると、世の中の平和活動団体が黙っていないにちがいない。いわく、戦争を美化して政治的に利用するものである、と。こういうところが、国営の墓地として適切に維持管理されてきていないということは、どのような立場にたとうと、必要なことであると、私は思っている。(これは、近代の国民国家が、想像の共同体であるために必要な、ある意味ではそのために必須の欺瞞ではあるが。)
寺町での、お寺どうしの助け合いというのは、今の時代においても必要なことになるだろう。ただ、これから未来についてどうなるかは、いろいろと難しい問題をかかえていることにはちがいないが。
あべのハルカスに行ったことがない。行ってみようと思ったこともない。しかし、こういうところに行って、景色を眺めてみたくなるのも、人の気持ちである。そして、その窓ガラスを拭く職人さんたちの仕事も興味深い。この仕事だけで、特別に番組を作ってもいいぐらいだと思う。
余計なことかもしれないが、縄文時代から人が住んできたエリアであることは確かであるとしても、どう考えても、縄文時代の人びとの子孫が住んでいるというのではない。おそらく、夕焼けの光景は同じようなものだったとしても、安易に、現代の人間の感覚を、古代……縄文であっても、弥生であってもいいが……に投影してイメージするのは、避けるべきだと考えている。(日本という国家を過去のどの時点にさかのぼって考えるか、ということについては、慎重であるべきである。)
2025年9月30日記
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