ドキュメント72時間「渋谷駅前“最後”の新聞スタンド」2025-10-03

2025年10月3日 當山日出夫

ドキュメント72時間 渋谷駅前“最後”の新聞スタンド

BKでは、たしかこの回の放送のとき、他の番組をやっていて、放送がなかったかと憶えている。再放送で見ることになった。

渋谷のここの新聞スタンドは、気づかなかった。私が東京に住んでいたのは、学生のときであるから、ほぼ半世紀前のことになる。そのころから、この新聞スタンドはあったらしいのだが、特に気にしたことはなかった。このあたり、昔は、道ばたに靴磨きの仕事の人がいたと記憶するのだが、今では、路上での靴磨きというのも、なくなってしまったものの一つかもしれない。当たり前だった都市の風景の一部が、いつのまにか消えてなくなってしまう。この新聞スタンドが消えても、気づかない人が大多数だろう。

夕刊を読み比べるという女性が出てきていた。私も、新聞は、学生のころから購読しているが(ずっと朝日新聞である、学術書のサンヤツ広告は朝日にしか出さないという出版社が多かった)、夕刊を細かく読むということはしてこなかった。一時期は、社説をよく読んだこともある。新聞の社説は、ある意味でとても面白い。(別に、朝日新聞の主張に賛同するということではないけれど。)

他の新聞……朝日の他、毎日、読売、日経、産経、はWEB版は、毎日確認している。個人的に思うこととしては、もう毎日新聞はジャーナリズムを名乗るのをやめた方がいい。日刊のオピニオン誌と思うべきだろう。だが、そうなったところで、どれだけ読者がついてくるかは、不安であるが。

競馬新聞は紙の新聞の紙面で見た方が分かりやすいというのは、そういうものだと思う。私は競馬にはまったく興味がないし、競馬新聞は買ったこともないのだが、情報の一覧性という点では、ネット記事よりはるかにすぐれている。

英字新聞を毎日買っている男性。塾の英語の先生らしいが、ずっと勉強をつづけるというのは、なかなかできることではない。

しかしながら、そもそも、新聞スタンド、といって、今の若い人には通用しないことばだろう。他には、ミルクスタンドもあるかと思う。私の年代だと、日常生活の中にあることばとして生きているのだが、もういつのまにかすがたをけしてなくなってしまうものであろう。男性が、子どもにとっての近所の駄菓子屋ようなものと言っていたが、こういうところが、社会の中からどんどん消えてなくなっているのが、今の日本だろう。

馴染みの店で、馴染みのお客さん、ということがあってもいいし、逆に、そういうのがまったくない無機質な関係でいられるのも都市というものである。どちらがいいということではないが、こういうところが消えていくのは、やはり一抹のさびしさがある。

2025年9月27日記

NHKスペシャル「未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに」2025-10-04

2025年10月4日 當山日出夫

NHKスペシャル 未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに

見ながら思ったことを、思いつくままに書いておく。

安楽死を認めるかどうかということをふくめて、こういう種類の問い……人間の死生観にかかわり、歴史と文化の問題でもある……に、正解があって、人間は理性的に考えることによって、最終的には、その正解に到達しうるものである、また、その正解は、人類に共通する普遍的なものである、ということがあるとすると、これは、あまりに傲慢な思想というべきではないだろうか。

また、これは、医学ということだけの問題ではない。だが、少なくとも今の日本だと、こういう問題を、医学の問題に限定的に考えすぎてはいないか。法律の問題であることは無論のこと、その根底にある、社会としてのもろもろの文化や歴史があってのことである。また、個人によって、価値観は異なる。

個人によって価値観が異なり、また、医師によっても価値観が異なる。この問題について、主観的ではない客観的な正しさの基準というものがあるはずだと設定して考えることは、はたして妥当だろうか。主観的な判断だから揺れうごくことがある。しかし、それは、まちがっているということでは、必ずしもない。そのときの判断に、運命をまかせるということでは、なぜいけないのだろうか。

その当事者、まず病気の本人であり、担当の医師であり、また、その周囲の人びと(家族など)が、納得するポイントがあれば、それでいいのかもしれないし、それが、社会全体として許容できるものであれば、それはその時点の判断として尊重されていいだろう。

時代が変われば、また、考え方も変わってくる……昔の人びとの死生観が、今の人間に理解できないところがあるとしても、それはしかたがないことだし、また、現代の死生観が、遠い未来の人間から見れば、理解できないものであったとしても、それはそういうものである。

このような問題を考えるとき、普遍的な唯一絶対の正しさがあるのであって、それ以外は絶対に認められない、と硬直した発想になることが、一番の問題だろう。

番組の中では使っていなかったことばが、多様性、である。価値観の多様性というならば、それには、死生観の多様性もふくむべきことになる。日本に日本の、欧米には欧米の(細かく見れば、カトリックなりの、プロテスタントなりの)、イスラムにはまたそれなりの、その他の文化には、それぞれの、多様な死生観があっていいし、こういうことこそ、価値観の多様性ということで、まず認められなければならないことのはずである。

自分らしくある、希望をもって……ということが、どうも、あまり深く考えずに一人歩きしている。人間というものは、そんなに自由にものを考えることができるものではない。人間の自由意志とは何かという問題でもある。また、希望がなければ生きていてはいけないのか、では、希望とはなんであるのか、あまり考えることなく、使っているようである。

人間の尊厳と、自由意志と、社会の秩序、これらを総合して考えるべきことだろう。

番組の中で、神とか、宗教とか、文化とか、こういうことにまったくふれていなかったのは、意図的にそう作ったからだと思うが、この先の議論は、このようなことについて、徹底的に深く考えざるをえなくなるはずである。

QOLが尊重されるべきだということにはなるのだが、では、何が価値のあることなのか、その本人以外が判断することが出来るのか。その判断は、個人の生いたちから始まって、文化や歴史の中で形成されてきた価値観ということになるとすれば、はたして、人間に普遍的なものとして想定しうるものなのだろうか。

仮に、死を選ぶ権利が人間にはあるとするとして、その判断力がすべての人に等しくそなわっていると考えるべきだろうか。(強いていえばということになるが)精神的に問題のある人であっても、同じように尊重されるべきということになるのだろうか。生きる権利は、すべての人に同じようにということは考えやすいことだが、死ぬ権利がすべての人に同じように、と考えることは可能だろうか。もし、これが等しくないとするならば、それは、新たな差別を生むことになるだろう。

自分のことは自分で決める、自己決定の尊重ということはたしかなのだが、しかし、その結果は自分でおわなければならない。いわゆる自己責任論になる。これはこれで、かなり負担でもある。人間が生きていくなかで、また、最期のときぐらいは、神様のサイコロに身を任せるということがあってもいいのかとも思う。もともと、その人が人間として生まれてきたこと自体が、神様のサイコロで決まったことのようなものかもしれないのである。

その他、いろいろとあるが、これぐらいにしておきたい。

2025年9月30日記

芸能きわみ堂「映画「国宝」で注目! 歌舞伎「曽根崎心中」の世界」2025-10-04

2025年10月4日 當山日出夫

芸能きわみ堂 映画「国宝」で注目! 歌舞伎「曽根崎心中」の世界

映画は見ていない。ここ10年以上、いや、20年以上になるだろうか、映画館というところに行ったことがない。なんだか人がたくさんいるところに行くのが、面倒なのである。原作の小説は読んでおこうかと思っている。今読んでいる『普天を我が手に』(第二巻、奥田英朗、Kindle版)を読み終わったら、次に読んでおきたい。

『曽根崎心中』というと、若いとき、東京の国立劇場の小劇場で、簔助と玉男の公演を見たのを憶えている。こういう経験は、もう今の人にはできないことである。

番組を見ていて、坂田藤十郎(二代目中村扇雀)のお初の舞台も、見事だと思うが……特に足を使った演出……近松門左衛門のオリジナルから、どのようにして歌舞伎に作ってあったのか、このあたりことについて、解説があってもよかったかと思う。日本の文学史と、芸能(人形浄瑠璃と歌舞伎)の、交わるところに位置する作品であると思う。

心中の道行きの美、ということは、日本の芸能と文学の中でどう考えるべきことだろうか。(しかし、天邪鬼に考えてみるならば、なんで心中ということになるのか、このあたりの心理の流れは、興味深いことでもある。)

芸事の世界というのは、ただひたすら見て、そして、体で覚えるということだと思っているのだが、吉沢亮の役者としての天分というべきか、黒子として歌舞伎の裏側を見ることで、体得したものがあるらしい。その後の直接の指導ももちろんであるが。

『曽根崎心中』は映画も作られているが(ATG)、たしか見ていないと思う。『心中天網島』(篠田正浩監督)は見たのを記憶しているが。

2025年9月29日記

英雄たちの選択「“怪談”を発見した男 小泉八雲」2025-10-04

2025年10月4日 當山日出夫

英雄たちの選択 “怪談”を発見した男 小泉八雲

この番組で、文学とか芸術にかかわることをあつかうと、いまいちという印象をもつことが多いのだが、この回は、わりと共感して見るところがあった。

ゲストに池田雅之が登場していたのが、よかったというべきだろうか。NHKで、今週で、小泉八雲の番組は、三つ目である。ようやく、この番組で登場となった。(今週だけで、「木村多江のいまさらですが」「知恵泉」「英雄たちの選択」と小泉八雲である。これは、ちょっと多過ぎという気もするが、作るセクションが、勝手に作ってこうなったのだろう。)

小泉八雲の事跡について語るとき、もっとも重要なことの一つとして、明治に日本にやってきた外国人のなかで、とりわけ小泉八雲が、日本文化に沈潜していったのはなぜか、ということがある。世界の潮流として、ジャポニスム、オリエンタリズムがあった時代ではあるが……これらは、視点をかえると、西欧から見た植民地主義の変奏でもあるのだが……小泉八雲ほど、日本の「伝統的」文化や生活に、のめりこんで礼讃した人物はまずいないだろう。(ここで、「伝統的」と書いたのは、小泉八雲の感じた日本の「伝統」とは何であるのか、批判的に考える必要があると思うからである。もちろん、これは今では失われたものであり、失ってしまったからこそ、現代において価値のあるものとして見ることになることは、確かなのであるが。)

ニューオリンズで博覧会があって、そこに出品されていた日本の物品を見て、日本にこころひかれたということは、たしかにあったのだろう。その前提として、ギリシャ、アイルランドに、出自をもつことで、西欧の中で自分を考えることはあっただろう。これを、今の概念を使っていえば、アイデンティティということで説明することが多い。(アイデンティティということばが、普通に使われるようになったのは、1970年代以降のことで、文化史・思想史としては、新しいことに属する。)

イギリスで貧民窟の生活を体験したということも、西欧文化、近代というものへの、批判的な視点につながるのだろう。

この番組では、小泉八雲の日本での生涯を、松江、熊本、神戸、東京、と順を追って語っていた。歴史的にはそのとおりである。これまで見た小泉八雲関係の番組では、まるで松江でその生涯の仕事をしたかのような印象で番組を構成してあったのは、どうかなと思うところである。

熊本の五高に赴任して、近代化する日本を感じることになったというのは、確かなことだろう。また、神戸も、新しい港街として、近代になって発展した街であった。

東京帝国大学で英文学を講じていたが、それが、大学の意向に反していて、井上哲次郎の名前で、解雇ということになった。これは、結果的には撤回されたが、小泉八雲は、東京帝国大学をやめて、早稲田大学で教えることになった。『怪談』は、このときに刊行された。

興味深いのは、磯田道史が言っていたことだが、東京大学の英文科に求められたことである。英文学を講ずる、創作について語るのではなく、英語教師の養成ということが、目的になった。

これは、近代になってから、日本の人文学の歴史を考えるうえで、重要なことである。国文学が、明治になってからの学問であるということもある。江戸時代からの国学の流れがある。そして、近代になってからの日本の「古典」の成立(強いていえば、再発見)については、いくつかの研究がすでにある。『古事記』の英訳本(チェンバレン訳)を小泉八雲は読んでいたのだが、日本で『古事記』が日本の神話と歴史の書物として古典になるのは、近代の国文学の成立においてである。この意味では、小泉八雲の『古事記』は、きわめて希有な事例ということになるだろう。

同じように、日本史という歴史学の歴史も、日本の近代とともにある。中国学も近代になってからの歴史がある。そして、英文学も、近代になって、何のための研究であり教育であるか、その歴史がある。

ちなみに、小泉八雲と五高と東京帝大で交錯するのが夏目漱石であるが、漱石が、イギリスに留学を命ぜられたのは、英語、のためであった(英文学ではない)ことは、文学史の常識的なことである。だが、漱石は、英文学を学び、『文学論』を書くことになり、小説家となった。

大学では英文学を講じていた。今の日本の大学で、英文科(あるいは英米文学科)で文学を講じることは、可能だろうか。文学を講じるのに、あらかじめシラバスがあって、この講義を受講すると、こういう技能や知識が身につきます……などということが、あらかじめ予測できて分かると思っているのが、現代の文科省の役人ということにはなる。文学というのは、読んでみて、それを講ずることによって、新たな知と感性の地平が見えてくる、そういうものであるはずである。

それにしても、小泉八雲は、御雇外国人として、とんでもない給料を貰っていたらしい。それと比べると、夏目漱石は、東大での給料だけでは生活できなかったことになる。

この番組を見ても分からないことは、小泉八雲の日本文化への手放しの礼讃である。『日本の面影』を読むと、天皇制、教育勅語、御真影、ということを、これが日本人の美徳の極致のように礼讃して書いてある。しかし、こんなものは、明治になってから、文明開化(これは、小泉八雲が最もきらった)とともに、作りあげたものに他ならない。小泉八雲の愛した、江戸時代以前の日本の庶民の生活の感覚では、天皇なんか知ったこっちゃない、というのが普通だった。

松江、熊本、東京と、学校や大学の教師生活をしているのだが、この近代的な教育のシステム自体が、まさに、近代になってから文明開化で、西欧にならって作りあげたものである。

小泉八雲は、江戸時代までの日本がどんなだったか、非常に感覚的に受容したことになる。伝統尊重、保守的、反近代、反西欧、という姿勢は見てとれるのだが、そこで非常にかたよった取捨選択があったことになる。

小泉八雲を語るとき、左派的な見方からは、異文化理解・多文化共生の見本ということで見ることもできるし、一方で、右派的な見方からは、伝統的な日本文化を今につたえる功績のあった外国人、ということになる。どのような立場からでも、とても都合のいい見方ができる。この意味では、現代において、小泉八雲について語ることは、かなり慎重であるべきだと、私は思うことになる。

いろいろとあるのだが、小泉八雲について考えることは、日本の近代とは何か、そこで何を失ってしまったのか、ということにつながるのは確かなことである。

前にも書いたが、小泉八雲の時代は、「失われた日本人」の時代であり、「逝きし世の面影」があった時代でもある。同時に、近代化のなかにあって、『三四郞』の広田先生のように「日本はほろびるね」という視点もあった時代である。いうまでもなく、「坂の上の雲」の時代でもある。

2025年10月3日記

『とと姉ちゃん』「常子、ホットケーキをつくる」2025-10-05

2025年10月5日 當山日出夫

『とと姉ちゃん』「常子、ホットケーキをつくる」

このドラマは、戦後になって、「あなたの暮し」を刊行するところから、あまり面白くなくなる。戦前までの、木場での部分は、ああ昔はこういう生活があったなあ、と感じるところがあった。しかし、戦後になると、この時代の人びとの生活の感覚を感じる部分が少なくなってくる。

実際に、どんな読者が「あなたの暮し」を講読していたのか。これを描くためには、この時代の世相、風俗、時代背景をある程度は描写しておかないといけないのだが、こういう部分が、ほとんど見えない。この時代であっても、人びとの生活は、多種多様であり、はっきりいえば、お金持ちの生活と貧乏人の生活があったはずである。では、「あなたの暮し」は、どういう社会的階層をターゲットにした雑誌だったのか、ということが重要である。このことと、広告をのせないという会社の方針が、うまくあったからこそ、雑誌は続けることができたはずである。

一般の雑誌の感覚としては、どういう広告が載っているかということも、読者にとって重要な情報である。現代でも、『正論』に載る広告と、『世界』に載る広告は、ちがっている。それぞれの読者層に合わせた広告になっている。広告をめて、読者は雑誌を読んでいる。(ちなみに、『正論』を見ると、杉本五郎の『大義』が今でも売られている本だということが分かる。しかし、『世界』では、これが分からない。)

雑誌に広告を求めない、読者層とはどんな人たちだったのか、ここが描けていないのである。だが、これは、『暮しの手帖』の歴史と深くかかわることなので、描くことが難しいところだったのだろうと思う。

2025年10月4日記

『チョッちゃん』(2025年9月29日の週)2025-10-05

2025年10月5日 當山日出夫

『チョッちゃん』2025年9月29日の週

蝶子たちは、駅前で食堂をはじめる。最初は、行商のおばさんたちのお昼のご飯を炊く請負の仕事だったのだが、それが、食堂(昔風の言い方をすれば、一膳飯屋)になり、お客さんがやってくる。

最初は、困っている人(昼ご飯の準備に困る行商のおばさん)を助ける親切心ではじめたことなのだが、それが、そのまま商売につながっている。人に親切にすることと、商売が、矛楯していない。こざかしく儲けようという気持ちではない。こういうあたりの描き方が、このドラマのいいところである。

みさ母さんも手伝おうとするのだが、見ていると、はっきりいって邪魔であるとしか見えない。それでも、この疎開先での慣れない商売をはじめたばかりの中に、みさ母さんがいることで、全体の雰囲気がなごむ。このドラマにとってとても重要な存在となっている。

そこに、神谷先生と安乃が来る。東京から北海道に帰る途中で、安乃が気分が悪くなって途中下車したのが、たまたま諏訪ノ平だった。安乃は、赤ちゃんができたようである。二人は、頼介の遺骨を運ぶ途中だった。フィリピンで戦死である。

神谷先生たちの話しを聴いて、蝶子やみんながしんみりとしているところで、富子おばさんが、ご飯のしたく、と言って席を立って行った。ただ、これだけのことなのだが、実にうまい脚本であり演出だと感じる。こういうときに、ただ悲しい表情をするだけではなく、それでも日常の仕事がある、ということであり、また、富子おばさんとしても、その場に居つづけるのがつらいということもあっただろう。このようないろんな人間の感情が錯綜するところを、何気ない日常的な科白と行動で、うまく表現している。

食堂にやってきた復員兵が、戦争で家族もなにもかもなくして、どこへ行くあてもないという。この時代、こういう復員兵が、決してめずらしくはなかった時代である。その復員兵が、ユーモレスクを口ずさむ。中国で、バイオリンの演奏を聴いて憶えたという。この話しをきいて、蝶子は、要にちがいないと確信する。ユーモレスクは、そう珍しい曲ではないと思うのだが、このドラマの中では、要所要所で、きわめて効果的に使われることになる。

役所の人がやってきて、許可がなければ食堂の営業はできないとされる。蝶子たちは困ってしまうことになる。が、ともかく、行商のおばさんたちのお昼ご飯を炊く仕事は続けることになる。

そこへ、産業組合の所長がやってきた。蝶子に見合い話である。この時代としては、戦争で家族を失ったり、まだ消息が分からなかったり、さまざまな事情をかかえた人が多くいた。その時代を思ってみると、蝶子のところに見合い話を持ってきたのは、善意である。これが、今の時代に作るドラマだったら、見合い話を持ってきた組合長を、女性の人権をないがしろにする悪人のように描いてしまうことになるだろう。

しかし、このドラマでは、そうなっていない。この時代における人間の善意のあり方の一つとして、戦後のころはこういう時代だった、という描き方になっている。いや、このドラマが作られた1980年代は、まだ、こういう描き方ができた時代だったということになるかもしれない。

無論、蝶子は、見合い話は断り、東京にもどる決意をする。そのための資金稼ぎに、行商の仕事を始めることになる。

戦後の時代、人びとが、どんな生活の感覚で生きてきたか、それを、人間の善意を肯定的に描くということになっている。だからといって、世の中に悪人がいないわけではないのだが、それを描いていないからといって、もの足りないという感じがまったくしない。こういう作り方ができているというのが、このドラマの魅力なのだろうと思う。

2025年10月4日記

『ばけばけ』「ブシムスメ、ウラメシ。」2025-10-05

2025年10月5日 當山日出夫

『ばけばけ』「ブシムスメ、ウラメシ。」

最初の週を見て思うこととしては、これはかなり期待していいかな、ということである。明治の話しなのだが、登場人物をことさらに古めかしくしていない。セットとか小道具とかは、この時代らしさを表している。しかし、ものの考え方や、ことばのいいかた(少し方言まじりにはしてある)などは、非常に現代的である。こういう方針の方が、現代の視聴者には受け入れられやすいという判断なのだろう。だから、非常にコミカルな作り方をしていても、これはこれで見ていられる。(ここの加減を間違えると、この時代設定で、こんな考え方はないだろうと、批判されることになる。)

全体として、松江の街の景観だけではなく、サウンドスケープを感じさせる作り方になっている。松江の街のことについては、小泉八雲の『日本の思い出』に非常に印象的に描写されている。特に、その音である。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と、その妻のセツ(節子)のドラマである。

今の時点で、私の思うことを書いておきたい。

明治になってからの没落士族を描くというのは、大胆であるが、興味深いことである。時代の流れに取りのこされる人びとを、時代遅れと切り捨てるのではなく(かつて、そういう方針のドラマもあったが)、あるいは、その哀愁をいかにも可哀想に描くのでもなく、現代の目で見ても、こんなときは人間はこんなふうに思ったりするもんだよなあ、と共感できるように描いている。

松野の家では、ウサギ長者の夢を見ることになったが、あっけなく15分で、はじけてしまった。その一方で、親戚の雨清水の家では、織物工場を作って、(今のところは)うまくやっているようである。武士の商法といわれているが、さまざまに明暗があったことだろう。

小泉八雲については、NHKでは、この最初の週に、私の見ただけでも三つの番組を作っている。「木村多江のいまさらですが」「知恵泉」「英雄たちの選択」である。この他、ローカル局でも作っているようだ。見て思ったことは、すでに書いた。

(すでに書いたことと重複するのだが、あらためて確認のために書いておくと)小泉八雲という人物は、よくわからないところがある。いったいどうして、これほど深く、日本の文化や生活に深く傾倒していったのか、その理由は何なのだろう。おそらくは、その生いたち(ギリシャ、アイルランドに出自があり、イギリスで厳格なカトリックの教育を受け、その後、アメリカに渡り新聞記者などをした……)が深く関係しているだろうことは、推測できる。

それよりも、問題かなと思うのは、きわめて反近代、反西欧文明、という立場をとって、日本の生活や文化につよく共感しているのだが、その明治のなかばごろ(小泉八雲が日本に来たのは、明治23年)の日本では、それ以前の文化と近代とか混在している時代であったはずである。松江でのこととして、学校の生徒の様子とか、天皇のこととか、教育勅語のこととか、非常に肯定的に、これぞ日本の伝統文化である、というぐらいに感動的に描いている。しかし、近代の天皇や教育勅語、また、学校という組織それ自体、明治になってからの文明開化の所産である。文明開化は、小泉八雲が最も嫌ったものであったはずなのだが。(江戸時代以前の人びとの生活の感覚としては、天皇なんて関係なかったはずだし、近代的な学校などもなかった。学校は、ことさらフーコーなど持ち出すまでもなく、まさしく近代を象徴するものである。)

小泉八雲の見た、日本の伝統的な生活とはいったい何だったのだろうか。

小泉八雲については、現代の価値観からすると、いわゆるリベラル・左派的な立場からも、逆に、いわゆる保守・右翼的な立場からも、評価することができる。いわく、異文化への理解、多文化共生の先駆的存在である。いわく、日本の古来の伝統文化、霊性を見出した、希有なヨーロッパ人である。などなど。現代の視点からは、どのようにも評価できる。これを、コミカルに描いている明治時代の没落士族の生活とからめて、うまく活かすことができれば、このドラマは、非常によいものになるだろう。

月曜日の始まりは、八雲とセツが「耳なし芳一」を語るシーンからだった。ドラマの中では言っていなかったのだが、史実をふまえているとすると、ここは東京であったはずである。小泉八雲というと松江のことを連想するのだが、実際に松江にいたのは、2年に満たない。その後、熊本(五高)、神戸、東京(東大、早稲田)と移ることになる。五高と東大では、夏目漱石の人生と交わることになる。

この五高から東大という流れのなかで、近代の高等教育と、文学を講じること、それと、日本の怪異への関心、これらをどのように総合的に描くことになるのだろうかと、思っている。

「坂の上の雲」の時代における「忘れられた日本人」をどう描くことになるのか、その中で、八雲とセツ(トキ)の気持ちをどう描くのか、このあたりが、このドラマの見どころになるかなと思っている。

2025年10月3日記

ワールド・トラックロード「ニュージーランド編」2025-10-06

2025年10月6日 當山日出夫

ワールド・トラックロード ニュージーランド編

再放送である。最初は、2025年3月22日。

ニュージーランドだから、自動車は左側を走る。

オーストラリア編のときにも思ったことであるが、陸路をトラックで運ぶよりも、船で運んで、港から目的地までコンテナをトラックで運ぶ、というのが合理的なように思えるのだが、これはこれとして理由があってのことなのだろう。

ニュージーランドの道路は、大草原の中を走るという感じではないが、人家は少なく、人間よりもヒツジの方がたくさんいる放牧地の中を悠々と走っている。こういう光景は、見ていていいなあと思う。

まあ、見方によっては、もともとマオリの人びとの住んでいるところに、白人がやってきて、ヒツジや牛を飼い始めたという歴史にはなるのだろうが、そう思って見るとしても、いい風景だと感じる。

海岸沿いを走っていて、野生のオットセイがいて、その子どもが見られるというのは、とてもいい。

トラックの中に冷蔵庫も電子レンジもあるのは、現代ならではあるが、料理を道ばたで作って、それを立ったままで食べるというのは、日本の感覚からするとあまりなじまないと思える。日本だと、コンビニのおにぎりを食べるとしても、運転席に座って食べるだろう。そういえば、この番組の中ではコンビニが出てきていなかったが、ニュージーランドには少ないのか、あるいは、わざと映さなかったのか。

道路沿いのレストランで食べる、スコーンとかパイは、とても美味しそうである。

そういう光景をえらんで編集してあるのかもしれないが、道路が空いている。日本だと、東名高速のような道路を走っていることになると思うのだが、自動車があまり走っていない。(パトカーだと思うが、追い越していくシーンは、ひやりとするところだったが。)

南の島から北の島まで、フェリーで渡るのに、三時間半もかかる。だが、こういう時間がのんびりとすぎていくのもいい。フェリーの中にトラック運転手専用のスペースが作ってあるというのは、日本でも見ることができる。

一つの国の経済活動を支えるのが、トラック輸送ということは、どこの国でも同じことだろう。そういう時代に、現代の世界はなっているということを強く感じる。

また、この番組が基本的にそう作ってあるのかと思うが、トラック運転手の生活の感覚は、今の時代としては保守的である。家族がいて、その我が家のもとへ最後は帰るようになっている。こういう人たちの仕事のおかげで、世の中が動いていると思うならば、ことさらとがめだてすることはないだろう。

2025年9月29日記

『八重の桜』「包囲網を突破せよ」2025-10-06

2025年10月6日 當山日出夫

『八重の桜』「包囲網を突破せよ」

江戸時代の城で、近代になってから、籠城戦を戦ったとなると会津戦ぐらいだろうか。他に思いつくところとしては、西南戦争のときの熊本城がある。あるいは、五稜郭をふくめることもできるかもしれない。だが、城そのものでの攻防戦が展開されたとなると、やはり会津だろう。

ドラマとしては、『八重の桜』の中で一番のクライマックスと言っていいところである。これが、後の京都での同志社を中心とした話しになると、がらりと趣が変わってくる。

ドラマとして見ていると面白いのだが、ちょっと気になることとして、この時代、小銃に銃剣を着けて突撃する、白兵戦ということを、実際にやっていただろうか。このころの小銃では、連発式ではなかったはずだから、一発発射するごとに、弾をこめなおさないといけない。そのひまに、なぎなたで斬りかかれたら、たぶんなぎなたの方が強い(?)だろうと思うが、どうだろうか。

今でも、銃剣術という形で格闘技の一つとして残っていることは知っている。だが、戦史のなかで、銃剣というのはどれぐらい実戦で使われた戦法だったのだろうか。

現代の世界中で最も多く使われている自動小銃は、カラシニコフだろうと思うのだが、カラシニコフに銃剣を着けて突撃する、白兵戦を戦うという場面が、あまり想像できない。(そのように改造してあるものもあるかもしれないのだが。)

結果としては会津城は落城する。その戦争後に撮影した天守閣の写真が残っている。(確認するのが面倒なので見ていないが)たしか、国立公文書館のデジタルアーカイブで見られたかと憶えている。戦争が終わって、勝者(明治政府軍)から見た敗者(旧会津藩)ということが、象徴的に表現されている。

2025年10月5日記

『べらぼう』「地本問屋仲間事之始」2025-10-06

2025年10月6日 當山日出夫

『べらぼう』「地本問屋仲間事之始」

ドラマとして見ていると、それなりに面白く作ってある。(何度も同じことを書いていることになるが)江戸時代の出版ということを背景にしていると見ると、とてももの足りない。

この時代の出版が、戯作と錦絵、ほぼこれだけだったはずはない。こんなことは、分かっていることとして、とりあえず、戯作の世界のことでドラマを作っています、ということで見るなら、こういう描き方もあっていいだろうとは思う。

しかし、そうであるならば、その戯作や戯作者というのが、どういう作品であり、どんな人が作者であったのか、ということが、あまり説得力があるように描けているとは思えない。

文学史の常識としては、戯作者が、それだけで生計をたてていたということはない。本業が別にあった。それは武士であったり、商人であったり、である。武士であることについては、恋川春町、大田南畝で、いくぶんふれるところがあった。山東京伝は、煙草屋であったということは、当たり前すぎることだと思っているのだが、その商売にかかわることがまったく出てこない。別に、ドラマとして、煙草屋でなくてもいいのだが、戯作が本業といえるものであったかどうか、他に生計の道を持っていたかどうか、ということは、戯作とは何かについていうためには、まず必須のことであるだろう。こういうことが描いてあって、次の時代の戯作者である、曲亭馬琴などがどうであったか、ということに繋がると思っているのだが。

もし、戯作を蔦重のいうように抵抗であるとしたいなら、それができるのは、どういう立場だからだったのか、あるいは、できなかったのか、というあたりのことが、もうすこし説明的に描いてあってもいいと思う。まあ、ここのところにふみこむと、戯作とは何かという本格的な議論になるのだが。

前回、本居宣長が名前だけの登場だった。本居宣長について見るならば、この時代、その学問をささえることになった、日本の古典のみならず、歴史書や漢籍など、非常に多くの書物が、伊勢の松阪の地にいても、入手できるものであり、また、全国に国学を学ぶ人的なネットワークがあったことが分かる。このような江戸時代の出版の世界のことが、これまでのドラマの中では、まるっきり無かったかのようになっている。

日本国内での書物のこともあるが、中国(清)や朝鮮などからも、書物は日本にもたらされていた。

であるにもかかわらず、この回になって、蔦重が、上方の本屋と手を組み、さらには、全国的な書物の販売にまで乗り出そうとする……という展開にもってくるのは、とても無理があると思うことになる。

戯作として確実に考証ができる範囲、黄表紙や吉原の細見に限定して描いてきた……考証にかかわるとして、研究者としては、はっきり責任を持って分かる範囲以外のことについては、ものを言いたくない……ということもあったのかもしれないが、蔦重を主人公としたドラマの作り方としては、かなり無理があったのではないかと思えてならない。

戯作者については、どちらかといえば、常識的な社会人という側面を出した人物造形になっているのだが、歌麿については、まったく真逆の方向で、人物を描いている。天才絵師の狂気、ということになるかもしれないが、江戸時代のクリエイタとしては、その対比がうまくいっているとは思えない。それぞれに見れば、そういう人間であったかも、とは思うのだが。他に、俳諧や、漢詩文などの、創作の世界も広がっていた時代である。全体として、江戸時代の各種の文芸の雰囲気ということが、もう少し感じられる作り方であってもいいかと思うところである。

2025年10月5日記