「アカデミック・ライティング」を教える2007-11-25

人文学の本質は、その教授法とともにある・・・このような趣旨のことを、『漢字文献情報処理研究』の第7号(2006)、第8号(2007)、に書いた。文章のタイトルは、「なぜ文系と理系の議論はすれ違うのか」。

第7号に書いたのは、編集部からの依頼原稿として。その後、あれこれ考えるところがあって、第8号に続編を書くことになった。そのためというわけではないが、今は、この研究会(漢字文献情報処理研究会)の会員の一人でもある。

「アカデミック・ライティング」・・・これは、私が、昨年度(2006)から担当している、大学の授業科目名を、そのまま借用した。そして、このブログのカテゴリーに使うことにした。漢字をつかって書けば、大学生のための文書作成技法、とでもなるだろう。

いま、もともとの専門領域である日本語(その歴史)を、大学で教えるのは、ごくわずかのコマしかない。そのほかは、コンピュータであったり、アカデミック・ライティング、であったり、という状態である。

コンピュータも文書作成技法も、私は、大学では学んでいない。

大学生のころ、確かにコンピュータの授業もあったと記憶する。しかし、三田の文学部の国文科の学生にとっては、FORTRANもCOBOLも、縁の無いものであった。

論文の書き方は、みようみまねで覚えていくしかなかった。まだ、ワープロ専用機(いまはもう無くなったが)も、パソコンも無い時代、ひたすら、原稿用紙に万年筆で字を書いていた。専門の論文を読みながら、そのマネをして、身につけていくだけであった。

日本語について教える場合であれば、相手の学生のレベルの違いはあるとしても、基本的に、自分の学んできたことを、教えればよい。これは、日本語学にかぎらず、他の人文学の研究分野においても、同様であろう。学生のとき、先生にならったことを、学生に教える。

しかし、学生のときに、まったく「授業」として習ったことのないことを、あらたに、教師の立場で学生に教えるとなると、いろいろ、とまどうことがある。そもそも、いったい何を教えればいいのか、わからないのである。

アカデミック・ライティング・・・人によって、このことばからイメージする内容は異なっているだろう。私は、とりあえず、こう考えてみることにした。「論文の書き方」とは、学知の継承のあり方の一部を、ある視点から見たものであろう、と。

この意味において、「デジタル・ヒューマニティーズ」と「アカデミック・ライティング」を、ならべて考えることにしたい。学知のデジタル化の流れのなかで、むかしながらの原稿用紙に万年筆という作文教育の方法は、もはや通用しないと考えた。

デジタルの世界における、作文教育・文書作成技法、といっても、まったく試行錯誤である。ここでは、私なりの、試行錯誤を語っていくことになろう。

(注)漢字文献情報処理研究会 http://www.jaet.gr.jp/

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