『虎に翼』「屈み女に反り男?」2024-04-28

2024年4月28日 当山秀お

『虎に翼』第4週「屈み女に反り男?」

『寅に翼』を見ていて思うことは、このドラマの脚本は、いわゆる保守的な男性中心主義を気にするというよりも、現代の先鋭的なフェミニズム論者の批判をかなり気にかけて作っていると思う。簡単にいえば、今ではそんな古い考え方(それがフェミニズムの範疇にはいるものであっても)は通用しないという批判をどう避けるかということを考えて作ってあるように思える。

このドラマは「思想の歴史」を描かない。思想史としては通時的に描くところを、このドラマでは、様々な境遇の寅子の同級生たちによって共時的に描いているということになる。例えばよねなどは『女工哀史』の時代を彷彿とさせる。(なお、これまでに、平塚らいてうの名前は登場してきていないはずである。)

ヒロインの子役がなかった。いきなり女学生からの登場だった。これは意図的にそうなのだろう。

寅子は、「はて」と言う。だが、なぜ、そのように言うようになったのか、生いたちとか、学校の友達関係とか、親戚との関係とか、このようなものは出てきていない。つまり、寅子は、はじめから「はて」を口にする存在なのである。この「はて」は、今日でいうフェミニズムに通じるものとして、描かれている。特に男女の違いということについて、寅子は「はて」を連発する。

すくなくともこれまでのところ、寅子については、なぜ男女の違いということについて、「はて」と疑問をいだき、それをストレートに口にするようになったのか、ということについての説明的描写はない。これまで描かれてきた寅子の家族の様子からは、そのように育てられたということはうかがえない。

これは意図的にそうなのだろうと思う。

フェミニズムにも歴史がある。昭和の初めごろの時代、男女の権利についてどのように一般に考えられていたか、そのなかで先駆的な人たちはどのような意識を持っていたか、ということがあるだろう。それが、戦争から、戦後の新しい憲法になって、どのような価値観が日本のなかで生まれ広まり定着していったのか、欧米からどのような思想的影響があったか、その歴史があるはずである。だが、このドラマでは、この歴史の部分を細かには描かない方針のように見える。(最初の冒頭の部分で、寅子が憲法を読むシーンがあったが。)

寅子がどんな考えをもっていたか……ちょっと古めかしいことばを使っていえば、プチブルお嬢様フェミニズム、と言ってもいいだろう。それを、今日の先鋭的な考え方から見るならば、場合によっては、非常に批判的に見ることもできるかもしれない。

どのような歴史的な環境、人間関係のなかで育ったか描かない。それがどのように人格形成に影響があったか、完全に省略されている。これは、今再放送中の『オードリー』や『ちゅらさん』と比較するとはっきりする。

印象的だったのは、明律大学の学生である寅子とその仲間の女性の学生たちについて、バンカラ男子学生の轟が「漢」と言っていたことである。これは、テレビを字幕表示で見ているとそうなる。字幕で「漢」と出て、台詞では「おとこ」と言っていた。

一般的な意味としては、「漢」を「おとこ」と読ませる場合、男の中の男、男気のある男性、それの延長として、人間としての理想の一つの形、というような意味になる。つまり、明律大学で法律を学ぶ学生として、同じ同志であり、人間であり、理想を持っている、ということの認識になる。

今日で言うフェミニズムを、「漢」ということばに収斂させて、男子学生と女子学生との対立を止揚していることになる。

これは、たくみな(あるいは、ずるい)脚本の作り方だと思う。

寅子たちの考え方を歴史的に分析するということを回避することになる。また、いわゆる保守的な考え方からの寅子たちへの批判についても、きわめて一般的な、あるいは、日本的な理想論の人間についての考え方という方向で、かわすことができる。そして、男子学生と女子学生の対立を解消できる。

ところで、私の考えとしては、やはり寅子たちは特殊な存在だと思う。日本でようやく女性弁護士への道がひらけたときに、大学の法学部で学ぶというのは、先駆者としての覚悟がいることにちがいない。今でこそ、法曹に女性の活躍の場は広がっている。女性だからといって特別視することはない。しかし、戦前の日本でその道にこころざしたということは、相当の決意があってのことだと思わざるをえない。

時代として一般に女性の社会進出がまだまだの時代である。これを、特別視してほしいわけじゃない、という寅子の言い方には、かなり無理があると感じる。もしそう思っていたとしても、周囲の人が特別視しないではいられないのが普通の感覚だろう。その周囲の目を意識することはあったと思わざるをえない。

この週で徹底的に悪いイメージで描かれていたのが、梅子の夫の弁護士であり、その長男の帝大生である。これを、男=帝大=弁護士=社会的強者=悪者、というステレオタイプで見るならば、梅子は、その真逆の存在として、きわめて人間的で正しい存在ということになる。

だが、まだ小学生の子どもを家に残して、おそらくその面倒は家で義母か女中がみることになるのだろうが、明律大学の女子部から法学部に通っているというのも、素直には納得しがたいものがある。ここのストーリーの意味づけとしては、親権を手にいれるために法律を学んでいる、ということにしてあった。これは、たしかに現代の視聴者にうったえる部分ではある。だが、幼い子どものことを思うならば、少しでも家にいて一緒の時間をすごしたいと思うのではないだろうか。そして、法的に争うことになった場合、育児を義母や女中任せにしておいて、大学に通っているということは、親権獲得のために、はたしてプラスにはたらくだろうか。このあたりのことについては、かなり無理のある筋書きだと私は考える。

ここでは、子どもを愛する母親は絶対に正しい存在である、という価値観が根底にあると感じるのだが、これははたして無条件に肯定できることなのだろうか。(このような母親の愛情絶対視が悲劇を生んでいるというのが実際の社会のある面かとも思うが、どうだろうか。)

梅子のエピソードは、女性の権利を主張すると同時に、女性の母性を求める考え方にも配慮した作り方となっている。これは、決して矛盾するというものではない。

さらに思うこととしては、明律大学の学生は、帝大生にコンプレックスを持っているということであった。一般的にそう言える状態だったかもしれないが、今でいう司法試験をうけて資格をとれば、出身大学はどこであっても、同じ資格の保持者ということで対等である、という側面もあったかと思う。すくなくとも、現代の司法試験、法曹の世界は、そのようなものだと理解している。ただ、それでも、内部的には、ある種の学閥的なものはあるかもしれないが。

それに、この当時の大学生といえば、それだけで立派な社会のエリートである。ここで、帝大に対するコンプレックスを大きくあつかう必要ななかったかと思う。あつかうなら、男性であっても、中学にもいけない、あるいは、高等学校にいけないというような、社会的階層の人びとのことであるべきだろう。ここは、進学するとしても商業学校であったような人びとを登場させるべきところである。

さらにいえば、昭和の初めのころは、不況で、大学に行ってもろくに仕事がなかった時代でもある。小津安二郎の映画『大学は出たけれど』は、昭和四年のことである。

さて、寅子のお父さんが逮捕されてしまった。これがこれからの寅子の人生にどう関係することになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2024年4月27日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/04/28/9679565/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。