『光る君へ』「うつろい」2024-04-29

2024年4月29日 當山日出夫

『光る君へ』第17回「うつろい」

私は、令和の年号は基本的に使わない。理由は、これを決めたときの総理大臣、それから、考案した人間が、大嫌いだからである。だが、今上陛下については、まさに天皇にふさわしい方であると思っている。

年号を決めるとき、手続きがある。だれが考案し、どのように決まるのか……このあたりのことは、平成から令和に改元したとき、いくつかの書物が出て、その裏の事情が明らかになっている。このときの改元のことは、歴史的に見れば異例であったということになる。

歴史考証として妥当と判断してのことなのだろうが、関白の道隆の発案で長徳の新しい年号に決まったというのは、どうなのだろうかと思う。このところについては、年号の歴史の専門家から、いろいろと意見のあるところかもしれない。さて、史実としてはどうっだたのだろうか。

令和の新元号の裏事情を書いた本としては、

野口武則.『元号戦記』(角川新書).KADOKAWA.2020

が一番面白かった。

清少納言は、さもありなんという感じであった。『枕草子』は一条帝中宮定子のサロンをきらびやかに描いているのだが、その裏には、貴族たちのどすぐろい権謀術数の数々がうごめいていた、それを身近で知っていたということになるだろうか。まあ、それを後にどのように『枕草子』に書くことになるかは、また別の問題ということになる。

まひろは、『荘子』の写本をしていた。画面に映った巻子本は、ヲコト点などはなかった。ここは、まひろの学力があれば、訓点などほどこさなくても読めた、ということになるだろうか。(まあ、朱のヲコト点を打った写本を小道具で作るのも手間であったということもあるのかもしれないが。書体としては行書で書いていたが、楷書であるべきかもしれない。)

まひろがさわに送った文を、さわは書き写していた。臨模していたということになる。漢文の文書には日付が入る。しかし、仮名書状には日付がない。これは、この当時の仮名書状が、どのような性格のものだったかをしめすことになる。

まひろは書くことに意味を見出している。後に物語を書くことになる布石となる。

最後の紀行は、祇園祭りであった。このとき、テレビの字幕に出る「祇」の文字は、「ネ氏」を使っていた。私は、別にこの字が正しいと思っているわけではないのだが、NHKでこの字を見るたびに、ちょっと責任を感じるところがないではない。機会があれば、祇園の再調査などやってみたいところなのだが、これはもう若い人の仕事になるだろう。

2024年4月28日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/04/29/9679816/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。