『群像』の特集:活版印刷の記憶2009-11-12

2009-11-12 當山日出夫

文芸誌『群像』(講談社)の2009年12月号は、「特集:活版印刷の記憶」となっている。もはや文芸誌など買わない私であるが、この特集号だけは、オンライン書店てすぐに注文して買ってしまってある。(いま、手元にある。)

次号から、オフセット印刷。活版は、今号が最後とのこと。で、確かに触ってみてみると、活版である。ただし、本文のみである。広告などは、オフセット。

まず、おどろいたのは、まだ、活版印刷を続けていたのか……ということ。いくら、文芸誌だからといって、作家のみなさんが、全員、原稿用紙に万年筆というわけではあるまいに、ワープロ入稿の原稿は、どのように処理していたのだろう。自動の文選・組版の機械というのはないわけであるし。

しかし、これも時代の流れだろう。もし、活版印刷を維持しようと思っても、その基盤がもはや絶滅している。文選・組版・印刷の技術は、かろうじて残っているかもしれない。しかし、そのもとになる活字を作る技術が、消え去ろうとしている。母型をつくることがもはやできない。その技術の現場が滅び去ろうとしている。また、文字のデザイン自体が、コンピュータ製版用のデザインに変わってきている。

活字、その一つ一つは、実は、消耗品なのである。大量の印刷の組版の活字を、もう一回、もとの棚にもどす、ということは、しない。一度、本を組んだ活字は、もとの鉛にしてしまって、新しく母型から作る。その母型が無くなったら、もう、新しい活字は作れない。

ともあれ、原稿用紙に万年筆であれ、パソコンでWordで書いたファイルであれ、日本語を書いたものにはちがいない。それで、作品のテキストが異なる、というなら、それも一つの価値観にはちがいない。しかし、それは、私には、滅び行く活版印刷=職人の手作業=高級な純文学文芸誌、という図式がどこかにあるように思えてならない。(単なる偏見か)。

電子ブックの時代、Amazonがキンドルを出すのと、時をおなじうして、活版が消え去るというのも、時代の流れである。私が読みたいのは、消えゆく活版への哀惜ではない。きたるべき、電子ブックの時代における、文芸作品のビジネスモデルの提言である。

作家が、原稿用紙に万年筆であること(これは、各人の自由である)と、本にするときに活版であるかオフセットであるか、さらには、組版データから電子ブックへの展開を考えるのか、そして、はじめから、デジタルメディアでの文学にむかうのか、いま、これこそが、考えるべきことである。

當山日出夫(とうやまひでお)

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