『夜明け前』(第一部)(下)島崎藤村2018-03-01

2018-03-01 當山日出夫(とうやまひでお)


島崎藤村.『夜明け前』第一部(下)(新潮文庫).新潮社.1954(2012.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105509/

続きである。
やまもも書斎記 2018年2月23日
『夜明け前』(第一部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/23/8792791

第一部の下巻は、参勤交代の廃止、長州征伐、大政奉還、といったあたりまで。まさに明治維新の激動期である。その激動期の動きを、この小説は、基本的に、信州馬籠の宿場町の日常のなかに描いている。あまり、主人公(青山半蔵)の視点から離れて、歴史の叙述にのめり込むことがない。

とはいえ、この第一部(下巻)で、大きく扱われているのは、水戸の天狗党の騒乱。維新史の一コマとの知識はもっていたが、そう知っているという事件でもなかった。この事件のことについて、かなりのページがつかってある。何故だろうかとと思って読んでいったのだが……つまりは、天狗党は筑波で挙兵の後、信州をたどって、越前までおちのびている。馬籠を通過しているのである。

天狗党については、『夜明け前』以外にも、いくつかの小説などで描かれている。それも読んでおきたいと思う。吉村昭、山田風太郎などが書いていたかと憶えている。(結局、天狗党の挙兵は失敗ということになるのだが、その維新の歴史のなかで敗れた人びとをどう描くか、今日の観点からは興味がある。)

ところで、やはりこの作品、基本的に、信州馬籠の庄屋であり本陣である青山半蔵の生活の視点から描かれている。長州でもなく、薩摩でもなく、京都でもなく、江戸でもなく。(作中、半蔵は、江戸に出かけて行くことはあるのだが。)あくまでも、信州馬籠の日常……その庄屋であり本陣である……の視点を、そう大きく離れることはない。

そして、その信州馬籠にいた、国学の徒……平田篤胤の没後の門人……として、大政奉還、王政復古ということは、理想とするところの古代にかえることを意味する。この視点から見るならば、明治維新というのは、本居宣長から平田篤胤にいたる思想、学問の流れの延長にあることになる。

下巻まで読んで印象に残ることとしては……江戸幕府の倒壊ということが、実感として感じる時代があった、その記憶を継承した作品であるということである。前にも書いたが、島崎藤村は明治5年に生まれている。(作品では、まだ、その誕生の前のことが語られる。)その藤村にとって、幕末のできごとは、自分の親の世代にとって同時代のできごとであった。

幕末に庄屋、本陣という職務にあった人びとの目から見て、江戸幕府の行き詰まりは、日常生活の感覚の上で実感できるものであった。中山道は、江戸と京都をむすぶ要路である。その街道の物流、人びとの動き、これから、時代の流れが、もはや止めようのない必然的な大きな流れとして、意識される。

徳川封建制の破綻を、地方の、庶民的な、日常的な感覚で捉えているといってもいいだろう(長州や薩摩でもなく、武士でもなく、という意味において。)

徳川政権の崩壊は必然であった。このように言ってもいいかもしれない。尊皇攘夷思想からの反幕府の動きが、倒幕という方向におおきく流されていく。その動き、徳川の支配の終わり、それを、本陣、庄屋という役職から感じる実感として描いてある。

また、青山半蔵は、国学を学んでいる。当時として、知識人といってよい。そのような国学の視点から見ての、幕末の動乱である。そこには、歴史の必然とでもいうべきものを見る感覚がある。個人の力ではどうしようもない、社会の大きな変動ということになろうか。江戸幕府は、倒れるべくして倒れたといってもいいかもしれない。

では、その後に生まれた明治時代はいかなる時代であるのか。それは、第二部以降のことになるのだろう。(昔、読んだが、もう忘れてしまっている。)この作品が明治という時代をどう描くか、続きを読むことにしたい。

追記 2018-03-05
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月5日
『夜明け前』(第二部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/05/8798048