『本居宣長』小林秀雄(その二)2018-03-16

2018-03-16 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長(下)

続きである。

やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701

小林秀雄.『本居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977)
http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/
http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/

普段、本を読むとき、付箋をつけながら読む。だが、この本(『本居宣長』)を読むときは、極力、付箋をつけなかった。付け始めたら、毎ページ付箋だらけになってしまいそうだったからである。

だが、そうはいいながら、どうしても、このことばは、小林秀雄が読んだ本居宣長として記憶にとどめておきたいと思って、付箋をつけた箇所がある。その一つを次に引用しておく。

「それが、宣長が、「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を越えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の眺めの内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「神(あや)しき」経験を、描き出すに到ったのである。」(下巻、p.155)

このような箇所を読むと、この後は、『古事記』『源氏物語』を読むしかない。あるいは、『古事記伝』を読むことになろうか。今の注釈本ではなく、『古事記伝』で『古事記』を読んだおかなければならないことになる。

筑摩書房版の『本居宣長全集』はもっている・・・覚悟をきめて『古事記伝』読破にとりくむことにしようか。(学生のころ、図書館で手にしたことはあるのだが、全巻の通読はしていない。このような人は多いだろう。)

いや『古事記伝』に限らず、世に「古典」といわれる本は多い。その多くがなぜ「古典」であるのか……それは、読まれてきた歴史のある書物であり、その読まれてきた歴史が、また新たな書物の歴史として積み重なっているものである。この意味において、小林秀雄『本居宣長』は、「古典」である。また、『古事記伝』を古典たらしめているのが、小林秀雄『本居宣長』であるともいえようか。

なお、付言しておくならば、新潮文庫版『本居宣長』を読んで、特にその「あはれ」の分析に接してみて、私の脳裏に去来したのは、『意識と本質』(井筒俊彦)であった。人間の精神のいとなみのもっとも奥深いところを見極めた文章である。

『意識と本質』も、この前読んだ(再読)のは、去年の夏のことになる。夏休みの読書と思って、いくつか井筒俊彦の著作を読みかえした。これも、さらに再読、再々読しておきたい。