「“百人一首” (1)「外から」見た魅力と謎」 ― 2024-11-07
2024年11月7日 當山日出夫
100分de名著 “百人一首” (1)「外から」見た魅力と謎
今から半世紀ほど前の昔、私が大学生になったときのことである。慶應の文学部であった。一年目は日吉のキャンパスで、教養課程になる。ちょうど私が入学した年からのことだったと思うが、三田の方から各学科から一人ずつ専門の先生がきて、特別に一コマ(通年)の講義があった。そのとき、国文科からは池田彌三郎先生の講義があった。教材は「百人一首」であった。
つかったテキストは、その当時の角川文庫版の『百人一首』(島津忠夫訳注)であった。これは、その当時において、「百人一首」の注釈書としては最高水準のものであった。その後、改訂新版が出て、これは、今でも「百人一首」の注釈書としては不動の地位にあるといっていいだろう。学生のときに使った、旧版の角川文庫の『百人一首』は、今でもしまってある。
池田彌三郎先生は、「ひゃくにんいっしゅ」とは言わなかった。「ひゃくにんしゅ」と言っていた。江戸っ子の言い方を伝えていたということである。
そのころ、国文学を勉強する学生が読んでおくべき本としてあったのが、岩波文庫の『百人一首一夕話』である。江戸時代に書かれた、啓蒙的な「百人一首」の解説であり、おもにその作者をめぐるいろんなエピソードが紹介されている。この本は、二回ぐらい読んだ。
「百人一首」は、近年になって急速に研究の進んだ文学作品の一つである。その成立、また、受容の歴史については、さまざまなことが分かってきている。特に成立論については、学生のころに学んだ知識では、追いつかなくなってきている。
第一回を見て思うこと、というか言いたいことはいくつかある。
山部赤人の「田子の浦……」の歌であるが、これは、『万葉集』にあるが、「百人一首」では改められている。(このようなことは、「百人一首」の注釈書なら書いてあることである。)「百人一首」にはこのような改作がある。それは、和歌の歴史、日本語の歴史をふまえて、理解しなければならないことになる。
番組の中で、和歌を書くと言っていた。おそらく「百人一首」は書かれたものとして成立したといっていいだろう。しかし、和歌の歴史をさかのぼれば、そもそもは書くものではなかった。まず、声に出して詠むものであったはずである。『万葉集』の歌の多くは、まず声に出して詠むものとして成立したと考える。ただ、全部がそうであるということではなく、一部には書かれたものもあったろう。そして、それは木簡が使われたとおぼしい。歌木簡の出土例などから、そう考えるのが、現在では妥当だろう。
昔は妻問婚で歌が必須であった。まあ、たしかにそうなのだろうが、これはやはり貴族階層に限って、と考えておくべきことかと思っている。一般の庶民にとって歌とはどんなものだったのか、これは分からないとすべきかもしれない。
ただ、日本文学における歌の歴史、受容ということを考えるとき、「百人一首」を手がかりとして、勉強することが有効であることは、これは私が学生だった昔も今も変わらないと思う。
2024年11月6日記
100分de名著 “百人一首” (1)「外から」見た魅力と謎
今から半世紀ほど前の昔、私が大学生になったときのことである。慶應の文学部であった。一年目は日吉のキャンパスで、教養課程になる。ちょうど私が入学した年からのことだったと思うが、三田の方から各学科から一人ずつ専門の先生がきて、特別に一コマ(通年)の講義があった。そのとき、国文科からは池田彌三郎先生の講義があった。教材は「百人一首」であった。
つかったテキストは、その当時の角川文庫版の『百人一首』(島津忠夫訳注)であった。これは、その当時において、「百人一首」の注釈書としては最高水準のものであった。その後、改訂新版が出て、これは、今でも「百人一首」の注釈書としては不動の地位にあるといっていいだろう。学生のときに使った、旧版の角川文庫の『百人一首』は、今でもしまってある。
池田彌三郎先生は、「ひゃくにんいっしゅ」とは言わなかった。「ひゃくにんしゅ」と言っていた。江戸っ子の言い方を伝えていたということである。
そのころ、国文学を勉強する学生が読んでおくべき本としてあったのが、岩波文庫の『百人一首一夕話』である。江戸時代に書かれた、啓蒙的な「百人一首」の解説であり、おもにその作者をめぐるいろんなエピソードが紹介されている。この本は、二回ぐらい読んだ。
「百人一首」は、近年になって急速に研究の進んだ文学作品の一つである。その成立、また、受容の歴史については、さまざまなことが分かってきている。特に成立論については、学生のころに学んだ知識では、追いつかなくなってきている。
第一回を見て思うこと、というか言いたいことはいくつかある。
山部赤人の「田子の浦……」の歌であるが、これは、『万葉集』にあるが、「百人一首」では改められている。(このようなことは、「百人一首」の注釈書なら書いてあることである。)「百人一首」にはこのような改作がある。それは、和歌の歴史、日本語の歴史をふまえて、理解しなければならないことになる。
番組の中で、和歌を書くと言っていた。おそらく「百人一首」は書かれたものとして成立したといっていいだろう。しかし、和歌の歴史をさかのぼれば、そもそもは書くものではなかった。まず、声に出して詠むものであったはずである。『万葉集』の歌の多くは、まず声に出して詠むものとして成立したと考える。ただ、全部がそうであるということではなく、一部には書かれたものもあったろう。そして、それは木簡が使われたとおぼしい。歌木簡の出土例などから、そう考えるのが、現在では妥当だろう。
昔は妻問婚で歌が必須であった。まあ、たしかにそうなのだろうが、これはやはり貴族階層に限って、と考えておくべきことかと思っている。一般の庶民にとって歌とはどんなものだったのか、これは分からないとすべきかもしれない。
ただ、日本文学における歌の歴史、受容ということを考えるとき、「百人一首」を手がかりとして、勉強することが有効であることは、これは私が学生だった昔も今も変わらないと思う。
2024年11月6日記
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