『八重の桜』「開戦!鳥羽伏見」 ― 2025-08-18
2025年8月18日 當山日出夫
『八重の桜』「開戦!鳥羽伏見」
鳥羽伏見の戦いである。軍事史的には、この戦いは、どう見ることができるのだろうか。
京都にいる敵を攻めるならば、基本的に南側から攻めるしかない。大阪の方から軍隊を進めてくるとすれば、淀川沿いに進んで、伏見辺りから北上するのが普通に考えるルートということになる。古来より、京都の南側は軍事的な要衝であった。古くは平家物語の宇治川の合戦がある。近代になってから、京都に陸軍がおかれたとき、南側に位置するように作った。今の龍谷大学のあるあたりである。この横の道を、通称、師団街道という。また、宇治には、弾薬庫を作った。これは、今でも自衛隊が使っている。(子どものころは、中に入ることができたりした。)
鳥羽伏見の戦いで、ドラマでは、薩摩軍と会津軍の戦いであり、それに、新撰組が加わるということだった。このとき、銃の性能の違いと言っていたが、はたして、この時代は、実際にどんな銃を使って、どのような戦術、作戦で、戦争したのだろうか。刀による斬り合い、ということは、そろそろ時代遅れになってきた時代であったということはいえるかもしれない。新撰組は、刀にこだわった雰囲気であるが。斎藤一としては、どうしてもそうなるだろう。
銃としては、先込め式から元込め式に変わり、また、ライフルとして射的距離の長い銃が使われるようになったころだったかと思っている。こういう武器の進化と、戦闘のあり方とは、どう関連するのか、軍事史的にどう考えることになるのか、これは興味のあるところである。ただ、八重が練習しているのは、スナイパーとしての技術であるように思える。覚馬が言っていたが、とにかく数が必要であることはたしかなのだが、その性能に応じた戦法でないと有効につかえないことも確かだっただろう。
会津で、神社に奉納する幟を作っているシーンは、よかった。このドラマの良さの一つは、女性が着ている着物にあると思って見ている。地味なのだが、しかし、(あくまでもイメージとしてなのだが)この時代の武家の女性らしい柄である。
2025年8月17日記
『八重の桜』「開戦!鳥羽伏見」
鳥羽伏見の戦いである。軍事史的には、この戦いは、どう見ることができるのだろうか。
京都にいる敵を攻めるならば、基本的に南側から攻めるしかない。大阪の方から軍隊を進めてくるとすれば、淀川沿いに進んで、伏見辺りから北上するのが普通に考えるルートということになる。古来より、京都の南側は軍事的な要衝であった。古くは平家物語の宇治川の合戦がある。近代になってから、京都に陸軍がおかれたとき、南側に位置するように作った。今の龍谷大学のあるあたりである。この横の道を、通称、師団街道という。また、宇治には、弾薬庫を作った。これは、今でも自衛隊が使っている。(子どものころは、中に入ることができたりした。)
鳥羽伏見の戦いで、ドラマでは、薩摩軍と会津軍の戦いであり、それに、新撰組が加わるということだった。このとき、銃の性能の違いと言っていたが、はたして、この時代は、実際にどんな銃を使って、どのような戦術、作戦で、戦争したのだろうか。刀による斬り合い、ということは、そろそろ時代遅れになってきた時代であったということはいえるかもしれない。新撰組は、刀にこだわった雰囲気であるが。斎藤一としては、どうしてもそうなるだろう。
銃としては、先込め式から元込め式に変わり、また、ライフルとして射的距離の長い銃が使われるようになったころだったかと思っている。こういう武器の進化と、戦闘のあり方とは、どう関連するのか、軍事史的にどう考えることになるのか、これは興味のあるところである。ただ、八重が練習しているのは、スナイパーとしての技術であるように思える。覚馬が言っていたが、とにかく数が必要であることはたしかなのだが、その性能に応じた戦法でないと有効につかえないことも確かだっただろう。
会津で、神社に奉納する幟を作っているシーンは、よかった。このドラマの良さの一つは、女性が着ている着物にあると思って見ている。地味なのだが、しかし、(あくまでもイメージとしてなのだが)この時代の武家の女性らしい柄である。
2025年8月17日記
『べらぼう』「我が名は天」 ― 2025-08-18
2025年8月18日
『べらぼう』「我が名は天」
人の世に情けはあるが、運命に容赦はない……このようなことを、山田風太郎が明治小説のどこかで書いていたと憶えている。ふくのことは、なんといえばいいのだろうか。
この回は、蔦重の出番があまりなかった。ドラマとして面白いかどうかとなると、いろいろと考えて新機軸の脚本であることは分かるのだが、私は、あまり面白いと思っては見なかった。こういう筋書でドラマを作ってもいいとは思うけれど。
そろそろ田沼意次の時代も終わりに近づいてきた。いろいろと不運が重なったということはある。浅間山の噴火、天明の飢饉、米価格の高騰、そして洪水。ほとんどが天災というべきものなのだが、これも歴史の運命のめぐりあわせというべきことなのかもしれない。歴史のもしもとして、このまま田沼意次の政治が後数年続いていたら、印旛沼の干拓が成功していたら、蝦夷地の上知ができて北海道開拓となっていたら……さまざまに考えることはできる。
だが、蝦夷地(北海道)の開拓のことは、難しかったかとも思う。これが「成功」したのは(無論、アイヌの側から見れば侵略以外のなにものでもなかっただろうが)、明治になってから近代的な農業、林業、酪農、などが導入されたということがあってのことであるはずである。また、米の生産が軌道に乗るのは、品種改良の結果として、寒冷地でも栽培可能な品種が普及してからのことである。(同様のことは、東北地方の米作にもいえるはずである。)
世の中が不景気になれば、その原因や理由がどのようなものであれ、(天変地異によるものであれ、アメリカの大統領の気まぐれ的な政策によるものであれ)、一般庶民の生活の困窮の怒りのほこさきは、とりあえず現在の政治へと向かう。それを、クーデターや内乱にならないように、なんとか手をうたないといけない。江戸時代ならば、せいぜい百姓一揆、打ち壊し、農民の逃散、ということだっただろうか。
家治が死んでしまった。さて、これは、自然な病死か、はたまた、毒をかわれたのか、ここはどうともとれる描き方になっていた。少なくとも、将軍の周りには、味方はいない……胸襟を開いて思うところを語る相手はいない、という権力者の孤独感のようなものは伝わってくる脚本にはなっている。
将軍が死ぬ場面としては、時代劇ドラマとしては異例の展開であったが、まずまずの出来映えといっていいだろうか。気になるのは、やはり、死穢ということを、この時代の人びと、特に武士たちが、どのように感じていたか、ということである。まあ、武士として戦闘(殺し合い)が職務だから(もともとは)、そんなことは気にしなかったということかとも思うが。(昨年の『光る君へ』では、平安貴族の死穢の感覚を描かない方針であった。)
松平定信をどう描くかは、難しいところかとも思うが、どうなるだろうか。怜悧な政治家というイメージがある一方で、下世話な話しも理解できるところもあった、複雑なところがあるかと思っている。この後、寛政の改革で、蔦重は酷い目にあうことになるが、これは、ある意味で、定信が戯作などの意味を分かっていたから、という理解もできるだろう。
これまで見てきて、徳川幕府の将軍の居室よりも、一橋の屋敷の方が贅沢で広壮なつくりなっていて、なんとなく違和感があったのだが、ドラマがこういう展開になると、そういう意図で作ってあったのか、という気持ちになる。
ふくのことは、不運としかいいようがない。このような死に方は、この時代、そう珍しいものではなかっただろうと思うが、はたしてどうだろうか。ただ、それでも、治安の悪化によって暴徒に殺されたということにはなっていなかったあたりが、かなり考えた脚本であった思うところである。
細かな演出だが、ふくは自分の赤ちゃんに乳をあげるときは左の胸を出していたが、近所の人がもらい乳にやってきたときは、右の胸を出していた。ただ、蔦重たちは、気を利かせたということで、長屋の外に出ていたが、しかし、昔は、女性が人が見ている前で、赤ちゃんに授乳することは、当たり前のことだった。だが、こういうところは、今の時代につくるドラマとしては、描けないところになっているかと思う。
近代になってからは、東京にあった貧民窟というべき場所について、いくつかのルポルタージュが書かれている。このような場所は、江戸時代にはどうだったのだろうか。近代になってからの都市生活のなかで生まれたものなのか、江戸時代から継続してあったものなのか、気になるところではある。
2025年8月17日記
『べらぼう』「我が名は天」
人の世に情けはあるが、運命に容赦はない……このようなことを、山田風太郎が明治小説のどこかで書いていたと憶えている。ふくのことは、なんといえばいいのだろうか。
この回は、蔦重の出番があまりなかった。ドラマとして面白いかどうかとなると、いろいろと考えて新機軸の脚本であることは分かるのだが、私は、あまり面白いと思っては見なかった。こういう筋書でドラマを作ってもいいとは思うけれど。
そろそろ田沼意次の時代も終わりに近づいてきた。いろいろと不運が重なったということはある。浅間山の噴火、天明の飢饉、米価格の高騰、そして洪水。ほとんどが天災というべきものなのだが、これも歴史の運命のめぐりあわせというべきことなのかもしれない。歴史のもしもとして、このまま田沼意次の政治が後数年続いていたら、印旛沼の干拓が成功していたら、蝦夷地の上知ができて北海道開拓となっていたら……さまざまに考えることはできる。
だが、蝦夷地(北海道)の開拓のことは、難しかったかとも思う。これが「成功」したのは(無論、アイヌの側から見れば侵略以外のなにものでもなかっただろうが)、明治になってから近代的な農業、林業、酪農、などが導入されたということがあってのことであるはずである。また、米の生産が軌道に乗るのは、品種改良の結果として、寒冷地でも栽培可能な品種が普及してからのことである。(同様のことは、東北地方の米作にもいえるはずである。)
世の中が不景気になれば、その原因や理由がどのようなものであれ、(天変地異によるものであれ、アメリカの大統領の気まぐれ的な政策によるものであれ)、一般庶民の生活の困窮の怒りのほこさきは、とりあえず現在の政治へと向かう。それを、クーデターや内乱にならないように、なんとか手をうたないといけない。江戸時代ならば、せいぜい百姓一揆、打ち壊し、農民の逃散、ということだっただろうか。
家治が死んでしまった。さて、これは、自然な病死か、はたまた、毒をかわれたのか、ここはどうともとれる描き方になっていた。少なくとも、将軍の周りには、味方はいない……胸襟を開いて思うところを語る相手はいない、という権力者の孤独感のようなものは伝わってくる脚本にはなっている。
将軍が死ぬ場面としては、時代劇ドラマとしては異例の展開であったが、まずまずの出来映えといっていいだろうか。気になるのは、やはり、死穢ということを、この時代の人びと、特に武士たちが、どのように感じていたか、ということである。まあ、武士として戦闘(殺し合い)が職務だから(もともとは)、そんなことは気にしなかったということかとも思うが。(昨年の『光る君へ』では、平安貴族の死穢の感覚を描かない方針であった。)
松平定信をどう描くかは、難しいところかとも思うが、どうなるだろうか。怜悧な政治家というイメージがある一方で、下世話な話しも理解できるところもあった、複雑なところがあるかと思っている。この後、寛政の改革で、蔦重は酷い目にあうことになるが、これは、ある意味で、定信が戯作などの意味を分かっていたから、という理解もできるだろう。
これまで見てきて、徳川幕府の将軍の居室よりも、一橋の屋敷の方が贅沢で広壮なつくりなっていて、なんとなく違和感があったのだが、ドラマがこういう展開になると、そういう意図で作ってあったのか、という気持ちになる。
ふくのことは、不運としかいいようがない。このような死に方は、この時代、そう珍しいものではなかっただろうと思うが、はたしてどうだろうか。ただ、それでも、治安の悪化によって暴徒に殺されたということにはなっていなかったあたりが、かなり考えた脚本であった思うところである。
細かな演出だが、ふくは自分の赤ちゃんに乳をあげるときは左の胸を出していたが、近所の人がもらい乳にやってきたときは、右の胸を出していた。ただ、蔦重たちは、気を利かせたということで、長屋の外に出ていたが、しかし、昔は、女性が人が見ている前で、赤ちゃんに授乳することは、当たり前のことだった。だが、こういうところは、今の時代につくるドラマとしては、描けないところになっているかと思う。
近代になってからは、東京にあった貧民窟というべき場所について、いくつかのルポルタージュが書かれている。このような場所は、江戸時代にはどうだったのだろうか。近代になってからの都市生活のなかで生まれたものなのか、江戸時代から継続してあったものなのか、気になるところではある。
2025年8月17日記
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