100分de名著「ブラム・ストーカー“ドラキュラ” (1)「ドラキュラ」の誕生」 ― 2025-10-11
2025年10月11日 當山日出夫
100分de名著 ブラム・ストーカー“ドラキュラ” (1)「ドラキュラ」の誕生
『ドラキュラ』は読んだことがないのだが、第一回を見て思うこととしては、文学を語るにしては、随分と強引だな、ということである。
作者が、アングロ・アイリッシュ、つまり、イギリス系でアイルランドの住人、ということは、たしかにそうなのだろうが、だからといって、それをすぐにアイデンティティということで言ってしまうのは、文学を語るときには、あまりにも短絡的である。
アイデンティティということばは、一定年齢以下の人にとっては、ごく普通に使うことばであり、日常的な用語になっている。しかし、このことばが広く使われ始めたのは、日本では、1970年代以降のことである。その時代の、最先端の社会心理学用語だったといっていいだろうか。「現代のエスプリ」でもアイデンティティという特集があったぐらいである。それぐらい、新規性の感じられることばであり、概念だった。
とても便利な概念なので、よく使う。だからこそ、学問的な用語として使う場合には、かなり注意すべきことである。アイデンティティということばをつかえば、どんな人間にでも、なにがしかの論点を見つけ出すことができる。決して、マイノリティだけに使うことのできることばではなくなっている。
性的マイノリティだから、こうだっただろうということも、安易に使いすぎる。~~である人は、~~だろう、~~であるべきだ、~~ではないはずだ、などと思うことは、これこそまさしく差別と偏見の温床である。~~には、人間の属性のいろんなことが入りうる。
番組の始めで、ネガティヴ・ケイパビリティについて言っているのだから、こういうところでは、拙速な断定的な言い方や憶測は極力避けるべきである。
それから、英語帝国主義を言うのに、19世紀の大英帝国の時代のことと、今のアメリカのトランプ大統領のことを、ならべて語るのは、あまりにも乱暴である。19世紀のイギリスの小説だから英語になっているのであって、これが、ロシアの小説だったらフランス語として出てきていてもおかしくない。それと現代の、世界の中での英語のことは、また、次元の異なる問題である。
『ドラキュラ』の時代のリンガフランカとしての英語、ということをいいたいのならば、その時代のヨーロッパの政治的文化的な状況をまずは説明しておかなければならない。
演劇にかかわっていたから、視覚的な描写にすぐれている……こういうことは、文学研究者が軽々に言っていいことではない。これで文学研究者と名乗れるとするならば、あまりにも幼稚すぎる。
問題意識が先走りすぎていて、文学とか言語とかについて、基本的なことから考えなおして、もうすこし緻密な議論がいろいろとあることをふまえて、語るべきだっただろう。この番組だからといって、一般向けに分かりやすく語ることと、雑に語ることは、同じではない。
2025年10月8日記
100分de名著 ブラム・ストーカー“ドラキュラ” (1)「ドラキュラ」の誕生
『ドラキュラ』は読んだことがないのだが、第一回を見て思うこととしては、文学を語るにしては、随分と強引だな、ということである。
作者が、アングロ・アイリッシュ、つまり、イギリス系でアイルランドの住人、ということは、たしかにそうなのだろうが、だからといって、それをすぐにアイデンティティということで言ってしまうのは、文学を語るときには、あまりにも短絡的である。
アイデンティティということばは、一定年齢以下の人にとっては、ごく普通に使うことばであり、日常的な用語になっている。しかし、このことばが広く使われ始めたのは、日本では、1970年代以降のことである。その時代の、最先端の社会心理学用語だったといっていいだろうか。「現代のエスプリ」でもアイデンティティという特集があったぐらいである。それぐらい、新規性の感じられることばであり、概念だった。
とても便利な概念なので、よく使う。だからこそ、学問的な用語として使う場合には、かなり注意すべきことである。アイデンティティということばをつかえば、どんな人間にでも、なにがしかの論点を見つけ出すことができる。決して、マイノリティだけに使うことのできることばではなくなっている。
性的マイノリティだから、こうだっただろうということも、安易に使いすぎる。~~である人は、~~だろう、~~であるべきだ、~~ではないはずだ、などと思うことは、これこそまさしく差別と偏見の温床である。~~には、人間の属性のいろんなことが入りうる。
番組の始めで、ネガティヴ・ケイパビリティについて言っているのだから、こういうところでは、拙速な断定的な言い方や憶測は極力避けるべきである。
それから、英語帝国主義を言うのに、19世紀の大英帝国の時代のことと、今のアメリカのトランプ大統領のことを、ならべて語るのは、あまりにも乱暴である。19世紀のイギリスの小説だから英語になっているのであって、これが、ロシアの小説だったらフランス語として出てきていてもおかしくない。それと現代の、世界の中での英語のことは、また、次元の異なる問題である。
『ドラキュラ』の時代のリンガフランカとしての英語、ということをいいたいのならば、その時代のヨーロッパの政治的文化的な状況をまずは説明しておかなければならない。
演劇にかかわっていたから、視覚的な描写にすぐれている……こういうことは、文学研究者が軽々に言っていいことではない。これで文学研究者と名乗れるとするならば、あまりにも幼稚すぎる。
問題意識が先走りすぎていて、文学とか言語とかについて、基本的なことから考えなおして、もうすこし緻密な議論がいろいろとあることをふまえて、語るべきだっただろう。この番組だからといって、一般向けに分かりやすく語ることと、雑に語ることは、同じではない。
2025年10月8日記
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