教室というアーキテクチャ ― 2009-07-08
2009/07/08 當山日出夫
いったい何時から日本の学校は、小学校から大学まで、一人の先生が前にいて、ずらっと生徒・学生の机があって、というかたちになったのか(これは、調べればわかるだろう。)
問題は、このような形態の教室における机の配置、教師と生徒の位置関係が、アーキテクチャとして機能すること。本来は、授業・講義をするための配置であったはずである。それが、いつのまにか逆転して、このような机と椅子の配置であるから、このような授業形態になる、というようになってしまう。意識せざるうちに、これはおこる。
学校のコンピュータ教室でも、しかり。なぜ、普通の教室の机の上にコンピュータが載っているだけのデザインのコンピュータ教室になるのか。
学生同士が、(そこに教師も加わって)相互に対話しながら、ものを学んでいくという方向が、ここからは、自然と失われていく。そのことに気づかない。
このことにあえて自覚的であろうとしなければならない。
當山日出夫(とうやまひでお)
いったい何時から日本の学校は、小学校から大学まで、一人の先生が前にいて、ずらっと生徒・学生の机があって、というかたちになったのか(これは、調べればわかるだろう。)
問題は、このような形態の教室における机の配置、教師と生徒の位置関係が、アーキテクチャとして機能すること。本来は、授業・講義をするための配置であったはずである。それが、いつのまにか逆転して、このような机と椅子の配置であるから、このような授業形態になる、というようになってしまう。意識せざるうちに、これはおこる。
学校のコンピュータ教室でも、しかり。なぜ、普通の教室の机の上にコンピュータが載っているだけのデザインのコンピュータ教室になるのか。
学生同士が、(そこに教師も加わって)相互に対話しながら、ものを学んでいくという方向が、ここからは、自然と失われていく。そのことに気づかない。
このことにあえて自覚的であろうとしなければならない。
當山日出夫(とうやまひでお)
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