『べらぼう』「『青楼美人』の見る夢は」 ― 2025-03-10
2025年3月10日 當山日出夫
『べらぼう』 『青楼美人』の見る夢は
『青楼美人合姿鏡』を今では、WEBで見ることができる。文化遺産オンラインにある。東京国立博物館の所蔵。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/556070
以前、学生にデジタルアーカイブについて教えることがあったのだが、そのころ、はっきりいって文化遺産オンラインは、使い物にならなかった。まあ、文化庁で作った、いかにもお役所仕事という感じのHPで、画像も小さいし、検索機能も貧弱だし、説明も不十分だし……いいところはなかった。しかし、その後、改善されて役立つようになってきた。
これを見ると、確かに瀬川花魁が描かれている。
ドラマの中で出てきた本を見るシーンは、おそらくは、オリジナルの画像を加工して小道具として作ったものなのだろう。ゼロから、このような絵を描くことは、とても大変である。(無論、この時代のものだから、著作権としてはとうに消滅している。)
女郎の吉原での日常の姿(客をとっているところではなく、もっと有り体にいえば春画としてではなく)を描くということは、画期的なことだったのかとも思う。これは、日本における遊女の歴史、絵画の歴史、という面からいろいろと考えることができるだろうと思う。
吉原は、あくまでも悪所であって、市中から切り離されているところに、その存在意義があったはずである。お客さんは、市中から来ることにはなるが、これは、ある意味では、日常からは別のところにある、異なる価値観の世界である、ということがあったはずである。日常の延長ではないところに意味があり、しかし、行こうと思えば行くことができる。このあたりの、微妙な両義的なところが、吉原の魅力であったのかと思う。
吉原と、市中の本屋が、争うということが、どうにも理解できないところでもある。出版史の方からの考証で、こういうことだったということなら、そうなのかなとは思うが、実際にはどうだったのだろうか。そもそも吉原関係の出版というものが、かなり特殊なものであるはずなので、そう大きな出版ビジネスということはなかったかと思う。はたしてどうだったのだろうか。
『青楼美人合姿鏡』は、はたしてどれぐらいの部数を作って、どこで、どう売られたものなのだろうか。そもそも、カラー(多色刷り、錦絵)の本が、そう多くの部数を作ったということはなかっただろう。
上様……将軍、あるいは、御公儀とでも言った方がいいだろうか……に献上したということだが、実際はどうだったのだろうか。まあ、もし、そうであったとしても、それが直接、将軍の目に触れる必要はないだろうと思う。形式的にそういう形をとることが出来れば良かったはずである。
上様がご覧になったということで、付加価値をつけたいということなのだが、江戸時代、はたしてこれで宣伝になったのだろうか、という気がしないでもない。上様がご覧になろうがどうしようが、江戸っ子には関係ないこと……こう考えることもあったかと思うのだが、どうだったのだろうか。
どうにも理解できないことが、蔦重の言っていることである。吉原を、江戸っ子のあこがれるようなところにしたい。これは、この時代の社会のシステムを考えれば、無理なことのように思える。吉原が女性を性的に搾取する場所である、という面は変えることはできないだろう。これが吉原のすべてというわけではないが。
ただ、吉原の格を上げたい、ということはあっただろう。幕府の公認の遊廓ということだけではなく、市中の人びとにとって、吉原で遊ぶことが、社会的ステイタスである、という意識があるようにしたいということだろう。花街にも格があるということは、確かにそうだろう。近代になってからの話しとしては、東京でも、芸者さんたちには、どの地域であるか、格付けがあった。無論、一方で、安ければいいという客もいたにはちがいない。それならば、市中の岡場所にでも行けばいいということになるだろう。女生と遊ぶにも、格を求めるというのも人間というものである。
この回の見せ場としては、瀬川の白無垢姿での花魁道中ということになる。それから、吉原の弁柄格子の赤色を使った女郎の姿が、非常に印象的な映像として描かれている。このあたりが、このドラマの工夫の一つだということになる。
蔦重の作った吉原細見が捨てられていた。ゴミとなったようだが、江戸時代であれば、古紙として再利用したはずだと思っているのだが、どうだろうか。
蔦重と田沼が顔見知りであったという設定は、この回につながることになっていたが、別に、この二人が面識がなくても、このドラマは十分に成りたつ。無理にこういう設定にしなくてもいいのではないだろうか。
吉原のなかで、少女たちが、けんけんぱ、と言って遊んでいたが、この時代からあったのだろうか。(子どもの遊びというのは、ものとして残らないので、考証としては難しいところかもしれないが。)
江戸城で、高岳が登場していたが、さすがの貫禄である。これぞ大奥という感じだった。
2025年3月9日記
『べらぼう』 『青楼美人』の見る夢は
『青楼美人合姿鏡』を今では、WEBで見ることができる。文化遺産オンラインにある。東京国立博物館の所蔵。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/556070
以前、学生にデジタルアーカイブについて教えることがあったのだが、そのころ、はっきりいって文化遺産オンラインは、使い物にならなかった。まあ、文化庁で作った、いかにもお役所仕事という感じのHPで、画像も小さいし、検索機能も貧弱だし、説明も不十分だし……いいところはなかった。しかし、その後、改善されて役立つようになってきた。
これを見ると、確かに瀬川花魁が描かれている。
ドラマの中で出てきた本を見るシーンは、おそらくは、オリジナルの画像を加工して小道具として作ったものなのだろう。ゼロから、このような絵を描くことは、とても大変である。(無論、この時代のものだから、著作権としてはとうに消滅している。)
女郎の吉原での日常の姿(客をとっているところではなく、もっと有り体にいえば春画としてではなく)を描くということは、画期的なことだったのかとも思う。これは、日本における遊女の歴史、絵画の歴史、という面からいろいろと考えることができるだろうと思う。
吉原は、あくまでも悪所であって、市中から切り離されているところに、その存在意義があったはずである。お客さんは、市中から来ることにはなるが、これは、ある意味では、日常からは別のところにある、異なる価値観の世界である、ということがあったはずである。日常の延長ではないところに意味があり、しかし、行こうと思えば行くことができる。このあたりの、微妙な両義的なところが、吉原の魅力であったのかと思う。
吉原と、市中の本屋が、争うということが、どうにも理解できないところでもある。出版史の方からの考証で、こういうことだったということなら、そうなのかなとは思うが、実際にはどうだったのだろうか。そもそも吉原関係の出版というものが、かなり特殊なものであるはずなので、そう大きな出版ビジネスということはなかったかと思う。はたしてどうだったのだろうか。
『青楼美人合姿鏡』は、はたしてどれぐらいの部数を作って、どこで、どう売られたものなのだろうか。そもそも、カラー(多色刷り、錦絵)の本が、そう多くの部数を作ったということはなかっただろう。
上様……将軍、あるいは、御公儀とでも言った方がいいだろうか……に献上したということだが、実際はどうだったのだろうか。まあ、もし、そうであったとしても、それが直接、将軍の目に触れる必要はないだろうと思う。形式的にそういう形をとることが出来れば良かったはずである。
上様がご覧になったということで、付加価値をつけたいということなのだが、江戸時代、はたしてこれで宣伝になったのだろうか、という気がしないでもない。上様がご覧になろうがどうしようが、江戸っ子には関係ないこと……こう考えることもあったかと思うのだが、どうだったのだろうか。
どうにも理解できないことが、蔦重の言っていることである。吉原を、江戸っ子のあこがれるようなところにしたい。これは、この時代の社会のシステムを考えれば、無理なことのように思える。吉原が女性を性的に搾取する場所である、という面は変えることはできないだろう。これが吉原のすべてというわけではないが。
ただ、吉原の格を上げたい、ということはあっただろう。幕府の公認の遊廓ということだけではなく、市中の人びとにとって、吉原で遊ぶことが、社会的ステイタスである、という意識があるようにしたいということだろう。花街にも格があるということは、確かにそうだろう。近代になってからの話しとしては、東京でも、芸者さんたちには、どの地域であるか、格付けがあった。無論、一方で、安ければいいという客もいたにはちがいない。それならば、市中の岡場所にでも行けばいいということになるだろう。女生と遊ぶにも、格を求めるというのも人間というものである。
この回の見せ場としては、瀬川の白無垢姿での花魁道中ということになる。それから、吉原の弁柄格子の赤色を使った女郎の姿が、非常に印象的な映像として描かれている。このあたりが、このドラマの工夫の一つだということになる。
蔦重の作った吉原細見が捨てられていた。ゴミとなったようだが、江戸時代であれば、古紙として再利用したはずだと思っているのだが、どうだろうか。
蔦重と田沼が顔見知りであったという設定は、この回につながることになっていたが、別に、この二人が面識がなくても、このドラマは十分に成りたつ。無理にこういう設定にしなくてもいいのではないだろうか。
吉原のなかで、少女たちが、けんけんぱ、と言って遊んでいたが、この時代からあったのだろうか。(子どもの遊びというのは、ものとして残らないので、考証としては難しいところかもしれないが。)
江戸城で、高岳が登場していたが、さすがの貫禄である。これぞ大奥という感じだった。
2025年3月9日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2025/03/10/9760041/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。