英雄たちの選択「シリーズ 古墳の時代 (1)黄金の馬を育てよ〜地方豪族から見たヤマト王権〜」 ― 2025-03-08
2025年3月8日 當山日出夫
英雄たちの選択 シリーズ 古墳の時代 (1)黄金の馬を育てよ〜地方豪族から見たヤマト王権〜
この時代のことは、国語史、日本語史を勉強すると、特に文字のことを勉強する立場からすると、重要な時代である。
一般的にいえば、であるが……日本への文字(漢字)の伝来は、応神天皇のときのことになる。だいたい四~五世紀のころに、実在したことが確認できる天皇である。朝鮮半島の百済の国から、馬を送ってきた。その馬の世話をする人も一緒にやってきた。名前をアチキ、あるいは、アチキシ、という。(日本書紀と古事記でちょっと違う。)その人が字(漢字)が読めた。それで、もっと漢字を知っている人をよこして欲しいといって、やってきたのが、ワニ、あるいは、ワニキシ、であった。古事記では、論語と千字文を持ってきたと書いてある。論語は儒教の伝来でもあり、千字文は漢字は学習するものとして意識されていたということになる。(ただし、普通にいう千字文の成立は、この時代より後のことになるので、ここは諸説あるところである。)
このあたりが、史書に見える日本への漢字の伝来である。要するに、朝鮮半島から馬が来て、そのおまけの、さらにおまけとして、漢字が日本にもたらされた、という話しになる。
これをどう解釈するかであるが……応神天皇のころは、日本でヤマト王権による古代国家が成立した時代と考えるならば、それに役だったのが馬であり、また、漢字であった。そして、それは、馬を飼う人、漢字を読み書きする人、それを職掌とする人が、朝鮮半島から日本にやってきて、渡来人として居着いて仕事をするようになった時代、このように考えることになる。国語史の側から見れば、古代の統一王権が成立するということは、漢字で書く(漢文であるが)文書の必用性が生まれた時代、ということになる。(この時代、漢文の文書が何よりも必要とされたのは、朝鮮半島などの国々との外交文書と想像できる。)
このようなことを前提に考えてみると、古代において、ヤマト王権が全国的に支配をひろげ、東国へと勢力をのばしていく時代が、まさに、馬と文字(漢字、漢文の文書)の時代への転換点であった、というふうに考えることができるだろう。
この番組は、おそらく現代の古代史研究の考え方を反映させて作っているのだろうから、天皇ということばを、継体天皇、というような固有名詞(実際には諡号であるが)でしか使っていない。基本的に、王、そして、王権、という言い方でとおしている。
普通、古代史を考えるとき、現代の日本の姿、あるいは、近代になってからの天皇制国家としての大日本帝国を、そのまま、古代に投影して考えがちである。実際には、そんなことは無理だろうと、ちょっと考えれば分かることなのだが、世間的にはそう考えることが多いし、また、いわゆるリベラル寄りの歴史学では、古代の帝国としての天皇制国家のヤマトというような表現をすることになる。たしかに、日本は島国なので、その国土というか、国家の領域が、おのずと自然条件によって規定されている。そのため、今の日本のあり方を、そのまま、過去の日本列島にあてはめて考えてしまいがちではある。
前方後円墳の時代、ヤマトの王権が、どれほど地方に対して支配力を持っていたか、ということについては、かなり地方分散型であり、各地に豪族が割拠していたというイメージで語っていた。ヤマト王権自体についても、豪族の中心的な位置をしめるボス、というぐらいのあつかいであった。まあ、そんなものだったのだろう。これを、無理に、近代の絶対権力を持った(とされる)天皇のイメージを、古代に押しつけるということをしていない。
何故、前方後円墳が作られなくなったのか、王権が確立して(この場合でも、天皇とはいっていなかったが)各地の豪族たちが従うようになったので、無理に巨大な土木建造物を作る必要がなくなったから、ということだった。そうかなと思うところもあるが、政治や統治の権威がどのようなプロセスで成立するものなのか、ということについては、もうちょっと考えるべきかもしれない。これを、徳川幕府も初期のうちは江戸城に天守閣を必要としたが、家綱の時代になるともはや天守閣は要らなくなく、燃えても再建しない、ということに並べていたが、はたしてどうだろうか。このあたりは、政治的権威と統治のシステムということから、総合的に考えることのように思われる。
古代の東国、馬、それから、鉄、これらを総合して考えて、古代の王権の基盤がどのようなものであったか、ということについては、いろいろと考えるところがあった。日本の社会を、東西で分けて考える発想というのは、磯田道史の専門である歴史人口学の知見からも、十分に納得できるところといっていいのだろう。
古代の鉄器や製鉄、加工の技術については、実験のようすは面白かった。このことは、古代から中世にいたってどうなのか、日本における鉄の歴史として、改めて考えることになるのだろう。ただ、気になったのは、実験で木炭を使っていたこと。古代に木炭がどれぐらい利用されていたのだろうか、この検証も必要だと思う。そのなかで、たたら製鉄についても考えることになる。これは、大量の木炭を必要とし、それを供給する山林が必要になる。
ちなみに、かなり後のものになるが、中世の奈良絵本、絵巻などで、薪を使っている場面が、江戸時代の写本になると、炭火に変わっている……というのを、学生のときにみつけて、興味深く思った経験がある。(それを論文に書こうとか、さらに勉強しようとかは思わなかった。せっかく松本隆信先生にも習っていたので、もったいないことをしたという気もするが。)
ところで、考古学の研究では、日本でどれぐらい馬の骨が見つかっているのだろうか。日本で飼育されてきた馬の、遺伝的な系統とかは、どれぐらい判明しているのだろうか。
それから、磯田道史が自作の埴輪を出していたが、これについてのコメントが面白かった。デザインの専門家は、具体的すぎると言っていたが、まさに、そのとおりだろう。現存する埴輪を思ってみると、動物(馬)については、かなり抽象的に作ってある。これは、この時代の技術(焼き物を焼く)からくる制約としてこうなったのか、未熟だったということなのか、あるいは、作った人が抽象的なものとして作ったのか。おそらく、ものを作るということからすれば、具象的に作るよりも、抽象的に作ることの方が、より高度な精神性を必要とするはずである。このようなことは、現代の考古学の研究者は、どう考えているのだろうか。(といって、「埴輪を読む」というような本を期待するわけではない。そうすると、「埴輪を読むを読む」が誰かが書かなければならなくなりそうである。)
日本列島を地政学的に考えると、関東から東北を治める要衝として、群馬あたりが重要である、というのは面白い。こういう視点から、歴史を考えてみると、いろいろと新しいことが見えてくるかもしれない。
2025年3月4日記
英雄たちの選択 シリーズ 古墳の時代 (1)黄金の馬を育てよ〜地方豪族から見たヤマト王権〜
この時代のことは、国語史、日本語史を勉強すると、特に文字のことを勉強する立場からすると、重要な時代である。
一般的にいえば、であるが……日本への文字(漢字)の伝来は、応神天皇のときのことになる。だいたい四~五世紀のころに、実在したことが確認できる天皇である。朝鮮半島の百済の国から、馬を送ってきた。その馬の世話をする人も一緒にやってきた。名前をアチキ、あるいは、アチキシ、という。(日本書紀と古事記でちょっと違う。)その人が字(漢字)が読めた。それで、もっと漢字を知っている人をよこして欲しいといって、やってきたのが、ワニ、あるいは、ワニキシ、であった。古事記では、論語と千字文を持ってきたと書いてある。論語は儒教の伝来でもあり、千字文は漢字は学習するものとして意識されていたということになる。(ただし、普通にいう千字文の成立は、この時代より後のことになるので、ここは諸説あるところである。)
このあたりが、史書に見える日本への漢字の伝来である。要するに、朝鮮半島から馬が来て、そのおまけの、さらにおまけとして、漢字が日本にもたらされた、という話しになる。
これをどう解釈するかであるが……応神天皇のころは、日本でヤマト王権による古代国家が成立した時代と考えるならば、それに役だったのが馬であり、また、漢字であった。そして、それは、馬を飼う人、漢字を読み書きする人、それを職掌とする人が、朝鮮半島から日本にやってきて、渡来人として居着いて仕事をするようになった時代、このように考えることになる。国語史の側から見れば、古代の統一王権が成立するということは、漢字で書く(漢文であるが)文書の必用性が生まれた時代、ということになる。(この時代、漢文の文書が何よりも必要とされたのは、朝鮮半島などの国々との外交文書と想像できる。)
このようなことを前提に考えてみると、古代において、ヤマト王権が全国的に支配をひろげ、東国へと勢力をのばしていく時代が、まさに、馬と文字(漢字、漢文の文書)の時代への転換点であった、というふうに考えることができるだろう。
この番組は、おそらく現代の古代史研究の考え方を反映させて作っているのだろうから、天皇ということばを、継体天皇、というような固有名詞(実際には諡号であるが)でしか使っていない。基本的に、王、そして、王権、という言い方でとおしている。
普通、古代史を考えるとき、現代の日本の姿、あるいは、近代になってからの天皇制国家としての大日本帝国を、そのまま、古代に投影して考えがちである。実際には、そんなことは無理だろうと、ちょっと考えれば分かることなのだが、世間的にはそう考えることが多いし、また、いわゆるリベラル寄りの歴史学では、古代の帝国としての天皇制国家のヤマトというような表現をすることになる。たしかに、日本は島国なので、その国土というか、国家の領域が、おのずと自然条件によって規定されている。そのため、今の日本のあり方を、そのまま、過去の日本列島にあてはめて考えてしまいがちではある。
前方後円墳の時代、ヤマトの王権が、どれほど地方に対して支配力を持っていたか、ということについては、かなり地方分散型であり、各地に豪族が割拠していたというイメージで語っていた。ヤマト王権自体についても、豪族の中心的な位置をしめるボス、というぐらいのあつかいであった。まあ、そんなものだったのだろう。これを、無理に、近代の絶対権力を持った(とされる)天皇のイメージを、古代に押しつけるということをしていない。
何故、前方後円墳が作られなくなったのか、王権が確立して(この場合でも、天皇とはいっていなかったが)各地の豪族たちが従うようになったので、無理に巨大な土木建造物を作る必要がなくなったから、ということだった。そうかなと思うところもあるが、政治や統治の権威がどのようなプロセスで成立するものなのか、ということについては、もうちょっと考えるべきかもしれない。これを、徳川幕府も初期のうちは江戸城に天守閣を必要としたが、家綱の時代になるともはや天守閣は要らなくなく、燃えても再建しない、ということに並べていたが、はたしてどうだろうか。このあたりは、政治的権威と統治のシステムということから、総合的に考えることのように思われる。
古代の東国、馬、それから、鉄、これらを総合して考えて、古代の王権の基盤がどのようなものであったか、ということについては、いろいろと考えるところがあった。日本の社会を、東西で分けて考える発想というのは、磯田道史の専門である歴史人口学の知見からも、十分に納得できるところといっていいのだろう。
古代の鉄器や製鉄、加工の技術については、実験のようすは面白かった。このことは、古代から中世にいたってどうなのか、日本における鉄の歴史として、改めて考えることになるのだろう。ただ、気になったのは、実験で木炭を使っていたこと。古代に木炭がどれぐらい利用されていたのだろうか、この検証も必要だと思う。そのなかで、たたら製鉄についても考えることになる。これは、大量の木炭を必要とし、それを供給する山林が必要になる。
ちなみに、かなり後のものになるが、中世の奈良絵本、絵巻などで、薪を使っている場面が、江戸時代の写本になると、炭火に変わっている……というのを、学生のときにみつけて、興味深く思った経験がある。(それを論文に書こうとか、さらに勉強しようとかは思わなかった。せっかく松本隆信先生にも習っていたので、もったいないことをしたという気もするが。)
ところで、考古学の研究では、日本でどれぐらい馬の骨が見つかっているのだろうか。日本で飼育されてきた馬の、遺伝的な系統とかは、どれぐらい判明しているのだろうか。
それから、磯田道史が自作の埴輪を出していたが、これについてのコメントが面白かった。デザインの専門家は、具体的すぎると言っていたが、まさに、そのとおりだろう。現存する埴輪を思ってみると、動物(馬)については、かなり抽象的に作ってある。これは、この時代の技術(焼き物を焼く)からくる制約としてこうなったのか、未熟だったということなのか、あるいは、作った人が抽象的なものとして作ったのか。おそらく、ものを作るということからすれば、具象的に作るよりも、抽象的に作ることの方が、より高度な精神性を必要とするはずである。このようなことは、現代の考古学の研究者は、どう考えているのだろうか。(といって、「埴輪を読む」というような本を期待するわけではない。そうすると、「埴輪を読むを読む」が誰かが書かなければならなくなりそうである。)
日本列島を地政学的に考えると、関東から東北を治める要衝として、群馬あたりが重要である、というのは面白い。こういう視点から、歴史を考えてみると、いろいろと新しいことが見えてくるかもしれない。
2025年3月4日記
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