『べらぼう』「お江戸揺るがす座頭金」2025-03-31

2025年3月31日 當山日出夫

『べらぼう』「お江戸揺るがす座頭金」

次の朝ドラは『あんぱん』である。モデルとなっているのは、やなせたかしとその妻の暢。やなせたかしは書いている、正義は逆転するものである、と。

普通の価値観であれば、視覚障害者は弱い立場のもので保護されるべきである。一方、武士は権力をもっている支配階級であり、しかも、その男性は、権力者である。ということになる(ちょっとステレオタイプにすぎるかもしれないが、一般的に今の社会でいわれている、マイノリティをめぐる言説は、基本的にこういう価値観にたっている。)

『べらぼう』のこの回で描いていたのは、これが、逆転した状態。弱い立場で保護されるべきと思われていた座頭が、実は財力にものをいわせる横暴な存在であり、強い立場と思われていた旗本の家の当主の男性が、実際には、借金におわれて、家をつぶしてしまうような苦境に陥っている。

社会的に弱い立場とか、強い立場とか、ということは、決して固定したものではなく状況により、いくらでも入れ替わる流動的な性質のものである。こういうことは、ちょっと考えてみれば、すぐに分かることなのだが、実は意外と今の社会で、表だって語られることのない側面でもある。(男性は、それが男性であるという理由だけで、いくら攻撃し叩いてもかまわないというのが、一部かもしれないが、フェミニズムの主張のある部分であり、だからこそ、それが、反感をもたらす一因でもある。)

このような視点で見ると、『べらぼう』の脚本は、今の社会においては、かなり大胆な設定を描いていることになる。

検校や当道については、この回の紀行のときに説明があった。これは、前回までに、お稲荷さんで解説してあった方がよかったことかもしれない。

座頭(視覚障害の男性)が、悪事を重ねていくということだと、私の年代だと、テレビドラマの『悪一代』を思い出す。勝新太郎の主演であった。もう、このドラマのことを憶えている人は少なくなったろうが。(この時代は、今とは価値観が違っていたということもあって、座頭を悪人にすることが可能であった。今だと、このような設定は、まず企画がとおらないだろうと思う。)

鳥山検校は、金貸しとしてはあくどいことをしていたのだが、本人自身は、悪人としては描かれていない。むしろ、目が見えないだけに、そばにいる人の気持ちに敏感になるということを強調してあり、それが、瀬以との関係がぎくしゃくする原因でもある、というような人物造形である。(おそらく、悪いのは、実際に仕事をしていた、配下のものたちということになるのだろう。)

それにしても、このドラマを見ていて、セットや小道具でケチっているというか、よくわからないのが、本のこと。青本などの戯作や、吉原細見は、出てくるのだが、これら以外の、その当時の普通の本が、ほとんど出てこない。須原屋の店でも、鱗形屋の店でも、画面のなかに本が映っていない。小道具として用意するのが大変であるということもあるだろうし、おそらくは、この時代の実際の本の販売の様子がよく分からない、ということもあるのだろう。浮世絵を売っている店の場合、これ自体が浮世絵に描かれていることもあるので、なんとか再現することができていることになると、思って見ている。検校の屋敷で、瀬以が本のたくさんある部屋にいるのは、これは考証の必要がないから、適当に作れるということかと思うが、どうだろうか。

この回から、山東京伝が登場してきたことになる。いずれ、式亭三馬とか、曲亭馬琴とかも出てくるかと思う。私はどうしても『手鎖心中』(井上ひさし)のことを思ってしまう。私の学生のころは、非常によく読まれた作品である。

蔦重を見ていると、自身は芸術家でもクリエイターでもないが、そういう人を見る目、というものを感じさせるようになってきている。このあたりは、演出と演技のうまさである。

それから、なによりいいのが、鳥山検校。貫禄があると同時に人の気持ちが分かる、そして、大胆でもある、こういう人物として、非常にうまく描いてある。

このドラマ、鬼平が活躍すると面白い展開になる、ということのようだ。

公式に表立って銀行からの融資を制限したりすれば、その他の街中の金融業や、場合によっては、闇社会の金に手を出すことになる……これは、今も昔も、そう変わらないことであろう。この時代に困窮しだした武士の生活は、その後の天明の飢饉とかで、さらに苦しくなるのだろうし、それが、寛政の改革で良くなったということでもなかったのだろう。神君家康の祖法が守れるならば、徳川の世は続いていたにちがいない。

極悪の金貸しというなら、「といち」「からすがね」ぐらいは出てきていいかと思うが、これは、お稲荷さんに解説してもらう必要があるだろう。

冒頭のシーンで気になったのは、蔦重が『日本書紀』を知っていたのだろうか、ということなのだが、はたしてどうだろうか。

どうしても思うこととしては、吉原の細見は、今でいえば、売春婦のカタログ、であるのだが(こういう時代だったのである)、ここはきれいに描きすぎているようにも思える。

2025年3月30日記

最深日本研究「クレーンゲーム」2025-03-31

2025年3月31日 當山日出夫

最深日本研究 クレーンゲーム

なんだかNHKの年度末在庫一掃処分のような感じで、まとめて夜中に放送があるのを番組表で見つけて、録画しておいて、順番に見ている。

おそらく、日本におけるサブカルチャーの研究として、ゲームセンターという場所について、また、そのゲームの内容、コンテンツについての研究は多くあるのだろうと思う。これはこれで、興味深い研究領域である。

だが、この番組で登場していた、フランスの社会情報学者のブノワは、メディアとしてのクレーンゲームという発想で見ている。これは、とても面白い。しかも、その研究方法が、今和次郎の考現学の方法によるものとなっている。もう今では今和次郎は、忘れられた存在になってしまっていたかと思っていたのだが、こういう継承者がいるということに驚いた。

私は、ゲームセンターには行かない。そもそも、もう、街中や繁華街(こういう言い方がもう古風であるが)に出ない。昔のゲームセンター……というより、ゲーセン、といった方がいいだろうか……が、このごろでは、ファミリー向けに明るく健全なイメージのところに変化してきているということも、面白い。そして、そこでは、クレーンゲームが主流になっている。景品は、キャラクター関連のものが多くある。

ゲームセンターに来るお客さんの多くが、ウィンドーショッピングの感覚で、どんな景品が置いてあるのかを見るためにやってくる。これは、とても面白い観察結果である。これは、店の側も分かっていて、景品のキャラクターがよく見えるように、レイアウトしている。

埼玉のゲームセンターで、古いゲーム機械を集めてあったが、これも面白い。アメリカで、1930年代から始まったらしい。私の記憶にあるのは、やはり、UFO CATCHER ぐらいからということになる。しかし、最近のものはよく分からない。

ゲームセンターの景品が、市場に流通して、秋葉原で売られている。

クレーンゲームが、キャラクターが世の中に広がっていく過程で、一つのメディアとして機能していることになる。メディアミックスの時代における、ゲームセンターの一つの機能ということになるのだろうか。

NHKの他の番組で、なんだかった忘れてしまったが、クレーンゲームの景品が日用品であったり、食料品であったり、という国のこと(アジアのどこだっただろうか)が紹介されていて、ふ~ん、こんな国もあるのかと思って見ていたことがあるのだが、クレーンゲームが、世界のそれぞれの国や地域で、どのように発達しているか、比較することで見えてくる新しい研究領域というものもあるにちがいない。

2025年3月29日記

Asia Insight「未来の種をまけ 〜韓国の農家たち〜」2025-03-31

2025年3月31日 當山日出夫

Asia Insight 未来の種をまけ 〜韓国の農家たち〜

非常に対極的な二つの試みを取材している。

一つは、アグロエコロジー、有機農法、である。これは、どういうわけだか、女性ばかりである。それも年配の人が多い。(ここには、かなり明確な韓国社会のジェンダー意識というものを感じることになるが。)

もう一つは、最先端のコンピュータ技術を使って、(古風な言い方になるが)工場のなかで野菜を育てる。こちらは、若い人が多く、男性も女性もいる。

韓国の農業の事情、それから、自然災害などは、どうなっているのだろうか。台風が来ても、それが、台湾、韓国、北朝鮮、中国に、にどう影響を与えるか、場合によっては重要なことだと思うのだが、日本で報道されることは、ほとんどない。天気予報は、日本の国内に影響のないことについては、言わない。(まあ、これは、当たり前かもしれないが。)だが、報道一般としては、日本の近隣の国に、どのような自然災害があるのか、ということは、あってもいいだろう。(そして、その内容によっては、かなり重要な軍事情報でもある。だから、防衛省などは、独自に分析はしているはずだが。)

少子化が進み、かつ、ソウルへの一極集中が進行する韓国で、農業がいったいどうなっているのか、これはこれとして、総合的な視点から報道してもらいたいところである。その大きな流れが見えないと、この番組でとりあげていた、二つのこころみの意義が理解できない。食糧の自給率や、農業従事者の将来は、どうなのだろうか。

ところで、有機農法の紹介のとき、在来種の野菜、という意味のことを言っていたが、これはどうなのだろうか。そもそも、今、普通に食べている野菜の多くは、農業のために品種改良を重ねてきたものであるはずで、野生のものを栽培しているということではない。唐辛子は、大航海時代の産物というべき食べ物であるし、朝鮮にわたったのは秀吉の朝鮮出兵のときである、というのが通説であると認識している。

2025年3月27日記