『天城越え』 ― 2025-06-16
當山日出夫
『天城越え』
一番新しい生田絵梨花バージョンである。これまでに、田中裕子、大谷直子、田中美佐子、などが演じてきた。たぶん、いくつかは見た記憶がある。はっきり憶えているのは、印刷屋が宇野重吉だったのは記憶にあるので、大谷直子のは見ているはずである。
原作は、松本清張で、ドラマ化された回数からするとかなり多いものであるかと思う。このあたりは、清張について詳しい人なら知っていることだろうが。
見ていて感じたことは、生田絵梨花だと、すこし品がありすぎる印象で、なんというか、自堕落というか、あばずれたというか、身を持ち崩した女のなれの果ての姿、という雰囲気があまりしない。この作品のドラマ化の場合、やはり、大塚ハナという女性を、どんなイメージで描くかということが、ポイントになる。
それから、刑事の役、特に晩年の姿、それと、印刷会社の主人の今の姿、この暗黙のうちの会話というか、犯人が誰だったか知っているぞと何となくほのめかす老刑事、昔のことを回想する老人、この二人の関係をどう描くか、ここのところが見どころになる。
それにしても、ミステリとしては特にすぐれた出来でもないと思われるこの小説が、何度もドラマ化されるのは、何故だろう。少ない登場人物のなかで、女郎と刑事と少年、この三つの人生が複雑に交錯する面白さということになるのだろうか。
ただ、今回のドラマについていえば、終わりの部分はいらなかったと、私は感じる。
たまたまの偶然で、天城山中で行き会った、女郎と少年と土工、そして、事件を担当することになった刑事、これらの人物の人生が、どこでどのように関係するのか、その数奇な巡り合わせ、もはや運命のいたずらというしかないかもしれないが、これだけで十分に面白い作品になると思う。
2025年5月11日記
『天城越え』
一番新しい生田絵梨花バージョンである。これまでに、田中裕子、大谷直子、田中美佐子、などが演じてきた。たぶん、いくつかは見た記憶がある。はっきり憶えているのは、印刷屋が宇野重吉だったのは記憶にあるので、大谷直子のは見ているはずである。
原作は、松本清張で、ドラマ化された回数からするとかなり多いものであるかと思う。このあたりは、清張について詳しい人なら知っていることだろうが。
見ていて感じたことは、生田絵梨花だと、すこし品がありすぎる印象で、なんというか、自堕落というか、あばずれたというか、身を持ち崩した女のなれの果ての姿、という雰囲気があまりしない。この作品のドラマ化の場合、やはり、大塚ハナという女性を、どんなイメージで描くかということが、ポイントになる。
それから、刑事の役、特に晩年の姿、それと、印刷会社の主人の今の姿、この暗黙のうちの会話というか、犯人が誰だったか知っているぞと何となくほのめかす老刑事、昔のことを回想する老人、この二人の関係をどう描くか、ここのところが見どころになる。
それにしても、ミステリとしては特にすぐれた出来でもないと思われるこの小説が、何度もドラマ化されるのは、何故だろう。少ない登場人物のなかで、女郎と刑事と少年、この三つの人生が複雑に交錯する面白さということになるのだろうか。
ただ、今回のドラマについていえば、終わりの部分はいらなかったと、私は感じる。
たまたまの偶然で、天城山中で行き会った、女郎と少年と土工、そして、事件を担当することになった刑事、これらの人物の人生が、どこでどのように関係するのか、その数奇な巡り合わせ、もはや運命のいたずらというしかないかもしれないが、これだけで十分に面白い作品になると思う。
2025年5月11日記
『八重の桜』「守護職を討て!」 ― 2025-06-16
2025年6月16日 當山日出夫
『八重の桜』「守護職を討て!」
このドラマを見ていて、よく作ってあると感じる。最初のときも見ているので、二回目に見ることになる。
おそらく、この時代(幕末)、会津にいた人びと、そして、会津から京都に出てきた人びとは、たぶんこんなふうに思って生きていたのだろうと、納得して見ることができる。無論、細かな考証、あるいは、大局的な歴史観ということから見れば、いろいろと問題はあるにちがいない。
しかし、人間とはこんなふうに感じて生活しているものだと、見ていて共感するところがある。それが、現代ではない、幕末の時代において、少し違っているところがあって、この時代だったらこんなふうだったかもしれないと、そこは想像で補える。この微妙なさじ加減が、実に巧い。(まあ、これは、今のところである。これが、明治維新以降のことになると、またちょっと違った見方になるかもしれないが。)
孝明天皇は、史実としてはどうだったのだろうか、という気持ちはある。だが、このドラマにおける孝明天皇は、とてもかっこいい。聡明な君主(?)である。これとくらべて、ドラマのなかで貧乏くじになっているのは、徳川慶喜であろう。最後の将軍となるわけだが、必ずしも優れた資質の持ち主ということにはなっていない。まあ、徳川慶喜をどう描くかは、これまでの多くのドラマで試行錯誤があるところかと思う。(一定のイメージが固まっている西郷隆盛などに比べると、一般的なイメージとしては、振れ幅が大きいだろう。)
この回まで、八重は、まったく女らしくない。お針の稽古のシーンでも、なぎなたの稽古のように厳しい。ドラマのなかで女らしく(?)描かれているのは、照姫とか時尾などであろうか。
2025年6月15日記
『八重の桜』「守護職を討て!」
このドラマを見ていて、よく作ってあると感じる。最初のときも見ているので、二回目に見ることになる。
おそらく、この時代(幕末)、会津にいた人びと、そして、会津から京都に出てきた人びとは、たぶんこんなふうに思って生きていたのだろうと、納得して見ることができる。無論、細かな考証、あるいは、大局的な歴史観ということから見れば、いろいろと問題はあるにちがいない。
しかし、人間とはこんなふうに感じて生活しているものだと、見ていて共感するところがある。それが、現代ではない、幕末の時代において、少し違っているところがあって、この時代だったらこんなふうだったかもしれないと、そこは想像で補える。この微妙なさじ加減が、実に巧い。(まあ、これは、今のところである。これが、明治維新以降のことになると、またちょっと違った見方になるかもしれないが。)
孝明天皇は、史実としてはどうだったのだろうか、という気持ちはある。だが、このドラマにおける孝明天皇は、とてもかっこいい。聡明な君主(?)である。これとくらべて、ドラマのなかで貧乏くじになっているのは、徳川慶喜であろう。最後の将軍となるわけだが、必ずしも優れた資質の持ち主ということにはなっていない。まあ、徳川慶喜をどう描くかは、これまでの多くのドラマで試行錯誤があるところかと思う。(一定のイメージが固まっている西郷隆盛などに比べると、一般的なイメージとしては、振れ幅が大きいだろう。)
この回まで、八重は、まったく女らしくない。お針の稽古のシーンでも、なぎなたの稽古のように厳しい。ドラマのなかで女らしく(?)描かれているのは、照姫とか時尾などであろうか。
2025年6月15日記
『べらぼう』「我こそは江戸一利者なり」 ― 2025-06-16
2025年6月16日 當山日出夫
『べらぼう』 我こそは江戸一利者なり
この回も、前回と同様に、外に出て太陽の光のさすところの場面はあまり出てきていない。屋外のシーンがあるにはあるが、強い太陽光を感じない。佐野政言の屋敷の桜の場面であるが、これは、このドラマでこれから起こるはずの事件の伏線ということになっているかと思う。また、冒頭の吉原の弁柄格子から光が差し込むシーンは、これは、太陽光をたくみに演出したことになる。
土山の屋敷を夜の場面で描くのはうまいと思う。豪勢な屋敷の様子を、夜の闇のなかに浮かびあがらせるのは、効果的であり、また、たぶんセットなどの制作コストも下げられるのだろう。
誰袖がとてもいい。これまでに登場してきた、瀬川、うつせみ、などとは違った魅力がある。こういう花魁になら、松前廣年(=蠣崎波響)が夢中になるのも、もっともだと思える。それにしても、このドラマに蠣崎波響がかなり重要な役どころで登場するとは、予想していなかった。だが、田沼時代の蝦夷地のことを描くとなると、出てきていてもおかしくはない。蠣崎波響が出てきたぐらいだから、本居宣長も登場してほしいと思う。時代としては、もう少し後のことになるが。
歴史の結果としては、田沼意次の蝦夷地の開拓の計画は実現しない。これが実際におこなわれるのは、明治になってからのことである。これは、周知のことであろう。ここで、もし、田沼意次が蝦夷地を上地して開拓に乗り出していたとしたら、日本の歴史はどうなっていただろうか。南下政策をとるロシアと、どこかで衝突することになったかもしれない。ひょっとすると、結果次第では、北海道はロシアの領土になっていた可能性もまったく否定できないだろう。(最終的には、北海道は日本のものということになり、その後、日露戦争から太平洋戦争を経て、今日の状態がることになる。ここに住んでいた多くのアイヌの人びとにとっては、どちらが幸福なことであったろうか。無論、アイヌの独立国という選択肢もありえなかったわけではないだろうが。)
蝦夷地については、なんとなく流れとしては日本の領土という形で描いてあった。まあ、これはNHKとしては、そうなるだろう。(アイヌの人たちのもの、という歴史観もあるだろうが。)
この回から、黄表紙、ということばが出てきた。日本の普通の文学史の知識としては、黄表紙の名称の方が一般的だろう。しかし、何回もおなじことを思ってしまうのだが、戯作と浮世絵だけで、江戸時代の出版を語るのは、どう考えても無理がある。その他の多くの出版物が、どのように作られ、全国に流通していたか、(厳密な考証は難しいことだということは分かっているが)もうすこし描いてあってもいいかと思う。(どうせ、フィクションのドラマなのであるから。また、松平定信の時代になって、寛政異学の禁のことを描くなら、近世の出版について広くあつかってあった方がいいと思うのであるが、どうなるだろうか。)
大田南畝が、戯作者、狂歌師としてしか出てきていない。これも、私としては違和感のあるところである。れっきとした幕臣であり、この時代においては、ずばぬけた教養人であった。そもそも狂歌は、古典和歌についての素養がなければ、面白いものを作れないし、読んでも、その面白さが分からないものである。(岩波書店の「大田南畝全集」は出たときに買って、今でも持っている。)
日本橋の白木屋が出てきていた。火事の事件のことで歴史に名前が残っているということかと思うが、その後、東急百貨店日本橋店になり、これも、姿を消すことになった。百貨店業界の栄枯盛衰は、世の中とはこういうものかと思う。
蔦重は、日本橋に進出することを決意する。今でいえば、銀座に店を出す。千代田区に本社をおく、というようなことだろうか。ここいたる経緯として、江戸の街で、どういう条件や力関係や利権があって、店舗をかまえることができたのか、できなかったのか、ここは歴史学上のこととして、かなり気になるところである。
2025年6月15日記
『べらぼう』 我こそは江戸一利者なり
この回も、前回と同様に、外に出て太陽の光のさすところの場面はあまり出てきていない。屋外のシーンがあるにはあるが、強い太陽光を感じない。佐野政言の屋敷の桜の場面であるが、これは、このドラマでこれから起こるはずの事件の伏線ということになっているかと思う。また、冒頭の吉原の弁柄格子から光が差し込むシーンは、これは、太陽光をたくみに演出したことになる。
土山の屋敷を夜の場面で描くのはうまいと思う。豪勢な屋敷の様子を、夜の闇のなかに浮かびあがらせるのは、効果的であり、また、たぶんセットなどの制作コストも下げられるのだろう。
誰袖がとてもいい。これまでに登場してきた、瀬川、うつせみ、などとは違った魅力がある。こういう花魁になら、松前廣年(=蠣崎波響)が夢中になるのも、もっともだと思える。それにしても、このドラマに蠣崎波響がかなり重要な役どころで登場するとは、予想していなかった。だが、田沼時代の蝦夷地のことを描くとなると、出てきていてもおかしくはない。蠣崎波響が出てきたぐらいだから、本居宣長も登場してほしいと思う。時代としては、もう少し後のことになるが。
歴史の結果としては、田沼意次の蝦夷地の開拓の計画は実現しない。これが実際におこなわれるのは、明治になってからのことである。これは、周知のことであろう。ここで、もし、田沼意次が蝦夷地を上地して開拓に乗り出していたとしたら、日本の歴史はどうなっていただろうか。南下政策をとるロシアと、どこかで衝突することになったかもしれない。ひょっとすると、結果次第では、北海道はロシアの領土になっていた可能性もまったく否定できないだろう。(最終的には、北海道は日本のものということになり、その後、日露戦争から太平洋戦争を経て、今日の状態がることになる。ここに住んでいた多くのアイヌの人びとにとっては、どちらが幸福なことであったろうか。無論、アイヌの独立国という選択肢もありえなかったわけではないだろうが。)
蝦夷地については、なんとなく流れとしては日本の領土という形で描いてあった。まあ、これはNHKとしては、そうなるだろう。(アイヌの人たちのもの、という歴史観もあるだろうが。)
この回から、黄表紙、ということばが出てきた。日本の普通の文学史の知識としては、黄表紙の名称の方が一般的だろう。しかし、何回もおなじことを思ってしまうのだが、戯作と浮世絵だけで、江戸時代の出版を語るのは、どう考えても無理がある。その他の多くの出版物が、どのように作られ、全国に流通していたか、(厳密な考証は難しいことだということは分かっているが)もうすこし描いてあってもいいかと思う。(どうせ、フィクションのドラマなのであるから。また、松平定信の時代になって、寛政異学の禁のことを描くなら、近世の出版について広くあつかってあった方がいいと思うのであるが、どうなるだろうか。)
大田南畝が、戯作者、狂歌師としてしか出てきていない。これも、私としては違和感のあるところである。れっきとした幕臣であり、この時代においては、ずばぬけた教養人であった。そもそも狂歌は、古典和歌についての素養がなければ、面白いものを作れないし、読んでも、その面白さが分からないものである。(岩波書店の「大田南畝全集」は出たときに買って、今でも持っている。)
日本橋の白木屋が出てきていた。火事の事件のことで歴史に名前が残っているということかと思うが、その後、東急百貨店日本橋店になり、これも、姿を消すことになった。百貨店業界の栄枯盛衰は、世の中とはこういうものかと思う。
蔦重は、日本橋に進出することを決意する。今でいえば、銀座に店を出す。千代田区に本社をおく、というようなことだろうか。ここいたる経緯として、江戸の街で、どういう条件や力関係や利権があって、店舗をかまえることができたのか、できなかったのか、ここは歴史学上のこととして、かなり気になるところである。
2025年6月15日記
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