BSスペシャル「そして、息子はAIになった」2025-09-16

2025年9月16日 當山日出夫

BSスペシャル そして、息子はAIになった

あつかってある内容が、錯綜しているので、考えるのに混乱するところがある。

アメリカの銃規制をめぐる問題。これについては、規制を強化すべきという立場からであり、番組としては一貫している。しかし、アメリカ国内においては、議論が対立していることである。

死んだ人間のアバターをAIで作り、それを使って、銃規制の強化のために利用しようとすることの是非。これについては、倫理的に問題のあることであり、番組としては、どちらかといえば活動家夫妻の立場にたってはいるが、このことを全面的に肯定しているというわけではないようである。

目的が正しければ、手段は選ばない……ということも、ありうる。この場合、銃規制という目的の正しさのために、死んだ人間をAIのアバターとしてよみがえらせるということの是非の問題が、おきざりにされている。活動家の夫妻が、自分たちはこれでいいと思っている、ということで、すべて免責されているということのようだ。

私の考えるには、次のことが問題である。

第一に、そのAIのアバターを見る、一般の人びとが、これがAIによって作られたものであることを、事前に知らされた上で接するようになっているのかどうか。これは、絶対に守らなければならないことだと思っているのだが、ここのところについて、はっきりそうだと明言するところがなかった。

第二に、そのアバターになった少年は、自分が何故死ぬことになったのか、分からないまま死んだはずである。少なくとも、事件の全体像は分かったはずがない。これを、もし、そのアバターに事件のことを聞いて、知らなかったはずのことを説明してくれることがあるのかどうか。その場合には、その質問には答えられない、なぜなら、自分はその事件で死んでしまったのであるから、と返答するようになっているのか。はたしてどうなのだろうか。ここのところは、決定的に重要なことだと思うのだが、番組の中では、何も言及することがなかった。

第三に、死んだ少年のアバターが多くの言語を話すというのは、妥当なことなのだろうか。番組で分かることとしては、英語とスペイン語は話せた。しかし、その他の言語は無理だと思われる。まして、たくさんの言語に対応するということは、倫理的に妥当なことなのだろうか。ここは、システムとしては、翻訳のアプリケーションを介して話しをします、ということが明示的に分かるように組み込んである必要があることだと、私は思う。

目的の正しさは、手段を正当化するとしても、あくまでも慎重に熟慮した上のことでなければならないと思うのである。

2025年9月8日記

知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「認知症 克服のカギ」2025-09-16

2025年9月16日 當山日出夫

知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「認知症 克服のカギ」

サイエンスの番組として見ると、(私の判断では)きちんと作ってあったと思う。「~~と考えられている」「仮説としては~~」という言い方が多く、断定的に分かることとしては、「発症率が~~%増える」ということぐらいであった。統計的な数字は、ごまかすことはできないが、サンプリングの妥当性をふくめて、解釈はまた別の問題である。遺伝子に起因する認知症があることは知られていることなので、この部分については、断定的に表現している。

ようするに、決定的な要因……なぜ、アミロイドβが増え、タウが増えるのか、という直接的な原因がなんであるかは、分かっていないし、また、どうすれば、それが防げるのか、ということについても、決定的なことは分からない。いえることは、あることがらが、認知症の発症との、なにがしかの相関関係がある(ありそうだ)ということまでであって、決定的な因果関係があるかどうかは不明である。その他のいろんなことがら(日常生活であったり、感染症であったり)との複雑な関係は、ほとんどなんにも分からない、このように理解していいだろう。

認知症になったら、その本人はいったいどんなふうに感じたり、思ったりすることになるのか、ということも重要なことなのだが、このことについては、この番組では触れていなかった。これは、意図的にそう作ったのだろう。また、認知症の本人のことについては、NHKの他の番組で、特にEテレなどで、放送している。

人間が社会的な生物であるということで終わりにしていたが、これも、見方を変えれば、外部からの情報や刺激に対して適切に反応し、また、思考し、いろいろと思ったり、感じたりする……ということになるだろう。それを、言い方によっては、社会的孤立の問題ということになるし、犬を飼うことの効能、ということになる。

しかしながら、認知症になるのは、基本的に高齢者であって、今の時代は、人間が長生きするようになったから起こってきた問題である、ということも確かなことだろう。年をとるということと、死ぬということ、これらを視野にいれて、認知症ということも考えるべきことであることになる。病気だから治療すればいい、というだけの発想でなく、人間の生き方、死に方にかかわることだと思う。

それから、人間を考えるとき、脳と遺伝子を基盤として考えるのが、今の時代の流れなのだが、決して遺伝子決定論ということになっていない、これも重要なことであろう。しかし、遺伝子を抜きにして、文化的な面までふくめて、人間というものを考えることができなくなった時代である、ということも確かである。

2025年9月9日記

ドキュメント72時間「長崎 8月のバスターミナルで」2025-09-16

2025年9月16日 當山日出夫

ドキュメント72時間 長崎 8月のバスターミナルで

今年(2025年)の8月9日は、私の住んでいるところでは、晴れていた。かなり暑かった。しかし、長崎では雨だった。

「ドキュメント72時間」としては、バスターミナルのシリーズ、ということになる。見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。

自分の妻のことを、「僕のワイフ」という言い方は、このごろはあまりしないだろう。特に、若い人はしないと思う。登場していた男性は、70代以上ということだったが、こういう言い方は、ある時代のある人びとについては、共有される言い方になるかと思う。(これも、言語学として、厳密な調査をすると面白いことが分かるかと思うが。)

九州を旅行するのにバスが便利というのは、そうなのだろうと思う。現在、日本各地のローカル鉄道が廃線の方向にむかっている。都市部でも、路線バスの減便ということが、課題になっている。それでも、都市間の移動の手段としての高速バスというのは、なんとかやっていける分野なのかと思う。(だが、これも、今後は運転手不足は問題になるだろう。)

五島列島に介護の仕事で来た、スリランカからの女性たち。今の日本の、特に地方での介護や福祉の現場は、このような海外からの労働力に頼らなければならないというのが実情だと思っているが、これから先、どのような形になるのか、いろいろと課題は多いだろう。

発達障害があっても、自立した生活を送ることができる。古い日本社会だと、(かなり婉曲な言い方をすれば、であるが)ちょっと変わった人ということだったかとも思うが、これからの社会としては、どのように包摂して社会を構築していくことになるのか、考えることになる。(どうでもいいことかもしれないが、大きなぬいぐるみが椅子の上においてあった。私の場合、こういうシーンを見ると、小林秀雄の書いたものを思い出すのだが、おそらく、今の時代だと、この番組のスタッフは、知らないかもしれない。)

2025年9月14日記