『科学との正しい付き合い方』(2)2010-05-07

2010-05-07 當山日出夫

さて、『科学との正しい付き合い方』(内田麻理香)の感想のつづきである。私の知見の範囲で、この本について、もっとも批判がよせられた箇所は、事業仕分けにおける、スーパーコンピュータの件ではないだろうか。

この件にかんして、著者は、次のように記している。引用する。

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 2009年末の行政刷新会議の仕分け作業で、次世代スーパーコンピュータの開発予算が議題にあげられたとき、仕分け人だった民主党の蓮舫議員が、「(コンピュータ性能で)世界一を目指す理由は何か。2位ではだめなのか」という趣旨の発言をしたのを、テレビなどの報道で知った方もいらっしゃっしゃると思います。
 これに対して、「なんてつまらない質問をするんだ」という非難や揶揄の声が聞かれました。この発言もとは、大半が科学技術の「マニア」たちです。

 その「2位ではだめなのか」という問いは、私は「普通の人のもっともな感覚」「当たり前に感じる疑問」だと思うのです。

(p.243)

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私の理解はこうである。

1位でなければならないと主張する人(著者の表現にしたがえば「マニア」)は、日本の科学技術が、世界で1位でなければならない、といいたいのであろう。

だが、これに対して次のように考えることもできるだろう。科学技術は、それ自体で自律する面もあるが、社会のなかで存在が認められてこそ活きる。そのスーパーコンピュータで何をしたいのか、その目的が実現できるなら、それが世界で1位でなければならない必然はない。2位でも可能なら、それでいいではないか。(たぶん、蓮舫議員の「2位ではだめなのか」の発言は、このような趣旨であろうと、私は理解した。)

誰のための、何のための、という部分が抜けおちてしまった議論であると私には思えるのである。この観点からは、著者(内田麻理香)の指摘は正しい。

ただ、一方で、日本がいわゆる科学技術立国をめざすならば、その具体的目標として、世界で1位のスーパーコンピュータという発想も、理解できないではない。しかし、そうであっても、それを何のために使うのかについて、明確な目標が設定されなければ、社会に対して説得力がない。そして、2位の性能であっても、目標が実現できれば、いいではないか。

何のための研究なのか、無条件に自律する研究というのは、もはやなりたたない。これは、人文学でも同じだと思う。(ただ、そうはいっても、何のための研究なのですかといって、こたえに一番困るのが、文学部でやっているようなことかもしれないのだが。また、おって考えていきたい。)

當山日出夫(とうやまひでお)