『日本近代随筆選』2016-06-22

2016-06-22 當山日出夫

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選1-出会いの時-』(岩波文庫).岩波書店.2016

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選2-大地の声-』(岩波文庫).岩波書店.2016

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選3-思い出の扉-』(岩波文庫).岩波書店.2016
https://www.iwanami.co.jp/book/b243810.html

岩波文庫で出ているので、とりあえず買ってみるかと思って買ってみた本であるのだが……これは、あたり、だったと思っている。

全三巻。『一 出会いの時』『二 大地の声』『三 思い出の扉』……たぶん、このシリーズを買わなければ、「無常ということ」(小林秀雄)の文章を再読してみるということもなかったかもしれない。

やや長くなるが、第一巻の解説(千葉俊二)から引用してみる。

「若いころは小説や評論ばかり読んでいて、随筆の面白さにはなかなか気づかされないというのが、大方の読書の最大公約数ではないだろうか。ある程度の歳を重ねて、自分の経験してきた人生と照らし合わせて読みながら、心の底から共感し得る内容や、ほんのささやかなことだけれど、これまで気づくこともなかったようなことに眼を向けさせられ、新たな認識を与えられて、人生の滋味といったようなものに触れたとき、どんな短い文章であっても、しみじみいいなあと思うし、面白いと感じさせられる。これは読む側ばかりの問題でもなく、書き手側についても同じことがいえる。」(p.326)

こういうことばに共感するようになったというのも、たぶん私自身が歳をとってきたということなのだろうと思う。これも、悪いことではないのであろう。ただ、私の場合、小説や評論を読むというよりは、日本語学関係の専門書・論文などを読んできたのだが。そして、私の場合、この歳になって、文学・歴史・哲学、といった人文学の基本的な本を読んでおきたくなっている。

第一巻の冒頭においてある作品は、『サフラン』(森鴎外)である。次のような文からはじまる。

「名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりでない。すべての物にある。」(p.10)

今では知らないものがあれば、コンピュータを起動して、ググってしまう。「サフラン」が知らないことばだったら、検索してしまうだろう。どんな植物なのか、そして、画像まですぐに出てきてしまう。名前だけが、記憶の底にのこるという時代ではなくなってしまっているのかもしれない。

第二巻の『鐘の声』(永井荷風)。

「住みふるした麻布の家の二階には、どうかすると、鐘の声が聞こえてくることがある。」(p.10)

今のインターネットは、YouTubeに接続すれば、音声付きの映像も見られる。しかし、実際に自分の耳で聞く鐘の声は、またちがっている。

インターネットのおかげ、随分と便利にはなった。しかし、知的に、また、情緒的に、豊かになったとはいえないのでないのかもしれない。この随筆集を読むと、そう思わざるをえない。

第三巻には、『城の崎にて』(志賀直哉)がはいっている。

ところで、これは、「随筆」なのであろうか。私の認識では、「小説」だと思っていたのだが。この論点については、また、次にあらためて考えてみたい。

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