中島みゆき「霙の音」2016-06-26

2016-06-26 當山日出夫

中島みゆきのアルバム『組曲』(Suite))については、すでに言及した。

やまもも書斎記:中島みゆき「36時間」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/20/8115592

このアルバム『組曲』(Suite)のなかには、もうひとつ気にいっている曲がある。『霙の音』である。

中島みゆき……もし、シンガーソングライターにならなかったら、時代がもうすこしはやかったら、歌人か小説家になっていたかもしれない、という意味の発言をどこかで目にしたことがある。(何であったかは忘れてしまったが。)

初期の作、(70~80年代)ぐらいの作品を見ていくと、短編小説をおもわせるような作品がいくつかある。『まつりばやし』(『あ・り・が・と・う』)、『おまえの家』(『愛していると云ってくれ』)、『蕎麦屋』(『生きていてもいいですか』)、等々。

そのなかで、心境小説的な作品、孤独な絶望感をリリカルにうたいあげた作品として、『肩に降る雨』(『miss.M』)が、その極北に位置するものと、私は感じている。

『霙の音』も、これに匹敵するぐらいの、いやそれ以上の凄絶さを感じさせる作品になっている。この歌に表現されているものは、何といえばいいのだろうか。悲しみ、さびしさ、せつなさ、といった諸々の感情を、極言にまでつきつめていったいったところで、ふと自分をみつめてみたときにうまれる、ある種のむなしさのようなものといってよいであろうか。絶望といってもよい。

絶望的な感情を歌ったものとしては『うらみます』(『生きていてもいいですか』)がある。これは感情がストレートである。こころの叫びともいえる。だが、この『霙の音』の絶望は、屈折している。

かつての『肩に降る雨』のときには、最後に希望の光を感じることができている。しかし、『霙の音』には、もはやすくいがない。ただ、「みぞれのおと」が聞こえてくるだけである。絶望の絶唱、あるいは、ささやき、といってよい。このような絶望を叙情的にうたった歌をほかに知らない。そして、このすくいのない作品を、さりげなくアルバムのなかにいれている中島みゆきは、やはりすごいとしかいいようがない。