『沈黙』遠藤周作(その二)2017-01-28

2017-01-28 當山日出夫

遠藤周作.『沈黙』(新潮文庫).新潮社.1981(2003改版) (原著 新潮社.1966)
http://www.shinchosha.co.jp/book/112315/

昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2017年1月27日
『沈黙』遠藤周作(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/27/8335811

この作品を、宗教をあつかった文学として読んだとき、気になるのは次の二点である。

第一には、日本におけるキリスト教は、本当に本物のキリスト教といえるのだろうか、という問題。日本で信仰されているキリスト教は、日本的なものに変質しているのではないか、ということがこの作品の一つの宗教的テーマとしてある。

これは、今日の文化人類学とか宗教学とかの課題かもしれない。

たしかに、キリスト教、特に、カトリックの教えは、ある種の普遍性をめざしているものであろう。だが、その教えが、日本のなかにはいってきたとき、土着の日本古来の信仰(仏教、民俗宗教)のなかにとりこまれてしまって、変質してしまうのではないか。このことが、本書のテーマの一つであることは、読み取れることだろう。

第二には、「キチジロー」に代表されるような、弱いもの、あるいは、転んでしまったロドリゴのようなもの、これらを、「神」はよしとされるであろうか、という問いかけがある。

いいかえるならば、「悪人」(親鸞)である。このようなものは、絶対の「神」の前にどのようにふるまえばよいのであろうか。また、「神」は、このような「悪人」を、どう判断されるのであろうか。

これは、あまりにも、強引な解釈かもしれないが、しかし、私の読んだ印象としては、この問いかけが、『沈黙』のなかにはあるように感じる。このような問いかけをふまえたうえで、なぜ「神」は「沈黙」しているのであろうか、このことが、読者の前に突きつけられるように思うのである。

以上の二点が、この作品のなかにある、宗教についてのメッセージであると、私は読み取った。ただ、禁教に対する神の沈黙をあつかったのではない、それ以上に、根源的な人間、そして、社会・文化と、宗教・信仰へのといかけがこの作品にはある。これは、日本の近世初期のキリシタン弾圧という時代的背景のもとに、特殊な状況でのみ考えるべきではないだろう。小説に描かれたような特殊な状況から、さらに踏み込んで、より一般的な、普遍的な、宗教のあり方への問題提起をよみとるべきでである。

昨日、書いたように、かつて私がこの作品を若いときに読んだとき、それは、「転向」(共産主義からの)と、密接に関連するものとして読んだという記憶がある。それが、時代を経て、ようやく、この小説が本来もっている、宗教と人間のかかわりについてのテーマを軸に読むことができるようになった。近代日本文学における宗教小説として、この作品は、これから読まれていくことになるであろう。そして、その問いかけたものは、深くするどい。この問いにどう答えるか、考えていくか、これからの課題ということになると思う次第である。

追記 2017-01-29
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年1月29日
『沈黙』遠藤周作(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/29/8339638