ブラタモリ「伊勢神宮への旅・第五夜▼ついにゴールの神宮へ!斎宮・二見浦」2025-05-13

2025年5月13日 當山日出夫

ブラタモリ 伊勢神宮への旅・第五夜▼ついにゴールの神宮へ!斎宮・二見浦

斎宮歴史博物館には行ったことがある。伊勢神宮に行ったときに、他に寄っておきたいところというので、本居宣長記念館に行ったこともあるし、また、斎宮歴史博物館に行ったこともある。行ったときは、ほんとに誰も他の人がいなくて、ガラガラだった。ただ、斎宮の遺跡には行ったことがない。

斎宮ということばは、賀茂の斎院とならんで、平安時代の文学作品など読めばおぼえることである。『源氏物語』を読めば出てくる。ことばとしては知っていたことなのだが、その斎宮の施設がどんなもので、どれほどの規模だったのか、これは興味深い。(『源氏物語』に関心のある学生なら、一度は行ってみたほうがいいところだと思う。)

二見浦は、自動車で行くと、伊勢道が終わって、海岸沿いの道を選ぶと途中にある。夫婦岩で古くから知られている。ここが、中央構造線にあたっているということは、この番組で知った。番組では出てこなかったが、ここにある水族館は、面白い。

外宮は、今では、あまり人の行かないところになってしまっている。本来は、外宮から参拝して、次に内宮という順序であった。昔の鉄道の駅も、このことを考えて作ってあったはずである。

だが、今では、自動車で行く人がほとんどになってしまっている。内宮の方には、かなり広い駐車場がいくつかあるのだが、外宮の方には、さほど広い駐車場がない。それでも、私が行ったときは、かなり空いていた。

外宮と内宮との間は、バスもあるが、自動車で移動すればさほどの距離ではない。無論、昔の人は歩いて移動したことになる。

外宮のなかにある資料館(だと思うが、正式な名称は忘れた)に行くと、式年遷宮のときの資料などが展示してあって、これは面白い。

お土産物屋さんとか、食事をするようなお店は、どうしても内宮の周辺に固まっている。夏に行くと、五十鈴川の伊勢神宮から下流のところで、子どもたちが水遊びをしている。地元の人たちにとって、夏の遊び場になっている。

2025年5月12日記

BS世界のドキュメンタリー「うちの敷地には強制収容所があった 〜ドイツ人家族のその後〜」2025-05-13

2025年5月13日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「うちの敷地には強制収容所があった 〜ドイツ人家族のその後〜」

2024年、カナダ、ドイツ、イスラエルの制作。

Copilotで、ナチスのときの外務大臣は、と聞いてみて、たぶん、コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵、のことかなと思う。番組の最後のところに、イルムガルト・フォン・ノイラートにささげるとあった。

Wikipediaで、この人物のことを見ると、ナチスに加わったと書いてあるのだが、番組のなかでは、ナチスではなかったと言っていた。さて、本当はどうなのだろうか。外務大臣を辞めて後は、ヒトラーとは距離を置いていたようではあるのだが。

たまたま、このような人物の家族であった、ということで、今にいたるまで背負わなければならない、いろんなものがある……ということは感じとることができる。ドイツにおいて、ナチスの犯罪については、時効ということを設定しないはずだし、仮に、時効と考えても、今のドイツで生きていくためには、いやでも、ナチスの時代のことを、思い出すことにはなるにちがいない。

この家族のことについて、ドイツの一般の人びとは、いったいどう思っているのだろうか、このあたりのことが気になる。

日本では、太平洋戦争、それに先立つ、日中戦争について、国家の指導的立場にあって、その責任を取る、ということは基本的になかった。東京裁判については、その正当性を疑問視する声が、いまだにつづいている。このこともあるが、近年の歴史のとらえ方として、戦前の日本と、戦後の日本を、連続的なものとして考えよう……国家の統治システムや、社会の基本的なあり方について……という方向に変わってきていることもある。このあたりのことを、総合的にどう考えるべきかというのは、かなりむずかしい問題かと思うが。

番組の内容とは関係ないことだが、ドイツの貴族は、その所有する領地のなかに、強制収容所を作ることができるぐらいの広大な土地を持っていて、おそらく、それが今にいたるまで、その子孫に相続されてきているのだろうと思うことになるが、昔のドイツの貴族であった人たちというのは、他には、どんなふうに暮らしているのだろうか。(日本だと、農地解放ということで、大地主というものは無くなってしまったということになっているし、華族制度も廃止された。)

その時代に、たまたまにせよ、国家の要職にあった人間として、その国家のゆくすえがどうなったかについては、なにがしかの責任がある……とは思うのではあるが、その子孫まで、それをひきずることはないだろう。

このような視点からの番組で日本でもし取りあげるとすると、岸信介などがまず思いうかぶところであるが、あるいは、まだ歴史的評価の定まっていない政治家ということになるのかもしれない。(その係累、子孫というような人たちは、戦時中の責任を受け継ぐなどということは、微塵も感じているふうには見えない。)

2025年5月9日記

『國語元年』(2)2025-05-13

2025年5月13日 當山日出夫

『國語元年』(2)

オープニングの背景画は、山藤章二である。今では、もう忘れられたという人かもしれない。「週刊朝日」の連載があり、それから、いくつかのエッセイの挿絵を描いている。これは、新潮文庫などで、かなり刊行されて、よく読んだものである。場合によっては、エッセイの内容よりも、その挿絵の方が強く印象に残っている場合もある。

日本語の研究で、方言について近代的な記述的な研究がいつごろから、どのようにしてはじまったのか、この分野のことについては不案内である。だが、日本の方言学研究史としては、とても興味深いことになる。

ドラマの第二回では、方言でも、音韻、音声、に焦点をあてた内容になっていた。世界の言語について、その音韻、音声、それから、語彙、文法を記述的に研究しようという時代になる。立場を代えれば、大英帝国の時代であり、『マイ・フェア・レディ』の時代である、ということになる。

若林虎三郎が登場してきて、ますます、南郷の家の中の言語の状況はややこしくなってきた。まあ、それだけ、面白くなってきたということであるが。明治維新のときとしては、薩摩と長州、それから、戊辰戦争で敗れた会津、それから、瓦解した江戸幕府のあった江戸のことば、これらに、その他の地方の方言がいりまじることになる。

前にも書いたことだと憶えているのだが、このドラマを見ていて、耳で聴いて分かることばを話しているのは、まず、加津である。もとは、この屋敷の奥様だったという。それが、今では、雇われの身で女中頭をしている。これは、江戸の山の手のことばだから、説明なしに理解できる。それから、江戸の下町のことば。ところどころ、分かりづらいところもある、分かる。次に、南郷清之輔の長州のことば。だいたいのことは分かる。このようなことを考えてみると、まさに、現代の日本語の普通の話しことばが、どのようなことばを基盤として成立したものなのか、おおよその見当がつくことになる。

若林虎三郎が忘れていった書簡があった。昔の候文であるが、これを読み上げることになるのだが、この書簡の文章には方言が出てこない。ざっくりいって、はなしことばの方言は問題になるが、書きことばには方言の違いがなかった、このようなことになる。

吉原のことばのことが出てきていた。いわゆる「ありんすことば」である。ちょうど今、『べらぼう』をやっているので、その中で花魁たちが使っていることばである。これが、花魁たちの出自を隠すための人工的なことばであったことは、一般に知られていることであろう。

部分的に見ていけば、日本語研究の立場から、いろいろと言いたいことはある。しかし、そのようなことを抜きにして、ドラマとして見ていて面白い。

この回で、キセルの煙草の火を、隣同士で雁首をくっつけて、火を貸す、という場面があった。もう世の中で煙草をすう人も少なくなったし、キセルも使わなくなったので、こういう仕草が演出できる人材がなくなってきていると感じるところである。

2025年5月12日記