サイエンスZERO「消防士を支える!“消防技術”最前線」 ― 2025-05-26
2025年5月26日 當山日出夫
サイエンスZERO 消防士を支える!“消防技術”最前線
今まで火事で119をしたことはないけれど(救急車は呼んだことがある)、消防の仕事は大変だよなあ、と思う。
普通の街中の家なら、水がかけられればなんとかなるのかとも思うが、ビルなどだとむずかしいこともあるだろう。水をかけようにも、そのための場所がない、建物のなかにはいって放水することになる。
霧状に放水することで、急激に温度が下がり火が消えるというのは、実験のとおりなのだろう。火災の発生したビルや工場などで働いてくれるロボット(非常に広い意味での)は、まさに現在の研究開発の急務だろう。
建物の設計図(デジタル)があると、デジタルツインの映像をつかって、中の様子を把握することにつながることは、そのとおりだと思うが、そのデジタル設計図の情報を、どうやって手にいれるのか、保管するのか、これはむずかしい問題があるかもしれない。ハッキングされて悪用されれば、最悪の場合、テロリストに使われることになる。施設によっては、絶対に秘密ということもあるかもしれない。
ドライブレコーダーの映像を使うのは、とても面白い。というよりも、普通に街中を走っているタクシーやトラックのドライブレコーダーの映像を集めるだけで、かなりの確率で、場所を特定できるだけの情報がえられる。これは、全国にひろがっていくと、役に立つものになるかと思う。
2025年5月22日記
サイエンスZERO 消防士を支える!“消防技術”最前線
今まで火事で119をしたことはないけれど(救急車は呼んだことがある)、消防の仕事は大変だよなあ、と思う。
普通の街中の家なら、水がかけられればなんとかなるのかとも思うが、ビルなどだとむずかしいこともあるだろう。水をかけようにも、そのための場所がない、建物のなかにはいって放水することになる。
霧状に放水することで、急激に温度が下がり火が消えるというのは、実験のとおりなのだろう。火災の発生したビルや工場などで働いてくれるロボット(非常に広い意味での)は、まさに現在の研究開発の急務だろう。
建物の設計図(デジタル)があると、デジタルツインの映像をつかって、中の様子を把握することにつながることは、そのとおりだと思うが、そのデジタル設計図の情報を、どうやって手にいれるのか、保管するのか、これはむずかしい問題があるかもしれない。ハッキングされて悪用されれば、最悪の場合、テロリストに使われることになる。施設によっては、絶対に秘密ということもあるかもしれない。
ドライブレコーダーの映像を使うのは、とても面白い。というよりも、普通に街中を走っているタクシーやトラックのドライブレコーダーの映像を集めるだけで、かなりの確率で、場所を特定できるだけの情報がえられる。これは、全国にひろがっていくと、役に立つものになるかと思う。
2025年5月22日記
『八重の桜』「ままならぬ思い」 ― 2025-05-26
2025年5月26日 當山日出夫
『八重の桜』「ままならぬ思い」
これまでに見た大河ドラマのなかで、非常に強く印象に残っているのは、『八重の桜』における、松平容保(綾野剛)と孝明天皇(市川染五郎)のことである。
史実としてどうであったかということも気になるところではあるのだが、このドラマで描かれた松平容保の孝明天皇への忠誠心は、非常に感動的である。もし、会津家の藩主が松平容保でなく、孝明天皇があんな人物でなかったら、歴史は変わっていただろう……少なくとも、戊辰戦争にいたる過程はちがっていただろう、と思わせるところがある。
前回でも書いたことなのだが、もう今では評価されなくなった「文明としてのイエ社会」論、このような発想で見てみると、まさに会津藩は一つのイエとして、幕末を迎え、明治維新になり、斗南藩を経験して、それでもなお、会津であろうとした、ということになる。この基本となる心性は、近世から近代日本、その戦後まで、つづくものでもあった。このように思うこともできるだろう。歴史学、社会経済史の視点からは、批判的にとらえることにもなるかと思うが。
ドラマとしては、京都での会津の馬揃えのシーンがよく作ってある。しかし、それがかすんでしまうほど、松平容保と孝明天皇の関係性が、非常に濃厚である。
どうでもいいことだが、孝明天皇の陵墓は京都にある。今上陛下も即位のときには、京都の孝明天皇陵に参拝していたはずである。だが、私の目で見ると、これは表向きで、実際にはそのそばにある泉涌寺に参拝したと理解している。泉涌寺には、歴代天皇の位牌が祀られている。明治天皇以降は、神仏分離ということになって、無いとは思うが、確かめてはいない。
泉涌寺の境内は、何度か行ったことがあるが、幽棲な雰囲気のところである。
それから、新撰組の斎藤一が、とてもかっこいい。この『八重の桜』では、新撰組のことは、そう大きくあつかっていなかったと憶えているが、もし、会津藩のもとで新撰組がはたらくことがなかったら、これも、歴史は少し変わったものになっていただろう。
2025年5月25日記
『八重の桜』「ままならぬ思い」
これまでに見た大河ドラマのなかで、非常に強く印象に残っているのは、『八重の桜』における、松平容保(綾野剛)と孝明天皇(市川染五郎)のことである。
史実としてどうであったかということも気になるところではあるのだが、このドラマで描かれた松平容保の孝明天皇への忠誠心は、非常に感動的である。もし、会津家の藩主が松平容保でなく、孝明天皇があんな人物でなかったら、歴史は変わっていただろう……少なくとも、戊辰戦争にいたる過程はちがっていただろう、と思わせるところがある。
前回でも書いたことなのだが、もう今では評価されなくなった「文明としてのイエ社会」論、このような発想で見てみると、まさに会津藩は一つのイエとして、幕末を迎え、明治維新になり、斗南藩を経験して、それでもなお、会津であろうとした、ということになる。この基本となる心性は、近世から近代日本、その戦後まで、つづくものでもあった。このように思うこともできるだろう。歴史学、社会経済史の視点からは、批判的にとらえることにもなるかと思うが。
ドラマとしては、京都での会津の馬揃えのシーンがよく作ってある。しかし、それがかすんでしまうほど、松平容保と孝明天皇の関係性が、非常に濃厚である。
どうでもいいことだが、孝明天皇の陵墓は京都にある。今上陛下も即位のときには、京都の孝明天皇陵に参拝していたはずである。だが、私の目で見ると、これは表向きで、実際にはそのそばにある泉涌寺に参拝したと理解している。泉涌寺には、歴代天皇の位牌が祀られている。明治天皇以降は、神仏分離ということになって、無いとは思うが、確かめてはいない。
泉涌寺の境内は、何度か行ったことがあるが、幽棲な雰囲気のところである。
それから、新撰組の斎藤一が、とてもかっこいい。この『八重の桜』では、新撰組のことは、そう大きくあつかっていなかったと憶えているが、もし、会津藩のもとで新撰組がはたらくことがなかったら、これも、歴史は少し変わったものになっていただろう。
2025年5月25日記
『べらぼう』「寝惚けて候」 ― 2025-05-26
2025年5月26日 當山日出夫
『べらぼう』「寝惚けて候」
世の中で何が野暮かといって、パロディの解説をするぐらい野暮なことはない。
『べらぼう』のこの回は、かなり苦心して作っただろうと思う。それでも、分からない人には分からない、ということで割りきっているかなという気もする。
狂歌というのは、根底にパロディと風刺がある。それは、説明してしまえば、その面白さや意図が、雲散霧消してしまうものである。
野暮を承知で書いてみると……『べらぼう』では描いていないが、江戸時代の出版文化としては、日本の古典の多くが板本として刊行された時代である。現代につづく古典、『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『徒然草』などの散文の他にも、『古今和歌集』『万葉集』などの歌集もたくさん刊行された。古典は本当に必要か、などと言っている現代とはちがって、古典文学が人びとの間で非常に尊重され読まれた時代でもある。このような古典文学作品の刊行があって、国学という学問がおこり、近代になって国文学という研究分野につながる。
ざっくばらんにいえば、江戸時代の教養ある武士や町人は、ものすごい古典の素養があったのである。それを背景にして、パロディ仕立てで楽しもうというのが、この時代の狂歌になる。
狂歌の会があって、読み上げられる狂歌を耳にして、ああこれはあの歌をふまえているな、ということがすぐに分かってこそである。実際に狂歌の会がどんな雰囲気であったかは分からないとしても、ドラマに描かれていたように、くそ真面目な雰囲気のなかでやるからこそ、その面白さがさらに楽しめる。楽しもうとして、今でいうバラエティでやってしまうと、逆に、面白さがなくなる。もちろん、歌の解説をしてみせるなどは、絶対にやっていはいけないことだったはずである。
だが、ここは、一回だけ、作者にその意図を語らせる場面があったが、これはギリギリの視聴者サービスである。(こんなものは無い方がいいに決まっている。)
岩波書店から『大田南畝全集』が出たのは、東京に住んでいるときだったが、これは、買って持っている本である。だが、今は、書庫にしまったままである。としをとったらこれを読んで楽しむような生活ができたらと思っていたのだが、もう、今となっては手にとろうという気にならない。老眼にはつらい本である。
2025年5月25日記
『べらぼう』「寝惚けて候」
世の中で何が野暮かといって、パロディの解説をするぐらい野暮なことはない。
『べらぼう』のこの回は、かなり苦心して作っただろうと思う。それでも、分からない人には分からない、ということで割りきっているかなという気もする。
狂歌というのは、根底にパロディと風刺がある。それは、説明してしまえば、その面白さや意図が、雲散霧消してしまうものである。
野暮を承知で書いてみると……『べらぼう』では描いていないが、江戸時代の出版文化としては、日本の古典の多くが板本として刊行された時代である。現代につづく古典、『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『徒然草』などの散文の他にも、『古今和歌集』『万葉集』などの歌集もたくさん刊行された。古典は本当に必要か、などと言っている現代とはちがって、古典文学が人びとの間で非常に尊重され読まれた時代でもある。このような古典文学作品の刊行があって、国学という学問がおこり、近代になって国文学という研究分野につながる。
ざっくばらんにいえば、江戸時代の教養ある武士や町人は、ものすごい古典の素養があったのである。それを背景にして、パロディ仕立てで楽しもうというのが、この時代の狂歌になる。
狂歌の会があって、読み上げられる狂歌を耳にして、ああこれはあの歌をふまえているな、ということがすぐに分かってこそである。実際に狂歌の会がどんな雰囲気であったかは分からないとしても、ドラマに描かれていたように、くそ真面目な雰囲気のなかでやるからこそ、その面白さがさらに楽しめる。楽しもうとして、今でいうバラエティでやってしまうと、逆に、面白さがなくなる。もちろん、歌の解説をしてみせるなどは、絶対にやっていはいけないことだったはずである。
だが、ここは、一回だけ、作者にその意図を語らせる場面があったが、これはギリギリの視聴者サービスである。(こんなものは無い方がいいに決まっている。)
岩波書店から『大田南畝全集』が出たのは、東京に住んでいるときだったが、これは、買って持っている本である。だが、今は、書庫にしまったままである。としをとったらこれを読んで楽しむような生活ができたらと思っていたのだが、もう、今となっては手にとろうという気にならない。老眼にはつらい本である。
2025年5月25日記
最近のコメント