日本の話芸「三遊亭兼好 落語「大山詣り」」 ― 2025-08-02
2025年8月2日 當山日出夫
日本の話芸 三遊亭兼好 落語「大山詣り」
再放送である。最初は、2024年9月1日。
少し前に「ブラタモリ」で大山詣りのことをあつかっていた。テレビの番組表を見ていたら目にとまったので、録画しておいた。
この噺は、知っていることではあるのだが、細かく記憶しているということではなかった。見ていて、思ったことなど書いておく。
はじまりは、山登りの女人禁制の話しから。これは、たぶん、今の時代に合わせてのことなのだろう。噺の内容は、別に、このことを知らなくても、十分に楽しめる。だが、なぜ、男たちばかりで大山詣りに出かけて、女房たちが江戸で留守番だったのか、ということの説明としては、あった方がいいかもしれない。(無論、男ばかりの旅行であったのなら、道中の楽しみは、寺社の参詣だけではなかったはずである。)
江戸から大山までは、途中で宿泊して行って帰ることになる。ちょっと距離がある。そして、この噺は、肝心の大山詣りそのものは、まったく出てこない。参詣が終わって帰り道での出来事である。
昔の宿屋に風呂があったが、狭かった。三人も入れば、いっぱいになってしまった。これは、今の旅館などにある大浴場とくらべると、ということになる。日本の旅行や旅館の歴史として、温泉旅館以外でも、大浴場というのが普通になるのは、いつごろからなのだろうか。
あぶらむし、ということばを久しぶりに耳にした。現代では、ゴキブリと言う方が一般的である。おそらくは、「ごきぶりホイホイ」が商品化されて、テレビCMが放送されるあたりからのことかと思うが、調べれば、「ごきぶり」と「あぶらむし」の語誌を研究した論文もあるかと思う。今の若い人は、あぶらむし、と言ってもわからないかもしれない。
早かごだからといって、そう特にスピードがあったとは思えないのだが、実際はどうだったのだろうか。(あるいは、この噺が成立したころには、早かごというのが、姿を消していたころなのかもしれないと思ったりもするが、落語の噺の歴史について、考えてみようという気にはならないでいる。)それにしても、江戸時代のカゴは、いったいどれぐらいのスピードだったのだろうか。
男たちで一緒に旅行して、喧嘩をしたらペナルティがある。これは、昔の地域の共同体のルールということでいいのだろう。すこしぐらい腹の立つことがあっても我慢するのが、全体の安穏のため……こういう理屈になるだろうが、現代ならば、個人の権利の侵害である、としてとても受け入れられるものではない。一昔前の、日本にくらす人びとの、無用のトラブルをおこさないための生活の感覚であったと理解していいだろう。こういうものも、現代の日本が、文明の進歩という名のもとに、失ってしまったものの一つである。
2025年7月28日記
日本の話芸 三遊亭兼好 落語「大山詣り」
再放送である。最初は、2024年9月1日。
少し前に「ブラタモリ」で大山詣りのことをあつかっていた。テレビの番組表を見ていたら目にとまったので、録画しておいた。
この噺は、知っていることではあるのだが、細かく記憶しているということではなかった。見ていて、思ったことなど書いておく。
はじまりは、山登りの女人禁制の話しから。これは、たぶん、今の時代に合わせてのことなのだろう。噺の内容は、別に、このことを知らなくても、十分に楽しめる。だが、なぜ、男たちばかりで大山詣りに出かけて、女房たちが江戸で留守番だったのか、ということの説明としては、あった方がいいかもしれない。(無論、男ばかりの旅行であったのなら、道中の楽しみは、寺社の参詣だけではなかったはずである。)
江戸から大山までは、途中で宿泊して行って帰ることになる。ちょっと距離がある。そして、この噺は、肝心の大山詣りそのものは、まったく出てこない。参詣が終わって帰り道での出来事である。
昔の宿屋に風呂があったが、狭かった。三人も入れば、いっぱいになってしまった。これは、今の旅館などにある大浴場とくらべると、ということになる。日本の旅行や旅館の歴史として、温泉旅館以外でも、大浴場というのが普通になるのは、いつごろからなのだろうか。
あぶらむし、ということばを久しぶりに耳にした。現代では、ゴキブリと言う方が一般的である。おそらくは、「ごきぶりホイホイ」が商品化されて、テレビCMが放送されるあたりからのことかと思うが、調べれば、「ごきぶり」と「あぶらむし」の語誌を研究した論文もあるかと思う。今の若い人は、あぶらむし、と言ってもわからないかもしれない。
早かごだからといって、そう特にスピードがあったとは思えないのだが、実際はどうだったのだろうか。(あるいは、この噺が成立したころには、早かごというのが、姿を消していたころなのかもしれないと思ったりもするが、落語の噺の歴史について、考えてみようという気にはならないでいる。)それにしても、江戸時代のカゴは、いったいどれぐらいのスピードだったのだろうか。
男たちで一緒に旅行して、喧嘩をしたらペナルティがある。これは、昔の地域の共同体のルールということでいいのだろう。すこしぐらい腹の立つことがあっても我慢するのが、全体の安穏のため……こういう理屈になるだろうが、現代ならば、個人の権利の侵害である、としてとても受け入れられるものではない。一昔前の、日本にくらす人びとの、無用のトラブルをおこさないための生活の感覚であったと理解していいだろう。こういうものも、現代の日本が、文明の進歩という名のもとに、失ってしまったものの一つである。
2025年7月28日記
アナザーストーリーズ「日本初の強行突入!全日空857便ハイジャック事件」 ― 2025-08-02
2025年8月2日 當山日出夫
アナザーストーリーズ 日本初の強行突入!全日空857便ハイジャック事件
この事件のことは記憶しているのだが、そんなにはっきりと覚えているということはない。
SATということばを知ったのは、この事件のときからだっただろうか。
見て思うことはいろいろとある。
まず、警察の対応の不手際という印象がどうしてもある。結果的に、犯人を逮捕できて、乗客乗員が全員無事だったということで、成功として語られることになるのだろうが、しかし、地元の警察と警視庁との連携のまずさというのは、どうしても印象に残る。この点は、現在では、どうなっているのだろうか。緊急事態の場合、指揮権を一元的に警視庁などに集約する、ということになっているのだろうか。大規模なテロ犯罪(幸いなことに、これまでにあったということではないのだが)の場合、自衛隊などとの連携、その他のことは、はたしてどれぐらい法的・制度的に整備されてきているのだろうか。
1995年、神戸で地震のあった年であるが、この時代は、まだ携帯電話が普及し始めたころのことになる。被災地との連絡手段として、携帯電話が使えなかったということは、記憶にある。
犯人がどんな人物であったかは、まったく記憶にない。(今なら調べる気になれば、WEB情報などで、分かるかとも思うのだが、わざわざそれをしてみようという気にはならないでいる。)
バブル景気のとき、銀行で、企業買収などの仕事にたずさわったやり手だったということだが、その後、人生は転落することになる。銀行としては、辞めさせてしまうわけにもいかなかった、ということらしい。おそらく、似たような事情の人間は、今の世の中にたくさんいるにちがいない。そのような人たちのことを、今なら、まだ調べればいろいろと分かることがあり、証言も得られるだろうが、こういう調査、報道は、これからなされることがあるだろうか。
2025年7月25日記
アナザーストーリーズ 日本初の強行突入!全日空857便ハイジャック事件
この事件のことは記憶しているのだが、そんなにはっきりと覚えているということはない。
SATということばを知ったのは、この事件のときからだっただろうか。
見て思うことはいろいろとある。
まず、警察の対応の不手際という印象がどうしてもある。結果的に、犯人を逮捕できて、乗客乗員が全員無事だったということで、成功として語られることになるのだろうが、しかし、地元の警察と警視庁との連携のまずさというのは、どうしても印象に残る。この点は、現在では、どうなっているのだろうか。緊急事態の場合、指揮権を一元的に警視庁などに集約する、ということになっているのだろうか。大規模なテロ犯罪(幸いなことに、これまでにあったということではないのだが)の場合、自衛隊などとの連携、その他のことは、はたしてどれぐらい法的・制度的に整備されてきているのだろうか。
1995年、神戸で地震のあった年であるが、この時代は、まだ携帯電話が普及し始めたころのことになる。被災地との連絡手段として、携帯電話が使えなかったということは、記憶にある。
犯人がどんな人物であったかは、まったく記憶にない。(今なら調べる気になれば、WEB情報などで、分かるかとも思うのだが、わざわざそれをしてみようという気にはならないでいる。)
バブル景気のとき、銀行で、企業買収などの仕事にたずさわったやり手だったということだが、その後、人生は転落することになる。銀行としては、辞めさせてしまうわけにもいかなかった、ということらしい。おそらく、似たような事情の人間は、今の世の中にたくさんいるにちがいない。そのような人たちのことを、今なら、まだ調べればいろいろと分かることがあり、証言も得られるだろうが、こういう調査、報道は、これからなされることがあるだろうか。
2025年7月25日記
映像の世紀「ヨーロッパ 2077日の地獄 第2部 独ソ戦 悲劇のウクライナ 1941-1943」 ― 2025-08-02
2025年8月2日 當山日出夫
映像の世紀 高精細スペシャル ヨーロッパ 2077日の地獄 第2部 独ソ戦 悲劇のウクライナ 1941-1943
第二次世界大戦における独ソ戦のことが、大きくとりあげられるようになったのは、やはり、『独ソ戦』(大木毅、岩波新書、2019年)のことが大きく影響しているだろう。また、この回で、ウクライナのことを主にとりあげているのは、現在の、ロシアによるウクライナ侵攻をうけてのことになる。
だが、第二次世界大戦で、ドイツとソ連(ロシア)との間で悲劇的であったのは、ポーランドだろう。ウクライナは、ウクライナとして一定の領土があったことになるが、ポーランドは、歴史のなかで姿を消してしまった(消された)こともある。あるいは、独自の立場であった国としては、ハンガリーも重要かもしれない。東欧の諸国は、ドイツとソ連(ロシア)の間で、苦渋の歴史を味わってきた地域といっていいだろうか。現在、EUのメンバーになったからといって、さて、どうなのだろうか、ここは、専門家の説明がほしいところである。
ウクライナをめぐっては、穀倉地帯として、ドイツとソ連(ロシア)の双方からねらわれたということになるだろう。自活できる経済圏を確保するためには、ここはどうしてもおさえておきたいことになる。(まあ、だからこそ、現在のロシアによるウクライナ侵攻ということもあるのだろうと思うが。)
ドイツ軍によるソ連との戦いは、1946年の冬が一つの山場であったことになる。モスクワを目指して進軍していったドイツ軍は、冬の寒さに負けたといっていいのだろう。冬用の装備が十分でなかったこともある。
これを日本から見るならば、日本が、太平洋戦争としてアメリカを相手に戦端をひらいたのが、1941年の12月であるのだが、これが、もし数ヶ月後のことであったら、どうなっていたか。対ソ連戦で攻めあぐねているドイツを見て、それでも、アメリカ相手に開戦にふみきったかどうか。日本の判断としては、ドイツがソ連を屈服させる(ヒトラーがスターリンに勝つ)ということに期待をかけて、対アメリカ戦を考えたということもある。
しかし、石油の禁輸ということで、日本がその後の数ヶ月を耐え忍ぶことができたかどうか、ということは、また別の問題であるにちがいない。対外強硬論にはしる世論、マスコミを、どう懐柔できただろうか。
ともあれ、ウクライナの人びとは、とてもかわいそうであった、ということはよく分かる。だからといって、ウクライナが、ずっと昔から統一的に統治されてきた国民国家であったかどうか、ということは、また別の議論になるかとも思う。(結果的に、今般の、ロシアによるウクライナ侵攻によって、ウクライナという国民国家をより強固なものとして作ってしまったということは、いえそうである。)
国民国家を象徴するのが、国立の戦争博物館の存在であり、国家による英霊祭祀、である。この観点で見ると、ともに現代の日本でかけていることになる。このあたりが、現代の日本の国家としてのあり方を考えるときの、一つのポイントかとも思う。
ウクライナを象徴するのが、一面のひまわり畑である……まあ、私の記憶でも、ソフィア・ローレンは、良かったと感じるのであるけれど。
2025年7月31日記
映像の世紀 高精細スペシャル ヨーロッパ 2077日の地獄 第2部 独ソ戦 悲劇のウクライナ 1941-1943
第二次世界大戦における独ソ戦のことが、大きくとりあげられるようになったのは、やはり、『独ソ戦』(大木毅、岩波新書、2019年)のことが大きく影響しているだろう。また、この回で、ウクライナのことを主にとりあげているのは、現在の、ロシアによるウクライナ侵攻をうけてのことになる。
だが、第二次世界大戦で、ドイツとソ連(ロシア)との間で悲劇的であったのは、ポーランドだろう。ウクライナは、ウクライナとして一定の領土があったことになるが、ポーランドは、歴史のなかで姿を消してしまった(消された)こともある。あるいは、独自の立場であった国としては、ハンガリーも重要かもしれない。東欧の諸国は、ドイツとソ連(ロシア)の間で、苦渋の歴史を味わってきた地域といっていいだろうか。現在、EUのメンバーになったからといって、さて、どうなのだろうか、ここは、専門家の説明がほしいところである。
ウクライナをめぐっては、穀倉地帯として、ドイツとソ連(ロシア)の双方からねらわれたということになるだろう。自活できる経済圏を確保するためには、ここはどうしてもおさえておきたいことになる。(まあ、だからこそ、現在のロシアによるウクライナ侵攻ということもあるのだろうと思うが。)
ドイツ軍によるソ連との戦いは、1946年の冬が一つの山場であったことになる。モスクワを目指して進軍していったドイツ軍は、冬の寒さに負けたといっていいのだろう。冬用の装備が十分でなかったこともある。
これを日本から見るならば、日本が、太平洋戦争としてアメリカを相手に戦端をひらいたのが、1941年の12月であるのだが、これが、もし数ヶ月後のことであったら、どうなっていたか。対ソ連戦で攻めあぐねているドイツを見て、それでも、アメリカ相手に開戦にふみきったかどうか。日本の判断としては、ドイツがソ連を屈服させる(ヒトラーがスターリンに勝つ)ということに期待をかけて、対アメリカ戦を考えたということもある。
しかし、石油の禁輸ということで、日本がその後の数ヶ月を耐え忍ぶことができたかどうか、ということは、また別の問題であるにちがいない。対外強硬論にはしる世論、マスコミを、どう懐柔できただろうか。
ともあれ、ウクライナの人びとは、とてもかわいそうであった、ということはよく分かる。だからといって、ウクライナが、ずっと昔から統一的に統治されてきた国民国家であったかどうか、ということは、また別の議論になるかとも思う。(結果的に、今般の、ロシアによるウクライナ侵攻によって、ウクライナという国民国家をより強固なものとして作ってしまったということは、いえそうである。)
国民国家を象徴するのが、国立の戦争博物館の存在であり、国家による英霊祭祀、である。この観点で見ると、ともに現代の日本でかけていることになる。このあたりが、現代の日本の国家としてのあり方を考えるときの、一つのポイントかとも思う。
ウクライナを象徴するのが、一面のひまわり畑である……まあ、私の記憶でも、ソフィア・ローレンは、良かったと感じるのであるけれど。
2025年7月31日記
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