ブラタモリ「加賀百万石と東大▼奇跡の赤門&大名庭園!前田家が残した“宝”」 ― 2025-08-27
2025年8月27日 當山日出夫
ブラタモリ 加賀百万石と東大▼奇跡の赤門&大名庭園!前田家が残した“宝”
東京大学(本郷)には、しばらく行っていない。以前は、秋の訓点語学会が東京大学ということになっているので、行っていた。それも、COVID-19パンデミック以来、行っていない。(学会費は払っている。これは、若い人たちのための寄付のようなものである。)
地下鉄で本郷三丁目を降りて東京大学に行くと、どうしても赤門が最初に目につく。ここから入って、構内の案内板を見て、目的地に行くということが常だった。別にこれが最短ルートということではないはずだが。
門が閉まっている状態の赤門というと、むしろ、この状態の方が珍しいというべきである。
三四郞池は分かる。学会の開催とか、懇親会が、山上会館であるのが恒例だったので、どうしても三四郞池の側をとおることになる。実際に見ると、かなり大きな池である。
この池がどうして出来たかというと、前田家の屋敷のあったところが、台地の上で、かつ、段丘のところだったので、水が湧き出していて池があった。これは、そうなのだろうと思う。
ところで、東京大学(本郷キャンパス)の立地であるが、台地の上とはいっても、端の方で、下町のエリアに近い。例えば、森鷗外の『雁』など読むと、この周辺の地理を理解することになる。あるいは夏目漱石の『三四郞』を読んでもいい。
大学の立地条件として、いろいろあるだろう。ただ広いだけでなく、学生が生活する地域が確保できること(全寮制でないかぎり)、教員や職員などが通えること、東京において、時の政府組織と連絡のとれる距離であること(これは、東京大学のなりたちを考えると重要なことだろう)、それから、水が確保できることが、あったはずである。
おそらく東京大学というのは、現代においても、東京都内で、最大規模クラスの水と電気の消費者であると思う。明治のはじめなら電気はさほどでもなかったかもしれないが、水は必須だっただろう。特に、医学、工学、という分野においては、水を大量につかったはずである。では、東京大学が本郷にできたころ、水の供給はどうなっていたのだろうか、気になるところである。
番組の中では言っていなかったが、東京大学から湯島あたりは近い。若い男の学生たち(学生は男性だけだった)にとって、「遊ぶ」場所も、近くにあったということになりそうである。
東京大学と前田侯爵家との関係は、かなり深い。本郷だけではなく、駒場にも前田家の邸宅があった。今も残っている。東京における大名屋敷、それから、近代になってからの華族の邸宅、これらを総合的に見る、江戸時代から近代にかけての東京についての研究は、どれぐらいあるのだろうか。
本郷キャンパスの中では、考古学の発掘調査も行われているはずで、江戸時代の大名屋敷の生活が分かったりするのだが、こういうことは、この回の放送では出てきていなかった。
明治のころの東京大学の中は、今よりももっと静謐な感じがしたのだろう。番組のなかで、『三四郞』のなかから野々宮宗八のことばが引用してあった。寺田寅彦がモデルとされる。少なくとも、大学のキャンパスというのは、その中に入ると、外の世界とは異なる価値観があり、時間の流れがある、ということを実感するところでなければならないと思っている。しかし、最近では、新しく都市部に作る大学のキャンパスは、周囲の都市と連続していることを強調するような設計になっていることが多い。大学というもの対する、世の中の見方が変わってきているということである。
2025年8月24日記
ブラタモリ 加賀百万石と東大▼奇跡の赤門&大名庭園!前田家が残した“宝”
東京大学(本郷)には、しばらく行っていない。以前は、秋の訓点語学会が東京大学ということになっているので、行っていた。それも、COVID-19パンデミック以来、行っていない。(学会費は払っている。これは、若い人たちのための寄付のようなものである。)
地下鉄で本郷三丁目を降りて東京大学に行くと、どうしても赤門が最初に目につく。ここから入って、構内の案内板を見て、目的地に行くということが常だった。別にこれが最短ルートということではないはずだが。
門が閉まっている状態の赤門というと、むしろ、この状態の方が珍しいというべきである。
三四郞池は分かる。学会の開催とか、懇親会が、山上会館であるのが恒例だったので、どうしても三四郞池の側をとおることになる。実際に見ると、かなり大きな池である。
この池がどうして出来たかというと、前田家の屋敷のあったところが、台地の上で、かつ、段丘のところだったので、水が湧き出していて池があった。これは、そうなのだろうと思う。
ところで、東京大学(本郷キャンパス)の立地であるが、台地の上とはいっても、端の方で、下町のエリアに近い。例えば、森鷗外の『雁』など読むと、この周辺の地理を理解することになる。あるいは夏目漱石の『三四郞』を読んでもいい。
大学の立地条件として、いろいろあるだろう。ただ広いだけでなく、学生が生活する地域が確保できること(全寮制でないかぎり)、教員や職員などが通えること、東京において、時の政府組織と連絡のとれる距離であること(これは、東京大学のなりたちを考えると重要なことだろう)、それから、水が確保できることが、あったはずである。
おそらく東京大学というのは、現代においても、東京都内で、最大規模クラスの水と電気の消費者であると思う。明治のはじめなら電気はさほどでもなかったかもしれないが、水は必須だっただろう。特に、医学、工学、という分野においては、水を大量につかったはずである。では、東京大学が本郷にできたころ、水の供給はどうなっていたのだろうか、気になるところである。
番組の中では言っていなかったが、東京大学から湯島あたりは近い。若い男の学生たち(学生は男性だけだった)にとって、「遊ぶ」場所も、近くにあったということになりそうである。
東京大学と前田侯爵家との関係は、かなり深い。本郷だけではなく、駒場にも前田家の邸宅があった。今も残っている。東京における大名屋敷、それから、近代になってからの華族の邸宅、これらを総合的に見る、江戸時代から近代にかけての東京についての研究は、どれぐらいあるのだろうか。
本郷キャンパスの中では、考古学の発掘調査も行われているはずで、江戸時代の大名屋敷の生活が分かったりするのだが、こういうことは、この回の放送では出てきていなかった。
明治のころの東京大学の中は、今よりももっと静謐な感じがしたのだろう。番組のなかで、『三四郞』のなかから野々宮宗八のことばが引用してあった。寺田寅彦がモデルとされる。少なくとも、大学のキャンパスというのは、その中に入ると、外の世界とは異なる価値観があり、時間の流れがある、ということを実感するところでなければならないと思っている。しかし、最近では、新しく都市部に作る大学のキャンパスは、周囲の都市と連続していることを強調するような設計になっていることが多い。大学というもの対する、世の中の見方が変わってきているということである。
2025年8月24日記
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