『風、薫る』「疾風に勁草を」 ― 2026-06-07
2026年6月7日 當山日出夫
『風、薫る』「疾風に勁草を」
このドラマは、時代考証の観点から見て、ギリギリのところで作ってある。意図的にそうしているのだろうと思う。まったく時代考証として無理ということにしてしまうとクレームがつくだろうが、そうならない範囲を考えていることにはなる。だからといって、それでドラマとして面白くなっているかどうかとなると、微妙である。時代設定の中でかなり無理をして、現代の感覚に合わせようとしていることは、そうなのだろうと思うのだが。
ゆきは、担当していた患者が死んでしまったことをきっかけにして、看護婦になることを止めるという。看護婦の学校、その病院での実習でのこととして見るならば、こういう展開でもいいのだが、しかし、ドラマの時代設定が、明治のはじめのころ(20年ごろ)であることを考えると、どうかなと思う。
この時代であれば、現代よりも、もっと人の死というのは身近なものであったことは確実である。ドラマが始まってすぐに、コレラの流行ということが出てきていたが、感染症の流行だけではなく、一般に乳幼児死亡率はきわめて高かったし、普通に生活していたとしても、病気で亡くなることは普通にあった。また、死ぬとしても、病院ではなく、家で死ぬことの方が圧倒的に多かったはずである。病院で死ぬのが多くなるのは、日本では、つい近年になってからのことにすぎない。
こういうことを思ってみるならば、病院で担当していた患者が死んだからといって、看護婦になるのを止めるというのは、いかにも不自然という印象である。(だが、このように思うことがあったとしても、それを完全に変であると否定はできないのだが。)
遊女との心中をはかって、男女が病院に運び込まれる。
これも、この時代に、現代の救急医療のように、何かあったらすぐに病院に行くということではなかっただろうと思えるし、さらに、あこぎな遊廓の商売として、商売のことを考えるならば、どうしただろうかということもある。(これも、だからといって、こういうことが全くなかったはずだとは言い切れないところではあるが。)
廃娼運動のことが出てきていた。これも微妙なところである。日本で本格的に廃娼運動が起こるようになるのは、もうちょっと時代が下ってから、明治の終わりから大正時代にかけてのころというのが、常識的な歴史の知識である。それも、主に、キリスト教の救世軍などの活動として、知られることになる。廃娼運動というと矯風会を思い浮かべることになるが、この設立は、明治19年である。
だからといって、このドラマの時代の明治20年ごろに、廃娼運動の考えがまったくなかったかとなると、その萌芽的な動きはあったということになり、ドラマの中にこういうことが描かれていても、完全に時代考証ミスと言い切れないところがある。だが、非常に不自然であるということは、確かなのだが。
廃娼運動を描くにしても、ただ、女郎の解放、自由廃業、ということだけにとどまるのか、さらに、その根底にある社会の価値観……キリスト教的な厳格な一夫一婦制を理想とする考えを強調するのか、現代的な女性の権利の主張という観点で描くことになるのか、どうなることかとは思う。
安が結婚して奥様になるのが善いと言っていたのも、どうだろうか。明治のころであれば、社会の中で、女性が働くということは、普通のことであり、現代の価値観でいうような専業主婦的な生き方が一般に認知されていたということはなかっただろう。これも、社会の階層によって、違うとは思うが、没落士族の娘というべき安の考えることとしては、ありえないこととは思わないが、これも、かなり無理のあることかなと感じる。
侯爵夫人の千佳子のようであるか、あるいは、裕福な商人の妻でもあれば、働かなくてもいいという女性になるかもしれない。(もし、卯三郎の妻が登場することになるならば、働かなくてもいい、専業主婦的な女性ということになるだろう。)
バーンズ先生は、看護は奉仕ではなく仕事である、という。これも、現代からみれば、そうかなと思うことではあるが、そもそも、この時代に、働くということがどう考えられていたかとなると、疑問がないではない。この時代に、近代的な意味での労働という概念があったかどうか。おそらくは、明治になって近代的な国家や社会になる過程で、徐々に形成されていたものであるとするのが、普通の歴史の知識かと思う。(ここで、強いて『プロ倫』など持ち出さなくても、普通にそう考えるだろう。)
これが、もうちょっと時代がたって、明治の終わりになれば、状況が違ってくる。代表的なものとしては、夏目漱石の『それから』に出てくる、代助と平岡が、労働とはどういうことかをめぐって、お酒を飲みながら議論する場面がある。こういう議論が可能になるのは、時代や社会の変化があってのことであり、また、これは、『三四郞』『それから』などの作品を読むような……都市部の「朝日新聞」の読者であるような……人びとで、かつ、男性についての議論ということになる。
女性が看護婦として働くことについて、労働か奉仕か、という発想で見るのは、この時代としては、かなり無理があると感じる。(これも、まったくありえないということではないのだが。)
シマケンのような煩悶文学青年が、このころにいてもおかしくはないが、かなり無理がある。二葉亭四迷の『浮雲』は、初編が明治20年であるし、坪内逍遙の『小説神髄』や『当世書生気質』は、たしかにあった。だが、『浮雲』は、文学史的には、時代と合わなかった失敗作と考えるのが普通かなと思うことだし、樋口一葉が活躍するのは、これからいくぶん後のことになる。ギリギリ、北村透谷あたりを擬すれば、シマケンのような人物がいても、まったくダメということではないのだが。
その他、いろいろとあるが、時代考証の観点から、まったく無理ということではない範囲のギリギリのところで、現代的な価値観や考え方を描こうとしているという意図は分かる。しかし、だから、ドラマとして面白くなっているかどうかとなると、かならずしもそうはいえないように、私には思える。こういう無理をした脚本で作るよりも、もうちょっと時代設定を後にして、大正時代ぐらいのことにしてあった方が、素直に現代の感覚で見ることができる。(しかし、そうなると、看護婦のパイオニアを描くことはできなくなる。)
明治のこの時代というのは、まだまだ、江戸時代からの感覚の生きていた時代である。単純に考えて、明治になって生まれた人間が、ようやく成人するころのことになる。社会の中軸となっている人びとは、江戸時代に生まれて、旧式の社会の中で育ち、教育をうけ、生きてきた人たちである。それが、時代が明治になったので、はい今日からみなさん近代人です、江戸時代までのことは忘れましょう、ということにはならない。これは、歴史についての、人間というものについての想像力の問題である。
2026年6月6日記
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