『べらぼう』「打壊演太女功徳」 ― 2025-09-01
2025年9月1日 當山日出夫
『べらぼう』 打壊演太女功徳
この回の演出は、大原拓である。見ていると、画面が暗いし、ケレン味たっぷりの絵になっている。
天明の打ちこわしについては、どれぐらい研究で明らかになっているのか、気にはなるところなのだが、本を読んでみようという気にはならないでいる。(もう、年をとったものである。)
それでも、百姓一揆とか、打ちこわしとか、今のことばいうならば、民衆の直接行動、といっていいことがらについては、どう研究することになるのか、むしろ、その視点のおきかたとか、史料論とか、研究の方法論とか、こういうことの方が気にはなっている。
まあ、打ちこわしを実行できるぐらいのエネルギー、というか、現実的な体力が残っているから出来ることであって、お米がなくて食べるものがなくなって、飢餓に直面しているような状態になったら、もう、そんなこともしたくない、という気持ちなるかもしれない。(さて、江戸の市中で飢饉で餓死者が出るようなことはあったのだろうか。)
『べらぼう』は、蔦重のドラマとして作ってあるのだが、この回のあたりは、田沼意次がメイン、といってもいいかもしれない。その権力の最後の様子と、松平定信のことなどが、一橋治済をからめて(黒幕としてというべきか)、江戸の政治の暗黒面を描いている、と見ることになる。
大奥の老女の高岳は、さすがの貫禄である。大奥の存在を、政治とからめて描くということは、これまでのドラマではあまりなかったかと思うのだが、(無論、『篤姫』は例外として)、歴史学の研究成果として、大奥のことが明らかになってきたこともあって、こういう脚本の構成になっているのかと思う。
お米がないなら銀を……ということになっていたのだが、まったくお米が無い状態では、こういう措置も意味がない。銀を食べることはできない。一方、お米を買い占めてため込んだところで、世の中がもちなおして、お米の値段が下がれば損をすることになる。ため込んだお米を、お金持ちの商人が自分たちだけで食べて消費するということはなかっただろう。ここのところは、江戸の市中における、お米の流通の問題だったと考えるべきところかと思う。
日曜日の昼に、4Kで、『八重の桜』と『べらぼう』続けて見ることにしているので、『べらぼう』の画面の暗さが、より目立つ。意図としては、屋内や夜のシーンは、その時代の照明ではどうだったか再現してみたい、ということは理解できるつもりなのだが、ちょっとなじめないところがあるというのが、思うところでもある。
2025年8月31日記
『べらぼう』 打壊演太女功徳
この回の演出は、大原拓である。見ていると、画面が暗いし、ケレン味たっぷりの絵になっている。
天明の打ちこわしについては、どれぐらい研究で明らかになっているのか、気にはなるところなのだが、本を読んでみようという気にはならないでいる。(もう、年をとったものである。)
それでも、百姓一揆とか、打ちこわしとか、今のことばいうならば、民衆の直接行動、といっていいことがらについては、どう研究することになるのか、むしろ、その視点のおきかたとか、史料論とか、研究の方法論とか、こういうことの方が気にはなっている。
まあ、打ちこわしを実行できるぐらいのエネルギー、というか、現実的な体力が残っているから出来ることであって、お米がなくて食べるものがなくなって、飢餓に直面しているような状態になったら、もう、そんなこともしたくない、という気持ちなるかもしれない。(さて、江戸の市中で飢饉で餓死者が出るようなことはあったのだろうか。)
『べらぼう』は、蔦重のドラマとして作ってあるのだが、この回のあたりは、田沼意次がメイン、といってもいいかもしれない。その権力の最後の様子と、松平定信のことなどが、一橋治済をからめて(黒幕としてというべきか)、江戸の政治の暗黒面を描いている、と見ることになる。
大奥の老女の高岳は、さすがの貫禄である。大奥の存在を、政治とからめて描くということは、これまでのドラマではあまりなかったかと思うのだが、(無論、『篤姫』は例外として)、歴史学の研究成果として、大奥のことが明らかになってきたこともあって、こういう脚本の構成になっているのかと思う。
お米がないなら銀を……ということになっていたのだが、まったくお米が無い状態では、こういう措置も意味がない。銀を食べることはできない。一方、お米を買い占めてため込んだところで、世の中がもちなおして、お米の値段が下がれば損をすることになる。ため込んだお米を、お金持ちの商人が自分たちだけで食べて消費するということはなかっただろう。ここのところは、江戸の市中における、お米の流通の問題だったと考えるべきところかと思う。
日曜日の昼に、4Kで、『八重の桜』と『べらぼう』続けて見ることにしているので、『べらぼう』の画面の暗さが、より目立つ。意図としては、屋内や夜のシーンは、その時代の照明ではどうだったか再現してみたい、ということは理解できるつもりなのだが、ちょっとなじめないところがあるというのが、思うところでもある。
2025年8月31日記
『八重の桜』「弟のかたき」 ― 2025-09-01
2025年9月1日 當山日出夫
『八重の桜』「弟のかたき」
勝海舟と西郷隆盛の面会のシーンは、幕末明治維新ドラマの一番の見せどころの一つになっている。このドラマでは、山岡鉄舟が出てきていなかったが、このあたりのことは、脚本の方針ということになるのだろう。
江戸を焼き払わない、徳川慶喜の命を助ける、だが、そのかわりに、新政府軍(と、この時点で言うのもなんだか変な気がするが、他に言い方がないから、しかたがない)の向かう先が、会津ということになった。この後、奥羽列藩同盟、と教科書に出てきたことになると思って見ている。
やっぱり、会津は、歴史のなかで貧乏くじを引くことになった、と思うしかない。これも、運命である。この先の会津戦争、斗南藩のこと、さらに明治維新以降のことは、この時代の人びとは、まったく予想することもできなかった。
しかし、勝てば官軍、というように、もし、会津など旧幕府側が勝っていたら、ということは、歴史のもしもとして、考えて見るのも面白い。先週、出てきていた榎本武揚の軍艦の運用によっては、ひょっとすると歴史は違う方向にうごいたかもしれない。
ここにいたると、討幕軍と会津というかたちになって、日本という国これからの姿をイメージする、という大局的見地からものを見ている人物が出てこなくなる、というのも興味深い。佐久間象山もいないし、吉田松陰もいない。勝海舟は、ここでは、幕臣として行動している部分が大きくなってきている。
新政府軍は、東海道、中山道、北陸道と、別れて江戸を目指した。このとき、東海道は、どう通ったのだろうか。大井川をどうやってわたったのか、箱根をどうやって越えたのか、ということが気になることである。
八重を動かしているのは、会津の人間として(あるいは、武士階級の人間として)の忠誠心であり、愛郷心、ということになりそうである。これが、明治以降の近代的なナショナリズム(私は、ナショナリズムを悪いことだとは思っていない)と、どう繋がるように描くことになるのか、と思って見ている。
戊辰戦争、会津戦争は、現代の軍事史の研究としては、どのように考えられているのか、気になるところではあるが、もう調べてみようという気持ちにはならないでいる。
2025年8月31日記
『八重の桜』「弟のかたき」
勝海舟と西郷隆盛の面会のシーンは、幕末明治維新ドラマの一番の見せどころの一つになっている。このドラマでは、山岡鉄舟が出てきていなかったが、このあたりのことは、脚本の方針ということになるのだろう。
江戸を焼き払わない、徳川慶喜の命を助ける、だが、そのかわりに、新政府軍(と、この時点で言うのもなんだか変な気がするが、他に言い方がないから、しかたがない)の向かう先が、会津ということになった。この後、奥羽列藩同盟、と教科書に出てきたことになると思って見ている。
やっぱり、会津は、歴史のなかで貧乏くじを引くことになった、と思うしかない。これも、運命である。この先の会津戦争、斗南藩のこと、さらに明治維新以降のことは、この時代の人びとは、まったく予想することもできなかった。
しかし、勝てば官軍、というように、もし、会津など旧幕府側が勝っていたら、ということは、歴史のもしもとして、考えて見るのも面白い。先週、出てきていた榎本武揚の軍艦の運用によっては、ひょっとすると歴史は違う方向にうごいたかもしれない。
ここにいたると、討幕軍と会津というかたちになって、日本という国これからの姿をイメージする、という大局的見地からものを見ている人物が出てこなくなる、というのも興味深い。佐久間象山もいないし、吉田松陰もいない。勝海舟は、ここでは、幕臣として行動している部分が大きくなってきている。
新政府軍は、東海道、中山道、北陸道と、別れて江戸を目指した。このとき、東海道は、どう通ったのだろうか。大井川をどうやってわたったのか、箱根をどうやって越えたのか、ということが気になることである。
八重を動かしているのは、会津の人間として(あるいは、武士階級の人間として)の忠誠心であり、愛郷心、ということになりそうである。これが、明治以降の近代的なナショナリズム(私は、ナショナリズムを悪いことだとは思っていない)と、どう繋がるように描くことになるのか、と思って見ている。
戊辰戦争、会津戦争は、現代の軍事史の研究としては、どのように考えられているのか、気になるところではあるが、もう調べてみようという気持ちにはならないでいる。
2025年8月31日記
『母の待つ里』(1) ― 2025-09-01
2025年9月1日 當山日出夫
『母の待つ里』(1)
浅田次郎の本は、かなり読んでいる。『壬生義士伝』からはじまり、「天切り松」シリーズ、「蒼穹の昴」シリーズ、「プリズンホテル」シリーズ、どれも読んでいる。『母の待つ里』も読んだ。が、これは、Kindle版である。もう年をとってきたので、字の小さい文庫本を読むのがつらくなってきた。
このドラマは、たしか、BSで以前に放送したものであるはずである。そのときは、見なかった。なんとなくである。
なんとなく、見ておきたくなって、新しい放送を録画しておいた。
第一回を見て思うことは、まず、脚本と演出がとてもいい。宮本信子、中井貴一が、とてもいい。嘘とわかっていて、嘘ではないふりをして、本当のことを言っているような、言っていないような、それでいて、どこかにその登場人物の本心が隠れている……こういう部分を、見事に表現している。たぶん、ちよの役をできるのは、宮本信子ぐらいしかいないかもしれない。
人形浄瑠璃がたくみである。これは、原作にはない部分であるが、幻想的なところを、文楽の人形で表現する、非常に素朴な昔話・伝説の感情を、きわめて洗練された文楽の人形の操演で見せている。これは、非常にいい。(ちなみに、ガブ、というのを思い出した。)しかも、人形遣いが、桐竹勘十郎である。ものすごく贅沢な作り方である。
細かなことだが、ちよの家のカレンダーが、5月になっていて、ちょうどそのころが桜の花が咲くときになる、北国の春の遅さをうまく映像で見せている。
野暮なことを言えばになるが……今の時代だと、東北の曲屋が残っていても、外観は昔をとどめていても、内部は現代的にリフォームしている例が多いだろう。土間があって、かまどで薪を焚いて、ということは、意図的に、強いていえば趣味的に、残そうとしなければ残っていないだろう。土間をつぶして、床を作ってフローリングのLDKとして、囲炉裏のあったところと一体化して、システムキッチンでも設置しないと、今のライフスタイルに合わない。
ドラマでは、そこまでは現代的ではないけれども、今から数十年前まであった農村の生活のなかに、いくぶんの現代的要素が入っている、生活の様子をうまく表現している。風呂は、今の時代だと、薪でわかすとしても、さすがに五右衛門風呂は無いと判断したのだろう。
小説として、文章で表現することと、ドラマとして映像で表現すること、それぞれの違いを分かって、原作を尊重した作り方になっている。
どうでもいいことかもしれないが、村に入ったときに登場して一緒に歩いた柴犬も、このサービスのスタッフ(?)なのだろうか。そうだとするならば、50万円は高くないと思える。
2025年8月31日記
『母の待つ里』(1)
浅田次郎の本は、かなり読んでいる。『壬生義士伝』からはじまり、「天切り松」シリーズ、「蒼穹の昴」シリーズ、「プリズンホテル」シリーズ、どれも読んでいる。『母の待つ里』も読んだ。が、これは、Kindle版である。もう年をとってきたので、字の小さい文庫本を読むのがつらくなってきた。
このドラマは、たしか、BSで以前に放送したものであるはずである。そのときは、見なかった。なんとなくである。
なんとなく、見ておきたくなって、新しい放送を録画しておいた。
第一回を見て思うことは、まず、脚本と演出がとてもいい。宮本信子、中井貴一が、とてもいい。嘘とわかっていて、嘘ではないふりをして、本当のことを言っているような、言っていないような、それでいて、どこかにその登場人物の本心が隠れている……こういう部分を、見事に表現している。たぶん、ちよの役をできるのは、宮本信子ぐらいしかいないかもしれない。
人形浄瑠璃がたくみである。これは、原作にはない部分であるが、幻想的なところを、文楽の人形で表現する、非常に素朴な昔話・伝説の感情を、きわめて洗練された文楽の人形の操演で見せている。これは、非常にいい。(ちなみに、ガブ、というのを思い出した。)しかも、人形遣いが、桐竹勘十郎である。ものすごく贅沢な作り方である。
細かなことだが、ちよの家のカレンダーが、5月になっていて、ちょうどそのころが桜の花が咲くときになる、北国の春の遅さをうまく映像で見せている。
野暮なことを言えばになるが……今の時代だと、東北の曲屋が残っていても、外観は昔をとどめていても、内部は現代的にリフォームしている例が多いだろう。土間があって、かまどで薪を焚いて、ということは、意図的に、強いていえば趣味的に、残そうとしなければ残っていないだろう。土間をつぶして、床を作ってフローリングのLDKとして、囲炉裏のあったところと一体化して、システムキッチンでも設置しないと、今のライフスタイルに合わない。
ドラマでは、そこまでは現代的ではないけれども、今から数十年前まであった農村の生活のなかに、いくぶんの現代的要素が入っている、生活の様子をうまく表現している。風呂は、今の時代だと、薪でわかすとしても、さすがに五右衛門風呂は無いと判断したのだろう。
小説として、文章で表現することと、ドラマとして映像で表現すること、それぞれの違いを分かって、原作を尊重した作り方になっている。
どうでもいいことかもしれないが、村に入ったときに登場して一緒に歩いた柴犬も、このサービスのスタッフ(?)なのだろうか。そうだとするならば、50万円は高くないと思える。
2025年8月31日記
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