芸能きわみ堂「福を呼び込め!人間国宝できき初め」2026-01-16

2026年1月16日 當山日出夫

芸能きわみ堂 福を呼び込め!人間国宝できき初め

地唄の「萬歳」と、箏曲「初音曲」だった。

見ていて、聞いていて、とてもすばらしいということは、分かるつもりではいるのだが、もう、私の感性としては、この種の邦楽に馴染みがなくなっている、ということを感じる……正直にいえば、どうしてもこうなる。こういう曲を聴くよりも、Walkmanに入れてあるビル・エヴァンスとか、ジョン・コルトレーンとか、でなければ、バッハのブランデンブルク協奏曲とか、これらの方が、親しみを感じるということは、確かなことである。(この番組を作っている人にはもうしわけないと思うけれど。)

しかし、こういう番組で、このような芸能の世界が、確かに日本の中で伝えられているということを、見て確認するということも、意味のあることだと思っている。こういう世界が、しばらく前までの(今でもというべきだろうが)人びとの生活の中にあったのだと、感じる。

萬歳というのが、古代以来の芸能であることは知っている。番組で出てきていたのは、秋田万歳と伊勢万歳。使っている楽器も、三味線であったり、胡弓であったり、鼓であったり、民俗芸能として、それぞれに、時代の変化に合わせて新しいものを取り入れてきたということであろう。今の日本では、こういった門付け芸というものが、ほとんど絶滅しかけている。それは、その地域の人びとの生活のスタイルの変化ということでもある。

家の門があって、家の玄関との間にちょっと空間があったり、庭があったりして、そこで芸をするとか、道で芸をするとか……こういう空間も、なくなってきている。

また、視点を変えて見るならば、歌詞が画面に字幕で表示されるのを見ていると、これは、ものづくし、というスタイルであることが分かる。古くからの日本の、芸能や文芸の一つの様式である。これの近代になってからの事例として思いうかぶのが、笠置シズ子が歌った「買物ブギ」である。

川村裕子さんの登場で、昔の平安時代のお正月のことが解説されていた。主に『源氏物語』などに描かれるお正月の風物についてだった。男踏歌、女踏歌、など『源氏物語』を読むと出てくるし、注釈はついているのだが、こういう芸能や音楽にかんすることは、どうしても、具体的にイメージしづらい。

また、『源氏物語』では、手紙(文)については、それが、どんな紙にどんな筆致で書かれたものなのか、何かに添えられていたのか、かならずといっていいほど説明がある。これは、物語だから、このように描写しているのか、実際に貴族の生活でこんなだったのか、疑問に思っているところでもある。

『源氏物語』の「初音」から音曲が作られているということは、『源氏物語』の受容の歴史、読書の歴史、という観点からみても、とても重要なことだろう。『源氏物語』は、研究史としては、本居宣長が画期となると理解していいだろうが、一般の人びとの間で、どのように読まれたりしていたのか、非常に重要なことである。

2026年1月12日記

ダークサイドミステリー「謎の未解決殺人 ブラック・ダリア事件〜黒衣の美しき花の伝説〜」2026-01-16


2026年1月16日 當山日出夫

ダークサイドミステリー 謎の未解決殺人 ブラック・ダリア事件〜黒衣の美しき花の伝説〜

これは、とても有名な事件らしい。この番組であつかうのに似つかわしいというべきだろうか。

事件そのものは、一種の猟奇殺人ということなのだろうが、それをめぐる言説の方が興味深い。

第二次世界大戦が終わった直後の、アメリカの社会は、いったいどんなだったのだろうか。凱旋した兵士たちにむらがる若い女性たち、次々から次へとキスしていりるのだが、こういう光景は、今では普通はありえないだろう。

これをフェミニズムのという視点から見れば、たしかに、この時代の問題点というのは見えてくることかとは思う。女性の教育、労働、結婚、ということについては、現代とは大きく違っている。(この番組の中では言っていなかったが、そこに「人種」の問題もからめば、さらに複雑で混沌とした様相になるだろう。)

「ブラック・ダリア」……というイメージが形成される、社会的文化的な背景については、今から考えれば、かなり問題があったといえるだろう。えてして、犯罪にあった被害者の方にも、なんらかの問題があったとされる。日本だと、「毒婦」という古めかしいことばが思いうかぶ。

事件があって、新聞でスキャンダラスに報じられると、いろんな情報が一般からよせられる。その中には、自分が犯人だ、というものもあった。手帖など送ってきているのだが、はたして本当に犯人からのものだったのだろうか。

気になったこととしては、フェミニズムの視点からのコメントとして、女性のコモディ化(モノ化)というのは、まあいいとしても、女性のセクシュアリティは女性のものである、というのはどうだろうか。セクシュアリティというのは、社会の中で、男性と女性がいて、全体の関係(その歴史と文化)の中で社会的に構築されるものである、と私は理解している。だから、ジェンダー、ということばをつかい、生物学的な意味合いでのセックスということばを使わなくなった。(そういえば、昔は、ジェンダーということばを使うときには、もともとは言語学の文法用語であって、とことわっていたものである。)

フェミニズムの視点として、女性の観点から、女性のことだけを見ていても、その時代の社会の中に生きていた人びとのこと(その中には、老若男女、性的少数者、その他のいろんな人たちがいる)が、分からないだろうと思うのだが、どうだろうか。

見てみると、ブラック・ダリア、ということでは、Wikipediaに詳細な記事があるし、いろんな本も出ている。今から、こういう本を読んでみようとは思わない。

第二次世界大戦後、太平洋戦争が終わって、アメリカは無論のこと、日本、ドイツ、ソ連、その他、世界のいろいろな地域で、人びとはどのような生活を送っていたのか、ようやく歴史のこととして語れる時代になってきたのかという気もしている。

2026年1月12日記

知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「巨大噴火が“日本人”を生んだ!?」2026-01-16

2026年1月16日 當山日出夫

知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!? 巨大噴火が“日本人”を生んだ!?

録画しておいて見たのだが、見て思ったことなど書く気になれないでいたのだが、しかし、整理のためにとりあえず書いてみる。NHKは、こんな低レベルの番組をよく作ったものだというのが、まずは思うことである。

日本人がいつから日本列島に住んでいるのか。いつの時代から日本人といっていいのか。まさに、こういう問題は、今の時代においては、根本的に考えるべきことなのだが、それをまったく考えたとは思えない。

だからといって、日本人という概念が無意味というのではない。どの時代の、どのような人びとについて、どのような規準で考えるのが妥当なのか、それは、様々にバリエーションがあり、一義的に定義できるものではない。現代の日本においても、日本人ということばは、さまざまに微妙に異なる定義が可能である。汎歴史的、汎地域的に、日本人ということがいえるということではない。

日本に旧石器時代があったことは、石器捏造事件のことがあったとしても、その後の検証で、ほぼ確実といっていいことになっているだろう。では、話しを縄文時代から始めたのは何故か。そして、その後の弥生時代以降との連続性ということで、同じ人間の子孫が日本列島に住み続けてきたということが、どの程度の学問的正確さとして言えるのか。

縄文時代の人びととのDNAの共通性ということであるのだろうが、それをいうならば、東アジアにおける日本列島をふくむ広い範囲での、人類の移動と文化の歴史の全体像の中で考えるべきことになる。これがなしに、ただ、日本列島に住んでいたというだけのことで、日本人とするのは、どう見ても問題がある。

人種ということばは最近では使わなくなっているが、縄文時代からの人種的な連続性ということが、どこまでいえるのか、そして、それは、他の周辺の地域……その中には、北海道のアイヌの人びととか、琉球の人びとをふくむ、そして、朝鮮半島は無論のこと、東アジアのいろんな地域の人びと、これらの関係はどうなっているのか。その輪郭ぐらいは明らかになっているかと思うのだが、こういうことにまったく触れないというのは、問題がある。

鬼海カルデラの火山の大規模噴火に見られるように、日本列島は、火山災害、地震災害の多い地域である。このような地域に居住するから、こういう人びとの考え方になった……一種の環境決定論になるのだが……その地域の自然環境と、歴史や文化ということとは、もっと慎重に考えるべきことである。少なくとも、『風土』(和辻哲郎)を批判的に検証するぐらいのことは、必要である。

日本人というカテゴリを認めるとして、その遺伝子が特徴がある。これは、そのとおりかもしれないが、その遺伝子があることと、個々人がどのような人間であるかということ、また、文化や社会がどのようであるか、こういうことを短絡的に結びつけることは、危険だろう。こういうことの延長には、優秀なアーリア人種、というような考え方に繋がるものであるぐらいのことは、容易に想像できる。そうではなく、ただ、確率的にそのような性格である傾向が強いというぐらいであるとしても、遺伝子と人間社会のあり方とを、どう関連付けるかは、現代ではきわめて問題であるべきとしなければならない。

日本人とひとくくりにするのではなく、日本列島に住んできた人びとの、時代による違い、地域差や、社会的階層による違い……こういうことが、歴史学、民俗学、人類学、考古学、などの研究成果として分かってきていることだと思うが、こういうことへの配慮がまったくない。

自然環境や、遺伝子から、日本人はこうである、ということは、一見すると分かりやすい科学的な説明のように見えるが、絶対にそんなことはないというのが、むしろ科学の知見を尊重するということであるはずである。科学的に、学問的に考えるということを、あまく見てはいけない。その悪い見本のような内容の番組だった。

2026年1月14日記