『砂の器』 ― 2026-01-26
2026年1月26日 當山日出夫
日曜日の昼に、BSP4Kで『豊臣兄弟!』を見たあと、BSで放送していたので、続けて見てしまった。これは、最初に映画が作られたとき(1974年)、映画館で見ている。大学生になっていたか、まだ京都にいたときか、というぐらいである。どこで見たかは憶えていない。
原作の松本清張の『砂の器』は、その前に読んでいた。映画を見て、原作とは、かなり改変してある、ということはかなり気になったところである。松本清張の社会派ミステリらしさが、弱まってしまって、非常にロマンチックに描いたなあ、という印象を持ったかと、思い出す。
半世紀ぶりにテレビで見て、この作品が、日本の映画の中でもきわめて高く評価される作品であるということに、納得がいった気がする。ミステリとしては、原作をかなり改編して、必要最低限のところだけを残して、なんとか整合性があるようにしてある。それよりも、世評として言われるように、刑事の説明(あるいは回想、あるいは想像)で描かれる、旅の巡礼の親子の姿が印象に残る。これは、今では、『砂の器』のみならず、旅の巡礼というと、なにかしらこの映画のシーンを彷彿とさせるような映像が多く作られることからも、この映画の影響力の大きさが知られる。
映画の1974年(昭和49年)、このころの一般の意識として、ハンセン病に対する偏見ということは、無くなってはいなかったというのが、私自身の過去のことを思い出して感じるところである。知識としては、治る病気である、ということは知られていたかと思うのだが、だからといって、その病気について啓蒙的な知識があったということではない。
ただ、このころ、神谷美恵子の『生きがいについて』も、一部の学生の間では、いい本として読まれていたということもある。これは、今では、Kindle版もあるので、さっそく買ってしまった。書庫には、みすず書房の著作集もあるのだけれど。
ともあれ、ハンセン病という病気のことが、多くの人に知られることになったという意味では、この映画は大きな影響があったことはたしかである。私の映画の記憶としては、憶えていることは、巡礼の親子のシーンもあるのだが、瀬戸内海の療養所に刑事(丹波哲郎)が訪れて、父親(加藤嘉)に写真を見せるシーンのことが、まず思いうかぶものとして、記憶している。
ミステリの部分については、説明的な科白もあり、また、字幕で説明することもあって、謎解き、サスペンスということでは、あまり面白くないのだが、後半の、コンサートと、旅の親子の巡礼のシーンが交錯するところで、説明的な部分は極力避けて……むしろ描いていたのは、この時代に、ハンセン病にどのような偏見があったのかということになる……この親子の身の上については、見るものの想像力に委ねているところが、映画として優れているというべきだろう。すぐれた映画は、見るものの想像力を信頼している。
差別されるハンセン病の人たちをただ描くことだけで、その偏見について考えることにつながっている、というのは、やはり勇気のいる映画作りだったと思える。
この観点では、犯人の加藤剛が、愛人の島田陽子が子どもを産むことに、かたくなに反対する理由として、自分自身がハンセン病の父親を持つということを、かなり意識してのことだったのだろうと、想像してみることになる。
どうでもいいことだが、国語学を勉強していた人間としては、いくつか気になるところのある映画でもある。
出雲方言については、映画のとおりである。映画の中で、国立国語研究所が映っていたが、この時代は、今の立川ではなく、北区西ヶ原にあったときのことになる。ここにも、若いときに、なんどか行ったことがある。方言の研究者が出雲方言について説明する背後で仕事をしていた女性が映っていたが、どうやら言語地図を作っているらしい。
警視庁での捜査会議で、「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と読んでいた。別に絶対の間違いというわけではないが、一般には正しくない読み方である。「じゅんぷうまんぱん」である。
2026年1月25日記
日曜日の昼に、BSP4Kで『豊臣兄弟!』を見たあと、BSで放送していたので、続けて見てしまった。これは、最初に映画が作られたとき(1974年)、映画館で見ている。大学生になっていたか、まだ京都にいたときか、というぐらいである。どこで見たかは憶えていない。
原作の松本清張の『砂の器』は、その前に読んでいた。映画を見て、原作とは、かなり改変してある、ということはかなり気になったところである。松本清張の社会派ミステリらしさが、弱まってしまって、非常にロマンチックに描いたなあ、という印象を持ったかと、思い出す。
半世紀ぶりにテレビで見て、この作品が、日本の映画の中でもきわめて高く評価される作品であるということに、納得がいった気がする。ミステリとしては、原作をかなり改編して、必要最低限のところだけを残して、なんとか整合性があるようにしてある。それよりも、世評として言われるように、刑事の説明(あるいは回想、あるいは想像)で描かれる、旅の巡礼の親子の姿が印象に残る。これは、今では、『砂の器』のみならず、旅の巡礼というと、なにかしらこの映画のシーンを彷彿とさせるような映像が多く作られることからも、この映画の影響力の大きさが知られる。
映画の1974年(昭和49年)、このころの一般の意識として、ハンセン病に対する偏見ということは、無くなってはいなかったというのが、私自身の過去のことを思い出して感じるところである。知識としては、治る病気である、ということは知られていたかと思うのだが、だからといって、その病気について啓蒙的な知識があったということではない。
ただ、このころ、神谷美恵子の『生きがいについて』も、一部の学生の間では、いい本として読まれていたということもある。これは、今では、Kindle版もあるので、さっそく買ってしまった。書庫には、みすず書房の著作集もあるのだけれど。
ともあれ、ハンセン病という病気のことが、多くの人に知られることになったという意味では、この映画は大きな影響があったことはたしかである。私の映画の記憶としては、憶えていることは、巡礼の親子のシーンもあるのだが、瀬戸内海の療養所に刑事(丹波哲郎)が訪れて、父親(加藤嘉)に写真を見せるシーンのことが、まず思いうかぶものとして、記憶している。
ミステリの部分については、説明的な科白もあり、また、字幕で説明することもあって、謎解き、サスペンスということでは、あまり面白くないのだが、後半の、コンサートと、旅の親子の巡礼のシーンが交錯するところで、説明的な部分は極力避けて……むしろ描いていたのは、この時代に、ハンセン病にどのような偏見があったのかということになる……この親子の身の上については、見るものの想像力に委ねているところが、映画として優れているというべきだろう。すぐれた映画は、見るものの想像力を信頼している。
差別されるハンセン病の人たちをただ描くことだけで、その偏見について考えることにつながっている、というのは、やはり勇気のいる映画作りだったと思える。
この観点では、犯人の加藤剛が、愛人の島田陽子が子どもを産むことに、かたくなに反対する理由として、自分自身がハンセン病の父親を持つということを、かなり意識してのことだったのだろうと、想像してみることになる。
どうでもいいことだが、国語学を勉強していた人間としては、いくつか気になるところのある映画でもある。
出雲方言については、映画のとおりである。映画の中で、国立国語研究所が映っていたが、この時代は、今の立川ではなく、北区西ヶ原にあったときのことになる。ここにも、若いときに、なんどか行ったことがある。方言の研究者が出雲方言について説明する背後で仕事をしていた女性が映っていたが、どうやら言語地図を作っているらしい。
警視庁での捜査会議で、「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と読んでいた。別に絶対の間違いというわけではないが、一般には正しくない読み方である。「じゅんぷうまんぱん」である。
2026年1月25日記
『八重の桜』「襄と行く会津」 ― 2026-01-26
2026年1月26日 當山日出夫
『八重の桜』「襄と行く会津」
八重と襄が、会津に行って、みねの母親であるうらと再会するということがメインであった。これはこれで、ドラマの筋としては、そうなのだろうと思って見ていた。
ただ、気になったのは、新島襄が、同志社を私立の大学にしたいという。官立の大学では、国のいうとおりのことしか教えない。しかし、私立の学校はそうではない。これは、一般的な考え方としては、そのとおりである。
だが、ちょっと天邪鬼な視点から見るならば、新島襄が、こういうことを言いだすときに、福澤諭吉が述べたことを、知らなかったはずはないだろう、と思ってしまう。ややこしい議論ではあるが、福澤諭吉は、私立であることこそが、国家の独立のために必要不可欠である、ということを言っている。
ドラマとしてどう描くかは難しいことかと思うが、明治のこのころの教育(特に高等教育)を考えるときに、福澤諭吉の述べたこと、慶應義塾の存在ということを、無視して議論することは、今日の観点から歴史をふりかえって、かなり無理があるようにも思える。(こういうことは、私が、慶應義塾大学の出身だから思うことなのかともあるけれど。)
そして、その一方で、山川健次郎が、東京の帝国大学において、明治の官立大学の枢要をになっていたということは、まったく無批判に、そのまま描いている。会津出身者が、明治の時代になって、政治からしめだされて、それ以外の分野に活躍の場を求めていったということは、もうちょっと多面的に描くことがあっていいのかとも思う。
2026年1月25日記
『八重の桜』「襄と行く会津」
八重と襄が、会津に行って、みねの母親であるうらと再会するということがメインであった。これはこれで、ドラマの筋としては、そうなのだろうと思って見ていた。
ただ、気になったのは、新島襄が、同志社を私立の大学にしたいという。官立の大学では、国のいうとおりのことしか教えない。しかし、私立の学校はそうではない。これは、一般的な考え方としては、そのとおりである。
だが、ちょっと天邪鬼な視点から見るならば、新島襄が、こういうことを言いだすときに、福澤諭吉が述べたことを、知らなかったはずはないだろう、と思ってしまう。ややこしい議論ではあるが、福澤諭吉は、私立であることこそが、国家の独立のために必要不可欠である、ということを言っている。
ドラマとしてどう描くかは難しいことかと思うが、明治のこのころの教育(特に高等教育)を考えるときに、福澤諭吉の述べたこと、慶應義塾の存在ということを、無視して議論することは、今日の観点から歴史をふりかえって、かなり無理があるようにも思える。(こういうことは、私が、慶應義塾大学の出身だから思うことなのかともあるけれど。)
そして、その一方で、山川健次郎が、東京の帝国大学において、明治の官立大学の枢要をになっていたということは、まったく無批判に、そのまま描いている。会津出身者が、明治の時代になって、政治からしめだされて、それ以外の分野に活躍の場を求めていったということは、もうちょっと多面的に描くことがあっていいのかとも思う。
2026年1月25日記
『豊臣兄弟!』「桶狭間!」 ― 2026-01-26
2026年1月26日 當山日出夫
豊臣兄弟 桶狭間!
戦国時代ドラマとしては、一つの見せ場である、桶狭間の合戦である。
歴史学、軍事史としては、現在ではいろんな説があるらしいのだが、大きな流れとしては、一般的な桶狭間の合戦ということだったかと思う。
この『豊臣兄弟!』の桶狭間の新機軸(?)としては、この合戦の勝利は、偶然的なものではなく、織田信長の作戦のうまさ、ということになっていた。たまたま雨が降ってきたのではなく、それを予見していた。今川義元の軍勢が二分することも、予定のことであった。そして、今川義元だけを標的として攻撃をしかけた。インテリジェンスをふくめて、作戦の妙、として作ってあった。
桶狭間の合戦というと、定番の「人間五十年~~」である。幸若舞である。
そして、戦場での合戦シーンが、迫力のあるものであった。『光る君へ』『べらぼう』と、合戦や戦争などとは、ほとんど関係のない時代のことをやってきたので、久々の戦闘シーンである。
ただ、気になることがないではない。
織田信長の家臣団、軍勢が、いくら小所帯とはいえ、主君の信長が、足軽になったかならないかというぐらいの、秀吉、秀長に、長々と声をかけて会話する、というようなことがあったのだろうか。しかも、秀吉、秀長という名前は、桶狭間の勲功として、信長から賜ったということになっていた。このあたりは、ドラマだから、こう作ってあるということで見ている。
雨が降れば鉄砲は使えなくなる。火縄銃は、そういうものなのだが、それを、むしろでくるんだぐらいで、防水ということはないだろうと思う。銃身の内部がぬれてしまえば、使えないはずである。どうなのだろうか。(どんな悪条件であっても使えるということで、旧ソ連で、カラシニコフが作られたということになるのだが、これは、ずっと後のことである。)
秀吉と秀長は、父親の敵討ちをたくらんでいた。秀吉が、かたきを狙って弓で射ようとしたところを、秀長がとめる。かたきはにくいが、しかし、戦闘において、あいつは役に立つ。自軍(信長軍)の戦闘能力の維持のためには、殺すべきではない(今風の言い方ではこうなるだろう)ということで、止める。戦争にあっては、軍人兵士は、生きのびることが至上命題であるが、同時に、自軍の戦闘能力を継続して維持することが、最も重要なことになる。(だからこそ、現代では、対人地雷という悪魔の兵器を生み出すことになる。これは、殺すことはあまりない。重症を与えることを目的としている。殺してしまえば、戦闘能力は一人分減るだけだが、重症をおわせれば、その救援のために、少なくとも他の二名ぐらいの戦闘能力をそぐことができる。より効果的なのである。)
これからも戦国時代とはいえ、いろんな戦闘シーンが出てくることになるかと思うが、戦場における軍人兵士の心理ということを、どう描くことになるだろうかと、ここはちょっと期待して見ているところである。
ささいなことかとも思うが、桶狭間の合戦で、信長軍が、火縄銃の斉射をおこなっていたが、この時代の火縄銃は、射程が100メートルほどだったと思うが、はたして、戦術としてはどうなのだろうか。
秀長に対して、信長が、功績ほめて母衣衆にすると言ったが、正体の知れない足軽をいきなり、こういう役職をあたえるのは、どうなのだろうかとも思う。
秀長は、褒美として銭が欲しいという。このドラマは、とにかく、銭でかたをつける、ということのようである。経済史的にいえば、銭高制ということなのだが、これが、後に検地があって、石高制に変わっていくとすれば、そこには、どういう合理的な説明がなされることになるだろうか。これまでのところ、秀長は、経済的には、きわめて近代的経済観念に通じる合理性の持ち主として描かれている。
博打の歴史は、いかさまの歴史でもあっただろう。
これまで見て、なんだかもの足りないと感じるのは、濃姫が出てきていないことかもしれない。そのかわりに、お市が、信長のそばにいる。
2026年1月25日記
豊臣兄弟 桶狭間!
戦国時代ドラマとしては、一つの見せ場である、桶狭間の合戦である。
歴史学、軍事史としては、現在ではいろんな説があるらしいのだが、大きな流れとしては、一般的な桶狭間の合戦ということだったかと思う。
この『豊臣兄弟!』の桶狭間の新機軸(?)としては、この合戦の勝利は、偶然的なものではなく、織田信長の作戦のうまさ、ということになっていた。たまたま雨が降ってきたのではなく、それを予見していた。今川義元の軍勢が二分することも、予定のことであった。そして、今川義元だけを標的として攻撃をしかけた。インテリジェンスをふくめて、作戦の妙、として作ってあった。
桶狭間の合戦というと、定番の「人間五十年~~」である。幸若舞である。
そして、戦場での合戦シーンが、迫力のあるものであった。『光る君へ』『べらぼう』と、合戦や戦争などとは、ほとんど関係のない時代のことをやってきたので、久々の戦闘シーンである。
ただ、気になることがないではない。
織田信長の家臣団、軍勢が、いくら小所帯とはいえ、主君の信長が、足軽になったかならないかというぐらいの、秀吉、秀長に、長々と声をかけて会話する、というようなことがあったのだろうか。しかも、秀吉、秀長という名前は、桶狭間の勲功として、信長から賜ったということになっていた。このあたりは、ドラマだから、こう作ってあるということで見ている。
雨が降れば鉄砲は使えなくなる。火縄銃は、そういうものなのだが、それを、むしろでくるんだぐらいで、防水ということはないだろうと思う。銃身の内部がぬれてしまえば、使えないはずである。どうなのだろうか。(どんな悪条件であっても使えるということで、旧ソ連で、カラシニコフが作られたということになるのだが、これは、ずっと後のことである。)
秀吉と秀長は、父親の敵討ちをたくらんでいた。秀吉が、かたきを狙って弓で射ようとしたところを、秀長がとめる。かたきはにくいが、しかし、戦闘において、あいつは役に立つ。自軍(信長軍)の戦闘能力の維持のためには、殺すべきではない(今風の言い方ではこうなるだろう)ということで、止める。戦争にあっては、軍人兵士は、生きのびることが至上命題であるが、同時に、自軍の戦闘能力を継続して維持することが、最も重要なことになる。(だからこそ、現代では、対人地雷という悪魔の兵器を生み出すことになる。これは、殺すことはあまりない。重症を与えることを目的としている。殺してしまえば、戦闘能力は一人分減るだけだが、重症をおわせれば、その救援のために、少なくとも他の二名ぐらいの戦闘能力をそぐことができる。より効果的なのである。)
これからも戦国時代とはいえ、いろんな戦闘シーンが出てくることになるかと思うが、戦場における軍人兵士の心理ということを、どう描くことになるだろうかと、ここはちょっと期待して見ているところである。
ささいなことかとも思うが、桶狭間の合戦で、信長軍が、火縄銃の斉射をおこなっていたが、この時代の火縄銃は、射程が100メートルほどだったと思うが、はたして、戦術としてはどうなのだろうか。
秀長に対して、信長が、功績ほめて母衣衆にすると言ったが、正体の知れない足軽をいきなり、こういう役職をあたえるのは、どうなのだろうかとも思う。
秀長は、褒美として銭が欲しいという。このドラマは、とにかく、銭でかたをつける、ということのようである。経済史的にいえば、銭高制ということなのだが、これが、後に検地があって、石高制に変わっていくとすれば、そこには、どういう合理的な説明がなされることになるだろうか。これまでのところ、秀長は、経済的には、きわめて近代的経済観念に通じる合理性の持ち主として描かれている。
博打の歴史は、いかさまの歴史でもあっただろう。
これまで見て、なんだかもの足りないと感じるのは、濃姫が出てきていないことかもしれない。そのかわりに、お市が、信長のそばにいる。
2026年1月25日記
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