『マッサン』「災い転じて福となす」「住めば都」2026-01-18

2026年1月18日 當山日出夫

『マッサン』「災い転じて福となす」「住めば都」

優子さんも、かなりのいけずではあるが、(まあ、この時代の女性としては、そう思ってもしかたないかと思えるが)、最終的には、エリーの味方になって、ご飯の炊き方を教えてくれる。ただ、マッサンとエリーの二人だけの生活を考えると、どう見ても、出てくる釜で一杯のご飯を炊くのは、多すぎると思える。

マッサンとエリーは、住む家を探すことになるが、エリーが外国人というだけで断られるということもある。こういうことは、かなり深刻な問題であったかとも思うし、(現代の日本でも、まだ、こういう問題はあるのだが)、キャサリンの登場で、うまくことが収まった。都合良く話しがすすみすぎるという気もしなくはないが、まあ、こういうことであってもいいと思う。

キャサリンは、プロテスタントの牧師さんの奥さんという設定になっている。この時代として、外国人のエリーに、わけへだてなく接してくれる人物としては、このような人物がふさわしいともいえる。

マッサンは、ウィスキーの実験を開始する。なんとか、蒸留の試験までたどりついたのだが、これが、会社のビジネスになるかどうかは、まだ問題が残っている。

2026年1月16日記

『どんど晴れ』「真実の思いやり」2026-01-18

2026年1月18日 當山日出夫

『どんど晴れ』「真実の思いやり」

この週のメインの筋は、夏美と彩華の、加賀美屋での競争。まあ、最終的には、夏美が勝つということになるのだろうと思って見ているのだが、彩華は、ライバルとしては、なかなか手強そうである。彩華の存在もあるが、加賀美屋のスタッフが、次の若女将候補として、夏美派と彩華派の二つに分かれてしまっている。わかりやすい構図ではあるのだが、しかし、そのためか、人間を描くことの深みがなくなってきている。こういう方針で作ってあるドラマといえば、それまでである。

また、ナレーションで、登場人物の気持ちをはっきりと説明してくれるのは、分かりやすいドラマになっている一方で、なんだか、つまらなくもある。(さすがに、カメさんの気持ちまでは分からないということであるが。)

ハクサンチドリのエピソードから、柾樹が、加賀美屋に帰る決意をすることになっていた。このあたりのことも、柾樹は、せっかくホテルに勤務しているのだから、横浜のホテルとしての接客業から、いろいろと考えること……おもてなしであったり、宿泊業ビジネスであったり……があってもいいと思うのだが、ほとんど、そういうことは出てきていない。

2026年1月17日記

『ばけばけ』「マツノケ、ヤリカタ。」2026-01-18

2026年1月17日 當山日出夫

『ばけばけ』「マツノケ、ヤリカタ。」

この週から、松野家(もちろんヘブン先生をふくむ)が、新しい家にひっこして、新しく一緒の生活がはじまる。

まず、おトキの着物が良くなった。武家の家の奥さんという感じになった。

これまで、天国長屋に住まいしていたときは、おトキの着物を見ると、ちょっと丈が短いかな、足首が出過ぎているかなという印象があったし、また、おトキは、冬でも(松江で記録的な寒さであったが)裸足だった。それが、この週で、ヘブン先生と一緒になって暮らし始めてからは、着物が良くなっただけではなく、丈が長くなった(足首が見えなくなった)。そして、足袋をはいている。

これは、この週になって着ているものが変わり、足袋をはくようになる、ということが、あらかじめ設定としてあって、その前の暮らしということで、貧乏な没落士族の生活を表現するための、おトキの衣装と裸足の足だった、ということになる。これからの熊本編のことが発表になっているが、少なくとも、松江が舞台になる部分については、あらかじめきちんと計画しての脚本と演出であったことが分かる。(このあたりは、途中で迷走することのあった過去の朝ドラとは、大きく違っているところである。)

ヘブン先生の着ている浴衣も、先週までは短いものだったが、この週からは身長にあったものに変わった。

再放送がはじまった『マッサン』も見ているので、どうしても比べるところがある。外国人との結婚ということで、日本に住むようになって、いろいろと苦労すところがある。また、それを受け入れる側の日本の人びとの反応をどう描くかということもある。

ヘブン先生は、正座ができる、小骨のあるお魚も大好き……と、新聞に書かれる。今も昔も、新聞とは無責任なものである。

日本人らしい生活ができるかどうか、ということが、外国の人が日本にやってきて、日本の生活になじめるかどうかの、試金石のようになるのは、いたしかたないことだろう。こういうことがある、ということを一概に否定することはできないと思う。

私が見て問題かなと思ったのは、正座という座り方は、どう考えても日本古来の伝統というものではない。これは、歴史学などの常識的知識だと思っている。正座が普通になるためには、すくなくとも、家の中が畳敷きの部屋が基本になり、座布団などが一般に使われるようになってからのことであるはずである。どう考えて見ても、江戸時代以降の上層身分の人たちにおいてでないとおかしい。そのスタイルが、近代以降になって広く普及した。

大河ドラマの『麒麟がくる』で、女性の登場人物が立て膝で座る演出をしていたのだが、これが不評であった。しかし、歴史的な考証としては、室町時代のことなら、女性は立て膝で座るのが普通である。(こんなことは、常識だと思っていた。)

『ばけばけ』の時代、明治の20年代の松江だったら、畳敷きの座敷がある家屋というのは、武家屋敷か、上層町人の住まいぐらいだっただろう。川の向こうの天国町の長屋で、畳敷きの部屋があるという設定も、どうかなと思うところである。

だが、ここは、現代の通念にしたがって、日本人は座るときに正座するものである、というイメージで作ったことになる。これを特に批判しようとは思わないが、こういうことは、いわゆる「創られた伝統」というべきものであるとは思っておくべきである。

相変わらず長屋に住んでいるおサワが、おトキのもとを引っ越し祝いに行く。花を持っていくのだが、おトキの家に立派な花瓶に綺麗な大きな花が活けてあるのを見て捨ててしまう。おサワは、おトキが別世界に行ってしまったと感じる。二人が別れるとき、橋を渡ったところで、おサワが行ってしまい、おトキは橋を渡りきらずに取りのこされる。これは、うまい演出である。橋は、ある世界と、別の世界をつなぐ通路である。民俗学的にいえば、こういうことは常識的な知識である。天国長屋とおトキの新しい松野の家は、川を渡らなければいけない。川の向こうに行ったおトキ、残されたおサワ、これをはっきりと象徴することになっている。

だが、おサワも、小学校の先生であり、この時代であれば、十分な社会的地位のある女性といっていいと思える。しかし、給料は、まったく桁が違う。二桁違うぐらいである。つまりは、御雇外国人教師であるヘブン先生が、いかに高給をもらっていたか、ということになる。(その後、熊本に行って倍になり、東京に行ってさらに倍になる。)

ヘブン先生は、錦織と中学で話しをしているとウソをついて、実は、山橋薬舗に行っていた。それを、おトキは見つける。このなりゆきも面白い。新しくやとった人力車夫が、いわくありげな人物なのだが、おトキに話しをしてしまう。

山橋薬舗は、西洋料理の店をやっていて、ヘブン先生は、そこで食事をしていた。おトキは、ヘブン先生に、なぜウソをついていたのかと問い詰める。

ヘブン先生は、つかれた、と答える。日本人らしくあることを期待されることに疲れる。それはそうだろうと共感する。おトキとしては、本当のことを言ってほしかった、ヘブン先生の気持ちに気づかなかった自分も悪いと思う。ヘブン先生としても、松野家の家族のことを思って、本当のことが言えなかった。

ヘブン先生は、ギリシャで生まれたのだが、母親と幼くして別れている。このことは、県知事や錦織の前で話したことである。しかし、おトキたちは、知らなかったことでもある。(これまでの展開を見ると、ヘブン先生は、自分の過去のことを、すべておトキに語っているということは、なかったと思う。このあたりのことは、微妙かなとも思うが、どうだろうか。)

ともあれ、ヘブン先生にはその過去のことがあり(生いたちからのことであり、マーサとの結婚のこともある)、同様に、おトキは過去のことがあり(雨清水の家のことであり、銀二郎のことである)なのだが、松江で一緒に生活するようになったからには、それぞれの生活習慣や好みを尊重して、仲よく暮らすようにする……こういうところを、おとしどころとして作ってある。これはこれで、このドラマの作り方としては、理解できるし、上手く作ってあると感じるところでもある。

簡単に、愛し合っていればそれで何でも克服できる、という安直な作り方になっていないということは、私としては、評価したいところである。

山橋薬舗での食事のことから、小泉八雲が使っていた机(目の悪い八雲のために特注で作った、高さのある机)のことが、自然な流れでつながっていた。

金曜日になって、おトキはようやく、ヘブンさん、と呼ぶようになった。そして、おそらく、朝ドラの中では、最も印象に残るキスシーンでもあった。

2026年1月16日記