『マッサン』「住めば都」「破れ鍋に綴じ蓋」2026-01-25

2026年1月25日 當山日出夫

『マッサン』「住めば都」「破れ鍋に綴じ蓋」

マッサンは住吉酒造で、ウイスキーの研究をすすめる。その作り方は、スコットランドでの留学で身につけてきただが、日本で作るには、まず製造設備からととのえないといけない。それには、かなりの先行投資が必要になる。しかし、ウイスキーができるのは、熟成期間があるから、蒸留してすぐに出荷することはできない。かなりの資金が必要になる。ウイスキーを作る前に、まずは金策からである。

ウイスキー作りにうちこむマッサンは、家のことをあまり考えない。昔ながらの男性として、家のことはエリーにまかせている。しかし、そのエリーも、日本の生活のことをあまりよく知らない。ご飯が炊けない。それを近所の人たち、なかでもキャサリンが助けてくれるし、なによりも、はじめは敵対的だった優子さんが、エリーに対して、非常に協力的である。

住吉酒造は、経営が思わしくない。太陽ワインが売れない(爆発するかもしれないと忌避される)。

エリーは、優子さんが、見合いして結婚しようとすることが、理解できないでいる。このあたりの描き方は、難しいところである。実際に、日本の結婚の方式が、恋愛結婚が主流になるのは、これから後、太平洋戦争の後になってかなりたってからである。だが、恋愛ということの理念だけは、大正時代もあった。

愛し合っていれば大丈夫……とは言うのは簡単だが、実際に、外国人との結婚となると、いろいろとトラブルがあったことはたしかだろう。でも、最終的には、マッサンとエリーで、日本でウイスキーを作ることに成功することは、分かっていることなので、あまり心配しないで見ていられる。

2026年1月23日記

『どんど晴れ』「二人の誓い」2026-01-25

2026年1月25日 當山日出夫

『どんど晴れ』「二人の誓い」

この週で、横浜のホテル勤務だった柾樹が、盛岡の加賀美屋を継ぐということで、帰ってくる。

ここまで見てきて気になるのは、柾樹がホテルに勤めていても、イベントの企画ばかりをやっていて、ホテルの経営とか、あるいは、現場での接客ということに、まったくかかわっていないということがある。こういう柾樹が、加賀美屋にもどって、旅館経営にかかわるとして、ホテルでの仕事の経験が、どれぐらい意味のあるものなるのだろうか、あるいは、そうではないのだろうか……どうも、こういうところが気になっている。

柾樹が帰ってくるとなって、環や伸一たちは、気が気ではない。見ていると、加賀美のこのファミリーのことの方が、夏美と柾樹とのことよりも面白い。

2026年1月24日記

『ばけばけ』「カワ、ノ、ムコウ。」2026-01-25

2026年1月25日 當山日出夫

『ばけばけ』「カワ、ノ、ムコウ。」

ヘブン先生とおトキの結婚が、新聞で報じられ、その生活のささいなことまでが記事になる。「ヘブン先生日録」として連載である。松江の有名人になってしまった松野家は、外に買物に自由に出ることもできなくなってしまう。小新聞ネタではあるが、影響力は大きかったらしい。

実際、当時の松江の街で、外国人は珍しかっただろうし、ドラマとしては、かなり誇張してあるのかなとは感じるところもあるが、コメディとしてとても面白い。シジミも手軽に買うことができない(貧乏だったときは、おトキがシジミを売って歩いていたこともあった)。たかが箸のことで、たくさんの人が押し寄せる。(ヘブン先生の家で女中をやとってもいいことなのかもしれないが、そうしていないことで、松野家のとまどいぶりが際立っている。)

さりげないことなのだが、この週で、おトキは、松野トキ、と呼ばれている。明治の20年をすぎたころで、まだ明治の民法のできる前である。戸籍の制度はあったが、実際の人びとの婚姻についての意識や習慣というのは、古くからのものを残していたと考えていいだろう。つまり、この時点であれば、おトキは、松野トキ、であっても不自然ではない。

かなり後のものになるが、森鷗外の『渋江抽斎』を読むと……これは大正になってから書かれたものになるが……渋江抽斎の妻のことを、一貫して、岩田氏縫、と書いている。妻の実家の名字を名乗るのが普通であったし、その出自が重要でもあったことになる。

以前の『虎に翼』で、女性が結婚して名字が変わることを、非常に理不尽なこととして描いていたが、そういうことが一般に定着するのには、かなりのタイムラグがあったことになる。江戸時代から明治にかけて一般にどうであったかということと、法律の上でどうだったかということ、これは別のことなのだが(特に、婚姻についての習慣については)、杓子定規に法律どおりに人びとが従っていたとしたのは、かなり無理のある脚本だった。(要するに、ものを知らないし、考えもしない脚本だったことになる。)

戸籍の制度ができて、日本の国民が名字をもつようになってから、まだ一世代もたっていない。古くからの意識を持っていた人が多くいるのが、普通である。

この観点でいうと、遊廓のなみは、名字がない。おそらく、名字をもたない社会階層の出自ということでいいだろう。それに対して、おサワは、野津サワ、と名字がある。名字を持つ社会階層であったことになる。ささいなことかもしれないが、こういうところで、なみとサワの違いが表現出来ていると、私としては思って見ている。

なみは身請けされる。これは、遊女であるなみにとっては、このうえない幸せなのだが、ちょっと待ってほしいという。これまでの、なみのかなり不幸な境遇を思ってみると、おそらく、男性の客から、惚れていると本気で言われたことがないのだろう。遊廓のなかでの口説き文句ではあったかもしれない。しかし、本気で男性の気持ちを受けとめることが出来ない、ということでもある。最終的には、身請けされて遊廓を出ることになる。

おサワは、山橋薬舗の二階にある白鳥倶楽部で勉強している。今は、非正規採用の教員だが、試験にうかって、正規の教員になりたいと思っている。長屋の家には、病気で寝込んでいる母親がいる。

この時代、没落士族の生活はどんなものだったのだろうと思う。最悪の場合は、女性の身売りということもあっただろう。これも、ドラマの中では、雨清水家のおタエ様のが物乞いになったということもあった。おそらく、おサワのように代用教員であっても、教師として働く場所があって、長屋とはいえ住む家がある、というのは、まだ恵まれていた方かもしれないと思う。

松江の街にも、貧民窟というべきところがあったかとも思うが、そういうところまでは、朝ドラの中で描くことはない、こう理解していいだろう。

現代風にいえば、おサワは、おトキに対してコンプレックスをいだいている、ということになる。おトキが、一躍、有名人になり、生活も豊かになった。立派な武家屋敷に住んで、西洋料理を食べる生活である。それに比べて自分は、という思いなのだろう。この感情は、嫉妬といってもいいのだが、その気持ちを、そう悪い印象では描いていない。むしろ、おサワには、おサワの日常の生活があり、なんとか、そこから抜け出したいと思う頑張る女性というイメージになっている。

おサワは、名字をもっている。その名字を背負って生きていかなければならない。ここは、遊廓を出ることを決意できたなみと、決定的に違うところかもしれない。

おトキとおサワの違いをはっきりと印象づけるのが、金曜日の最後のとこのスキップである。おトキも、はじめはスキップができなかった。しかし、ヘブンさんと気持ちが通い合うようになって、スキップができた。スキップは、おトキとヘブンさんと仲よくなれたことの象徴になる。おトキが、長屋の子どもたちとスキップする声と足音を、おサワは家の中で聞くだけである。おサワは、スキップができない。これまでにも、しようともしていない。

錦織は、中学の校長になるように、県知事から要請がある。これまでに錦織の過去については、あまり明らかになっていない。今の、松江の中学で教員になるまでに、いろいろとあり、それには、江藤県知事もかかわっているようなのだが、その事情については、これから分かってくることなのだろう。

おトキとヘブンさんが、一緒に散歩していて、道ばたにお地蔵さんを見つけて、並んでしゃがんで拝むというシーンがあった。特に、ドラマの筋とは関係のないようなことなのだが、こういうことを自然にできる生活の感覚ということは、今の社会が失ってしまったものかとも思う。

週のはじまりで、キジバトの鳴き声、テテポッポッポ、カカポッポッポ、これだけで芝居になっているのは、見ていてとても楽しい。

白鳥倶楽部というと、「みにくアヒルの子」を思ってしまうのだが、どうなのだろうか。ここに集まっている人は、なにがしか社会の中での向上を目指していて、そのために勉強し、資格を得ようとしている。いわば、能力主義、といいうことになる。

このドラマでは、これまで、あまり学校教育、近代になっての教育ということを描いてこなかったが、これからどういう方向にいくのだろうか。史実としては、小泉八雲は、この後、熊本の五高に行き、さらに、東京で帝大で教えることになる。日本の近代の教育にふかくかかわってもいる。

おサワは、小学校の代用教員である。天国長屋でスキップしている子どもたちは、小学校には行っていないようなのだが、こういうことは、ドラマの中では問題としてはあつかっていない。これはこれで、一つの方針だと思う。

2026年1月23日記