「沁みる夜汽車 2024結」2024-04-16

2024年4月16日 當山日出夫

沁みる夜汽車 2024結

こういう番組もあっていいと思って、見ることにしている。

鉄道にまつわる物語というのは、何かしら郷愁をさそうものがある。今、鉄道は厳しい。経営的になりたたなくなってきている。北陸新幹線の延伸が話題にはなっているが、しかし、全体としてみれば、鉄道をとりまく状況は楽観できるものではないだろう。

私が憶えているのは、子どものころの京阪電車の運賃(子ども)が一〇円だったこと。それから、京都の市電(まだ、市電が走っていた時代である)の運賃が二五円だったこと、などであろうか。はじめて新幹線に乗ったのは、大学の受験で東京に行くときだった。

苦しいときは人に頼っていい。誰か助けてくれるはずだ……現実には、そううまくいくとは限らないかもしれないが、しかし、そのような人の世のあり方を切望するということも、また人間のこころのあり方である。それが古き良き時代への郷愁なのか、あるいは、新たな時代のコミュニティなのか、人によって思うところは異なるかもしれない。

秋山とも子の絵本は、今でも売っている。これは買っておきたいと思う。

2024年3月28日記

ドキュメント72時間「大阪 24時間の格安スーパー」2024-04-16

2024年4月16日 當山日出夫

ドキュメント72時間 大阪 24時間の格安スーパー

先日、放送した大阪のコインランドリーの回もそうだと思うのだが、このような企画から見えてくるのは、都市に住む人びとの生活、ということになるかと思って見ていた。

天神橋の商店街のなかだから、オフィス街というのではないが、かといって郊外の住宅地というのでもない。雑多な都市の一画である。そこは多くの人びとの生活の場所でもある。まあ、この商店街は、規模の大きな商店街として知られているところであるので、大阪の都市部においては、人口の多い地位かかなとは思うが。

二四時間営業というスタイルも都市部ならではのものだろう。

都市部のなかで普通に暮らしている人びとの生活の一端が垣間見えるという感じであった。この店に買い物にくる客の多くは、徒歩か自転車のようだ。それだけの範囲のお客でやっていけるというのは、それなりに多くの人が居住していることになるだろう。

玉出というスーパーのことは、関西のニュースでは時々出てくるので馴染みがある。(行って買い物をしたという経験はないけれど。)

たまたまそういう編集にしたということなのかもしれないが、登場していた人は、年配の人が多かったように感じる。都市部における住民の高齢化という問題がそこにはあるのかもしれない。

2024年4月14日記

ザ・バックヤード「横手市増田まんが美術館」2024-04-15

2024年4月15日 當山日出夫

ザ・バックヤード 横手市増田まんが美術館

秋田県にマンガのミュージアムがあることは知っていたが、どんなものかは知らなかった。

「ゴルゴ13」の原画がすべて残っているというのはすごい。

まず思ったことは、素朴な疑問なのであるが、なぜマンガの原稿が残っているのだろうか。作者から、編集者、出版社に渡された原稿は、印刷された後、どうなってしまうのだろうか。常識的に考えれば、残らないと思うのだが、それが残っているということは、マンガ業界における何か特有の慣例でもあるのだろうか。

紙の資料を残すことについて、中性紙の箱にいれて保存するというのは当然のことである。ここでは、それが徹底している。また、温度、湿度の管理も厳重である。

見ていてちょっと気になったこととしては、原画に触れるとき、マスクをするのはいいとしても、手袋をするのはどうなのだろうか。これが、古文書や古典籍などの場合だと、手を洗って素手で触るのが基本なのであるが。現代の紙の資料では、あつかいが異なるということでいいのだろうか。

それから、マンガの原画を残すといっても、最近の作家は、デジタルで描いていると思うが、このような場合、そのデータを残すということになるのだろうか。できれば、その時に使用した機材なども残しておくと、将来的には貴重なものになるにちがいない。

マンガの原画は確かに貴重であることは言うまでもないのだが、しかし、漫画家はそれが印刷され雑誌などに掲載されるときのこともイメージして描いているはずである。読者が見るのは印刷されたものである。では、マンガにとって、どちらが本物ということになるのだろうか。

このような議論は、小説のような分野においても、自筆原稿と雑誌掲載、単行本、などの各種のテクストをめぐっておこる問題でもある。

マンガの原画の保存については、文化庁もかかわっている。まあ、たまには文化庁もいいことをやっている、と考えるのは天邪鬼にすぎるかもしれないが。

2024年4月12日記

『光る君へ』「おごれる者たち」2024-04-15

2024年4月15日 當山日出夫

『光る君へ』第15回「おごれる者たち」

まひろが「琵琶行」を写本する場面があった。カタカナで送り仮名はほどこされていたが、朱のヲコト点はなかった。さあ、平安時代のなかごろの漢文訓読のありかたとして、どうなのだろう、とは思うところである。「琵琶行」という作品の選択は間違っていないと思うけれど。

石山寺に行って、『蜻蛉日記』の作者である道綱の母と出会うシーンがあったが、まあ、このようなことがあってもいいかなとは思う。ドラマの筋としては、このあたりから、まひろは文学を書くことで自分を表現する道を見つけるということになるのだろう。『蜻蛉日記』が、同時代にどう読まれたかということは謎の多いことかと思うのだが、ここはドラマとして見ておくことになる。

弓の場面、見ながら、さてこのエピソードはどの本にあったかと思っていたのだが、調べるのが面倒なので、そのままである。歴史の結果は、道長の予言通りということになる。

石山寺の参籠のときに、道綱が女性のもとにやってくる。さて、神社仏閣の参籠中にことにおよんでいいのか、という気もあるのだが、どうだろうか。しかし、相手を間違えてしまう。説話、物語なら、このような場合、いきおいで関係をもってしまうということが多いのだが、このドラマでは間違いに気づいて踏みとどまった。

中宮の歳費というのは、公的な支出か、私的な支出か(その場合、その実家の負担ということになるのだろうが)、このあたりのことは歴史学で、どう考えることになるのだろうか。

嫡妻ということばは、この回で初めてでてきたように思う。平安時代の貴族の婚姻制度については、さまざまな研究がある分野だと思っているが、このドラマでは、嫡妻、妾、その他の女性、ということになるのだろうか。

清少納言が定子の女房になった。定子は美しい。笛を吹く一条天皇とのシーンは良かった。定子のサロンは、さぞ花やかなものだったろうと、『枕草子』などから想像してみることになる。次週は、「香炉峰の雪」のことが出てくるらしい。楽しみに見ることにしよう。

2024年4月14日記

フロンティア「旧約聖書 滅亡の街の真実」2024-04-14

2024年4月14日 當山日出夫

フロンティア 旧約聖書 滅亡の街の真実

シュリーマンの『古代への情熱』を思い出す。

まだ、仮説の段階というべきなのだが、しかし、面白い。文献資料、史料から様々な自然現象を読みとることができる。地震や天体の現象など。そのなかに隕石の衝突も可能性として考えられることになる。

エンジニアをやっていて、それがスカウトされて発掘の調査団に加わる、という経緯も興味深い。この発掘の調査団は、いったいどういう組織になっているのだろうか。

考古学という研究分野は、学際的な研究領域であることが重要かもしれない。人文学、歴史学、人類学の一部であったかと思うのだが、近年では、さまざまな科学的な調査が行われるようになってきている。人骨からのDNA調査などはその代表かもしれない。

旧約聖書に書かれたような隕石衝突が、将来ふたたび起こるかもしれない。現にシベリアでは、数十年前に起こっている。

文献史学と、考古学と、科学的研究の融合した研究領域は、これからも進んでいくことだろうと思う。

2024年4月8日記

『虎に翼』「第2週「女三人寄ればかしましい?」2024-04-14

2024年4月14日 當山日出夫

『虎に翼』第2週「女三人寄ればかしましい?」

この週で描かれていたことは、既存の概念をうちやぶって新しい道をきりひらこうとした女性たち、その先駆的な活動……というようにとらえることが可能だろう。世評としても、ドラマのなかで出てきた裁判の判決について、きわめて肯定的にとらえるものが多い。だが、これは、そのように世の中の視聴者が反応することを見越した上での脚本であり演出であるとは思うが。

たしかにこの時代、女性の権利は制限されたものであった。

だが、女性に対して男性が優遇されていたかというと、かならずしもそうばかりとはいえない。男性の普通選挙が制度として決まったのは、一九二五年(大正一四年)である。このドラマは、昭和七年のことになっているはずだから、その数年前まで、男性でも選挙権のない人びとが多数を占めていた。

それよりも気になるのは、旧・民法をあまりに否定的に見ていることである。明治になって民法が制定されたが、それは明治二九年~三一年のことになる。明治になってしばらくして、ようやく憲法が作られ、各種の法律と制度が整備されていったことになる。それらは、その当時の世界の法や制度と照らして、はたしてどんなものであったのか、このことを歴史的に考えてみる視点も重要だろう。

現在の価値観からすれば、旧弊であると言えるかもしれないが、それを、江戸時代の名残の多くのこっている時代に、なんとか近代的な法制度を作っていった先人たちの努力と工夫について、思いをめぐらせる必要もあると私は思う。(たぶん、このような視点は、このドラマでは出てこないかと思うが。)

近代になって、突然に近代市民社会が成立したということではない。江戸時代から、日本に住む人びとは、いったいどんな暮らしをしてきたのか、例えば婚姻制度についても、実際はどのようであったのか、歴史人口学とか民俗学などの知見が重要になってくるにちがいない。強いていえば、民法の規定にそう書いてあるからといって、普通の日本人(この場合、法の規定のもとにあるので日本人といっていいと思うが)が、現実にどのように結婚し、生活し、あるいは、離婚していたのか、これはまた別の問題があるはずである。法律にそのようにあるから、その当時の人びとがそのような生活をしていたと考えるのは、ちょっと短絡的である。

法廷に正解はない、と言っていた。だが、その一方で、法の安定性ということも重要である。裁判の傍聴席に誰がいるかということで、判決が異なるようなことはあってはならいだろう。そして、何よりも、日本国民が等しく法のもとにあるという意識が、近代になってから、どのように形成されてきたのかという観点も需要であろう。

ところで、このドラマでうまいと思うのが、教室で座る席。よねは、一番前に座っていた。長年、教師稼業をしてきたから(もうリタイアすることにしたが)感じることかもしれないが、おおむね教室の一番前の席に座る学生というのは、何かあつかいにくいところがある。だいたいできる学生は、寅子の座るような位置に座ることが多い。

水之江瀧子という名前を久しぶりに目にした。私の世代であれば、なんとか憶えているかと思う。

寅子の同級生仲間もいろいろと事情をかかえているようである。次週、どうなるか楽しみに見ることにしよう。

2024年4月13日記

アナザーストーリーズ「連続企業爆破事件〜見えない敵との闘い〜」2024-04-13

2024年4月13日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 連続企業爆破事件〜見えない敵との闘い〜

東アジア反日武装戦線という名称ははっきりと憶えている。『腹腹時計』も名前を憶えている。この事件の当時、私はまだ京都にいた。大学生になって東京に出るのは、その翌年のことになる。家のテレビで、この事件の報道を見ていたことを記憶している。

この事件のことを、NHKのどの番組でどのようにとりあげることになるのか、これも、今日の視点としては、興味のあることである。今年、桐島聡が死亡したことをうけて、特集番組があってもよかったのかもしれない。「アナザーストーリーズ」は、このごろ非常に面白い企画で番組を作ることがある。(去年だったか、阿部定をとりあつかっていたことがあった。そのとき、大島渚が『愛のコリーダ』を撮ったとき、まだ生きていたのだということに驚いたものであった。このことは、番組では言っていなかったが。)

ただ、事件の当時の記憶としては、犯人たちの主張を肯定する意見もあったかと記憶するが、どうだったろうか。日本は、戦後の復興をはたしたが、アメリカと結託してベトナム戦争に加担し、世界の国々に経済的な侵略を行っている……このような主張が、堂々となされていた時代でもあった。また、たとえば、毛沢東が礼讃されていた時代でもあった。

警察の公安部の仕事はあまり表に出ることはない。しかし、そのような組織があり活動があることは、知られていることだろう。今日でも、警察のこのような活動をこころよく思っていない人たちもいるけれど。

よく犯人をつきとめたものだと思うが、また、その一方で産経新聞の記者たちの働きもすごい。まあ、今ほど、ジャーナリズムに厳しい倫理的な規範が求められる時代でもなかったし、警察への取材もおおらかであったということになる。

テロ事件の被害者の視点から事件を語るというのは、やはり今の時代ならではの番組の作り方だと思う。

番組の最後で言っていたこと……つかまった犯人たちのうち、死刑が確定し行われたのは一人だけ。まだ、行われていない犯人もいる。また、超法規的措置で日本を出国したものもいる。この事件はまだ終わっていない、と。

さて、この超法規的措置となった事件はどんなものだったのか、私の年代なら記憶していることだが、若い人は知らないだろう。今日の視点からふりかえるとどう思うことになるだろうか。あるいは、日本の現代史における失敗事例……テロに屈した……ということになるだろうか。

2024年4月9日記

「シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (6)「慈悲の実践」」2024-04-13

2024年4月13日 當山日出夫

こころの時代 シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (6)「慈悲の実践」

批判的に見ようと思えばいくらでも言える。特に、思想史、文献学、歴史学の立場からするならば、かなり粗雑な議論であるだろう。だが、そんなことは、安満利麿は十分承知の上で語っているにちがいない。それは、最終回で、高木顕明のことについてふれたことからも、そうであると思う。

念仏とは呪文ではない。また、個人のなかにとどまるものではなく、社会的な実践をともなうものでもある。このこと自体に異論はない。

だが、それが宗教のすべてである、と言っていいかとなると、問題を感じないではない。また、仏教=親鸞=歎異鈔、という結びつけは、どう見ても強引にすぎるところがあると感じざるをえない。

余計なことかと思うが、ベトナム戦争のときのことを持ち出してくるのは、やはり生きてきた時代を感じるところがある。ここもあえて天邪鬼に批判的に見るならば、ベトナム戦争は、軍事力の戦いだけではなく、イデオロギーを背景にしたプロパガンダの戦いでもあった。ベトナム反戦運動についても、今日の観点からは、絶対平和主義だけではなく、多様な見方が可能であるかと思う。

仏教も、浄土思想も、そのおかれた歴史的な背景のなかで成立し、人びとに信仰されてきたという側面から考えてみることも、大切なことだと私は思う。そのうえで、なお普遍的な価値として何を見出すことができるか、ということである。そして、経典、啓典は、常に時代の流れのなかで読み継がれ、再解釈されていくものである。

2024年3月18日記

100分de名著「フロイト“夢判断” (2)夢形成のメカニズム」2024-04-12

2024年4月12日 當山日出夫

100分de名著 フロイト“夢判断” (2)夢形成のメカニズム

なぜ夢を見るのかということも興味があるが、それよりも、なぜ夢は憶えていないのだろうか、ということも非常に関心がある。

私は、夢は見るけれども、後まで憶えているということはない。起きてすぐに忘れてしまっている。憶えておこうと思っていても、忘れている。これは、なぜだろうか。単なる記憶力の問題ではないはずである。夢に見た内容だからこそ、記憶しないでおこうというメカニズムがどこかで働いているのかもしれない。

たぶん、夢というものの本質は、それを長く記憶にとどめないということと無関係ではないはずである。このあたりのいきさつについて、フロイトがどう考えていたのか、また、現代の精神医学などの分野ではどう考えられているのか、もうすこし掘り下げて解説してくれるところがあってもよかったかと思う。

それから精神分析の限界、という問題。これは、現代社会においては重要な課題であるにちがいない。無意識というものがあるとしても、それはどこまで解明可能なのだろうか。また、人間というものは、無意識の世界から独立して、完全に自己決定の意志を持てるものなのか、というあたりもさらなる論点になるところだろう。

2024年4月9日記

時をかけるテレビ「世界の科学者は予見する 核戦争後の地球」2024-04-12

2024年4月12日 當山日出夫

時をかけるテレビ 世界の科学者は予見する 核戦争後の地球

一九八四年の放送である。この番組を見たという記憶はないのだが、「核の冬」ということばは、そのころ広く使われていたことは憶えている。

こういう番組を見ると、ジレンマを感じるというのが正直なところである。

核兵器の残酷さ、それが使用されたときの恐怖というものを強調すればするほど、それを所有したい、(使うことはないかもしれないが)敵対する相手国に対して恫喝の材料にしたい、このように思う、国家の指導者というのが、存在することになる。

今、現に核開発に突き進んでいる国がある。北朝鮮であり、あるいは、イランも含めていいだろうか。これらの国に対して、核兵器はこれだけ危険だから持つな、と説得力を持って言えるだろうか。むしろ、実際には、これほどの兵器ならば自分たちも持って、敵対する国……アメリカなどということになるが……に対抗したい、そう思うかもしれない。いや、おそらくはそう思うだろう。

究極の理想として核兵器の廃絶という理念を否定するものではないが、それだけではなく、現に存在する核兵器の厳格な管理、コントロールという現実的な施策について、着実な議論が必要であると思っている。(こういう議論は、一部の理想主義者からは嫌われることかもしれないが。)

今から四〇年ほど前に核戦争の脅威があったことになるが(それは今でも消えたわけではないけれど)、新たな問題として地球温暖化問題がある。とも共通することは、未来の人びとに対する責任ということになる。

今生きている人間の未来に対する責任、ということを考えなければならない。それには、今ある人びとの暮らしは、先人たちの努力のたまものであるという基本的な歴史教育が必要である。これは過去を礼讃することではない。過去からつながる営みのうえに今の暮らしがあることを実感できないところに、これから先の未来の人びとのことを思いやる気持ちは生まれないと考えるのである。

2024年4月11日記