ウチのどうぶつえん「アリかナシかでいったら アリクイ」2023-12-31

2023年12月31日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん アリかナシかでいったら アリクイ

江戸川区の動物園のことは知らなかった。こんど東京に行く機会があったら行ってみたい。

アリクイのことだった。赤ちゃんが生まれて、それをおんぶして育てるということはとても面白かった。たしかに野生においても、この行動の意味はあることになるのだろう。

小さな動物園なので、ゾウとかはいないようだ。だが、アリクイも、絶滅危惧種として飼育、繁殖をこころみる価値はあることになる。これは動物園のあり方としても、いい判断なのだろうと思う。

寝るときの姿が可愛い。尻尾を体の上に布団のようにかけて眠る。子どもは、母親の尻尾の布団の中に入る。

アリクイのためにエサの蟻を用意するということは難しいのかと思う。これは人工的な飼育下であれば、いたしかたないことであろう。

2023年12月30日記

こころの時代「小さきものの声を聞く〜思想史家・渡辺京二の遺言〜」2023-12-31

2023年12月31日 當山日出夫

こころの時代 小さきものの声を聞く〜思想史家・渡辺京二の遺言〜

今年の一月の放送の再放送。

渡辺京二のことを意識するようになったのは、『逝きし世の面影』が平凡社ライブラリーで刊行になったときだったかと憶えている。いくつか渡辺京二の本は買って読んでいるが、やはり『逝きし世の面影』の印象が強い。

「民衆」ということを語っていた。今の日本で「民衆」ということばで指し示すことになるような人びとは、いなくなってしまったかもしれない。あるいは吉本隆明が「大衆」といった人びとももういないかもしれない。そのかわりに現れてきたのが「市民」である。これはことばの問題ではなく、時代の変化、世の中の生活のスタイルの変化、ということで考えることになると私は思う。

ふり返ってみるならば、水俣病における石牟礼道子の仕事は、民衆の情念に根ざしたものであったということになる。

だが、今では、地域でその自然にとけこんだ人びとの暮らしは、根本的に変わってしまったと言っていいだろう。そもそもの社会の産業構造が大きく変わってしまった。農山漁村で住んで働く人びとは、劇的に減少している。その多くは都市部での生活になっている。さらにはかつての農山漁村の人びとの生活様式も変化してきている。

興味深かったのは、渡辺京二が「民衆」に触れたのが、結核の療養所で元兵士たちと一緒にいた体験であるということである。ここで私が思い出したのが、丸山眞男のことである。丸山眞男は一兵卒として徴兵されて、軍で兵士たちと過ごしている。そのことを回想した文章を読んだと記憶する。だが、丸山眞男は、その後の人生で、東大にもどり、「民衆」のなかに降りてくることはなかった。あくまでも、知識人として生きた。私にはそう思える。

阿弥陀仏の理解も興味深い。人間にとっての超越的絶対者、というのではなく、汎神論的、あるいは、アニミズム的にとらえている。

それから、思いうかぶこととしては、渡辺京二もまた「忘れられた日本人」の一人であろう、ということがある。

かぼそい「ちいさきものの声」は、今では声高な「市民の権利」に代わってしまったといえるかもしれない。

2023年12月26日記

二〇二三に読んだ本のことなど2023-12-31

2023年12月31日 當山日出夫

毎年、大晦日は一年のふりかえりである。

去年(二〇二二)の終わりごろから、生成AIのことが話題になりはじめた。このとき、いろいろ考えるところがあったのだが、その一つとして、大学で国語学を教える仕事を辞めることにした。生成AIの作り出すことばは、はたしてことばなのだろうか。これは、言語観によって変わる。認知言語学の立場にたてば、これは言語ではないということになるだろう。しかし、それを受け取る人間にとって、ことばとして受けとめることがあるならば、それはまごうかたなく言語の機能を持っていることになる。このような状況にあって、言語とは何か根本的な見直しが必要になるにちがいない。ここから先、私などの旧態依然とした人間の出る幕ではないと感じた。大学で訓点資料について話しをするのに、生成AIは役にたつというものではない。しかし、言語の研究にたずさわってきた人間としては、人間にとって言語とはなんであるかという問いかけは常に意識の根底にある。それが大きくゆらごうとしている。このあたりがそろそろ潮時かと感じた。

そこで読んでおきたいと思ったのが、プラトンの著作などである。たぶん、生成AIを作るときには、プラトンなどは真っ先に入力し学習させる対象になっているかと思う。対話、ということを再確認するために自分で再度読んでおきたいと思った。古代ギリシャ哲学は、学生のときの一般教養の講義以来である。対話しながら、知識を確認していくということがどういうことなのか、読んでおきたいと思った。無論、現代日本語訳である。光文社古典新訳文庫とか、岩波文庫などで、代表的なものは読める。

司馬遼太郎の「街道をゆく」を読み始めた。たまたまNHKで「奈良散歩」をあつかった番組を放送しているのを見て、興味がわいた。これまで、司馬遼太郎の著作は、小説はかなり読んできているのだが、「街道をゆく」は手にしたことがなかった。これは、私が若いころ、「週刊朝日」に連載されたものである。今となっては、一昔、二昔前のことになる。また、司馬遼太郎の歴史観については、決して全面的に賛同しているということでもない。いや、かなり批判的にとらえているかとも思う。しかし、「街道をゆく」を読むと、歴史観の問題よりも、紀行文としての文学的な面白さがあることに気づく。そして、日本の各地を旅しながら、そこで歴史に思いをはせるというスタイルに共感するところもある。全部読もうと思っていたのだが、今年のうちに読めたのは半分ぐらいであった。

我が家のテレビが壊れたので買い換えた。新しい機種であるので、当然4Kである。録画用のハードディスクも、4テラのをつけた。このせいもあるのだが、テレビをよく見るようになった。特に、ドキュメンタリー番組を見る。BSで放送の世界のドキュメンタリーなど見ると、日本のテレビ番組ではない視点があり、いろいろと考えることが多い。夜の放送が多いので、録画しておく。翌日以降の昼間に見ることが多い。

いろんなことがあったような、あるいは何事もなかったような一年であったが、ともあれ、この年も無事に終えることができたという安堵の思いである。

2023年12月31日記