「舟を編む ~私、辞書つくります~」(3)2024-03-07

2024年3月7日 當山日出夫

舟を編む ~私、辞書つくります~ 第三回

水木しげるを読んだのは、「ゲゲゲの鬼太郎」からである。小学校のときに雑誌連載をリアルタイムで読んだのを憶えている。一番新しい本としては、中公文庫版である。しかし、読もうと思って買ってはみたが、文庫本に作ってあるので、文字が小さすぎて読むのがつらい。断念した。せめて、もう一回り大きなサイズの本で出してくれないものだろうか。ドラマで映っていたのは、古いちくま文庫版であった。

「手のひらを太陽に」は、やなせたかしの作詞である。次の次の次の朝ドラ『あんぱん』で、この曲が出てくるだろうかと、今から楽しみにしている。

今の時代の辞書として、水木しげるとかやなせたかしとか、このような項目を辞書(中型)に載せる必要があるのか、微妙な問題があるかもしれない。これから、もし、新規の辞書の企画をたてるとしたら、どうなるだろうか。

百科項目については、パソコンかスマホがあれば簡単に調べがつく。それが、どこまで正しいかどうかは疑問が残るにせよ。ただ、確定したことばの入り口としての辞書の語釈という観点からは、あってもいいようには思う。

これまでのドラマを見ていると、どうやらジャパンナレッジは出てきていない。今、紙の本の日本国語大辞典をひく人はどれほどいるだろうか。まあ、私も持ってはいるが、実際に見るのは圧倒的にジャパンナレッジになってしまっている。

それから、これは個人的な趣味の問題かもしれないのだが……私は、辞書を買ってそれを日常的に使うものとしたときには、まずケース(箱)とカバーを棄てる。辞書を引くのにいちいち箱から出しているのは、手間である。紙やビニール製のカバーがついているのも、扱いにくいのですぐに外して棄てることにしている。(ただ、保存のために買っておくという辞書の場合は残してあるが。)

馬締は学会に出張しても、すぐに帰ってきた。懇親会には出なかったようである。学会に出て、懇親会などで(さらにはそれが終わってから)、いろんな人とざっくばらんに話しをするのも、その楽しみであり、学会の意義の一つだと思う。まあ、これは、私などの世代の古風な考え方かと思う。(このドラマでの辞書の完成予定である二〇二〇年は、COVID-19のために、学会などほとんど中止かオンラインになった。懇親会もなくなった。これも時代の流れである。)

漱石の「こころ」のことが出てきていた。この作品は、何回か読んでいる。数年おきに漱石の主な作品は読み返すことにしている。「こころ」であるが、国語学、日本語学としてあつかうには注意が必要である。この作品は、大正三年の朝日新聞に連載の作品である。「三四郞」もそうであるのだが、明治の終わりから大正のはじめごろ、今から一〇〇年以上も前の作品のことばを、現代語の用例としてあつかっていいのだろうか、ということがある。無論、その作品のことばは平易であり現代の我々が読んですぐ理解できる。だからといって、一〇〇年以上も前の文献のことばを、今の日本語の用例としてあつかうには、細心の注意と手続きが必要である。長々しくなるのでこれ以上は書かない。学生に話しをするとなると一時間ぐらい話しをすることになる話題である。

2024年3月5日記

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