「舟を編む ~私、辞書つくります~」(5)2024-03-21

2024年3月21日 當山日出夫

舟を編む 私、辞書つくります~(5)

録画してあったのを見終わった、とりあえず、ジャパンナレッジで日本国語大辞典の「からかう」の項目を見てみた。たしかに、山梨方言で、手を尽くす、という意味でもちいると書いてある。

このドラマの設定では、日本国語大辞典のジャパンナレッジ版は存在しないということになっている、ということかもしれない。

昔、子どもが小学生のころ、私の部屋にやってきて、辞書でことばを調べたいと言ったことがある。そのときは、日本国語大辞典の旧版の時代だったが、そろえて手元に並べてあった。それをひいてみて……お父さんの辞書は大きいけれど、ことばが載ってない……という意味のことを言ったのを憶えている。まあ、たしかに、日本国語大辞典といえども、すべてのことばが見出しにあるわけではないし、また、特に新しいことばについては載っていないとすべきではあるのだが。

みどりの部屋にも国語辞典が並べてあった。そのとき、箱に入った状態だが、本体の背表紙を手前に見えるようにしておいてあった。私の感覚というか習慣では、この置き方が正しい。このようにしておいておくと、辞書を取り出したとき、本棚に空白ができる。もどすときは、その空いたところにもどせばいい。これが、箱の背を手前にしてあると、もどすときに、いちいち箱を出して書名を確認してもどさないといけない。手間である。(まあ、私の場合、基本的には手元におく辞書は、箱もビニールのカバーも棄てているが。)

ちなみに、学生のころ、カバンのなかには、「岩波古語辞典」か「新字源」かのどちらかの辞書は入っていて、常に持ち歩いていた。むろん、箱もカバーも棄ててである。そうでないと、すぐに出して引くことができない。「岩波古語辞典」は二冊、「新字源」は三冊、買い換えたと憶えている。

私の小学生のころ、学習用の国語辞典というのを使った記憶はない。国語辞典を使うようになったのは、中学生になって、学校指定ということで買った、「岩波国語辞典」だった。そのときから、岩淵悦太郎という名前を覚えた。『悪文』は高校の教科書に載っていただろうか。そして、その訃報に接するのは、大学生になって国語学を勉強しているときのことだった。

2024年3月19日記

「廃炉への道2024 瀬戸際の計画 未来はどこに」2024-03-21

2024年3月21日 當山日出夫

NHKスペシャル 廃炉への道2024 瀬戸際の計画 未来はどこに

おそらくNHKとしては、サイエンスZEROの取材と並行して番組を作っているのだろうと思う。同じ取材源を使って、どのように何を伝えるのか、考えてみることになる。録画しておいて見た順番としては、サイエンスZEROの方が先になる。

廃炉の技術的な可能性がゼロではない(リスクは当然あるとしても)、ということは言えるのだろう。世の中には、これを否定的に見る考えの人もいるだろうと思う。しかし、そのような立場にたってしまうと、今後の議論が全く先に進まないことになる。(ではどうすればいいのかということになってしまうのだが。)

NHKスペシャルで語っていたのは、技術的な課題の克服の可能性よりも、社会の合意の形成の方途についてであった。アメリカのスリーマイル島の事故のことが出てきていたが、これは、まず基本的にアメリカの社会における、ものごとを決める手続きに関する感覚の相違ということを考えておく必要があるだろう。同じ方法を日本で採用できるかどうかは、これも、(技術的な課題と同様に)未知数であるかと思うが、どうだろうか。

日本において、地元住民をふくめた対話の可能性を探る動きがあることは、歓迎すべきことである。しかし、最終的な合意形成にいたるまでの道のりはかなり険しそうである。(懸念されるのは、番組では触れていなかったことだが、国とか東京電力のことは何でも反対するという立場の人がいるだろうということであるが、こういう人たちの存在をふくめて、社会的合意にいたるのはかなり難しいかもしれない。)

問題を広い意味でとらえなおすならば、日本の社会全体としてどのように合意形成をめざすべきなのか、それはどのようにすれば可能なのか、という政治や統治のシステム、公共性、民主主義のあり方、というような広範囲な観点からの議論が必要になってくることであると思う。

すくなくとも、原子力発電そのものに賛成か反対か、という類いの踏み絵をつきつけるようなことは避けるべきだろう。そうではなく日常的な生活感覚を尊重しつつ、公共的なテーマへとどうつながるのか、あるいはつながることがないのか、というところから、手探りで始めるしかないのだろうと思う。必要なのは、相手を論駁することではなく、対話することである。

2024年3月19日記