ブラタモリ「正倉院」2024-03-06

2024年3月6日 當山日出夫

ブラタモリ 正倉院

正倉院というと、むかし学生のときに聞いた益田勝実先生の話を思い出す。大学院のとき、非常勤で三田に教えに来ておられた。

正倉院の文書などの流出のこと、塵芥を棄てずに残して調査の対象となっていること、このようなことを聞いたのを憶えている。

校倉造りについてのそれまでの通説とは異なり、宝物を守ってきたのは、木製の櫃のおかげであるというのは、今では常識的なことかと思う。

ただ、この放送のなかで出てこなかったこととしては、文書……いわゆる正倉院文書のことがある。それから、聖教(昔の仏教のお経の写本)のことも重要である。聖語蔵のことについては触れていなかった。そういえば、正倉院文書も影印本が出たとき買ったのだが、今では書庫にしまいこんだままである。それも、今では、正倉院事務所のHPで画像データベースとして見られるようになっている。時代が変わったものである。

秋の正倉院展は、このごろは行っていない。とにかく人が多いところに出るのが嫌になってきた。正倉院展は、基本的には、制度としては曝涼の位置づけであるはずである。

2024年3月4日記

「それでも日は昇る パキスタン 女性たちの行進」2024-03-06

2024年3月6日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー「それでも日は昇る パキスタン 女性たちの行進」

二〇二一年、パキスタンとカナダの制作。

パキスタンにおけるフェミニズムの活動についてである。

フェミニズムという動きについては、今の時代の大きな流れとしてあることは理解しておくべきだろう。

ここで思ったことを書いてみる。ちょっと天邪鬼な観点からになるが。

「自分の体のことは自分で決める」。これは本当に正しいのだろうか。無論、他人から強制的にその生き方を決められるということは理不尽である。だが、人間の自由意志というものは、本当に実在するものとして考えていいのだろうか。

人間が、その生まれ育った歴史的条件、文化的環境、人間社会の関係、地理的風土などの影響のもとにある。それからまったく自立した自由な個人の自由な考えというものがあり得るとは思えない。この意味では、フェミニズムの発想もまた、一つの歴史の所産である。だからといってフェミニズムを否定しようとは思わない。およそ主義とか主張には、そのような側面があるということに自覚的であるべきではないだろうか、ということである。

伝統的なイスラムの価値観に対して、フェミニズムの考え方で抵抗するという姿勢は、十分に納得できるものである。イスラムの世界もまた変わっていかざるをえないと思う。

ところで、西欧的な価値観に対して、非西欧的な、あるいは、近代以前の古くからの伝統的価値観を重視するという考え方もある。近年の事例でいえば、気候変動の問題など、近代的な人間社会の生き方の大きな問題である。

これは、ただ過去に帰れということにはならない。そこで、古くからのコミュニティや生活様式を尊重するということはあっても、家父長制は受け入れない、フェミニズムは尊重されなければならない、これは、どう整合性をつけることになるのだろうか。

今、実際に困窮している人びとが抗議の声をあげることは当然である。だが、その一方で、人間とはどんな存在であるのか、歴史から何を学ぶことができるのか、冷静な議論も必要なのではないかと私は思っている。

2024年2月7日記

「シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (5)「不条理を生き抜くために」」2024-03-06

2024年3月6日 當山日出夫

こころの時代 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (5)「不条理を生き抜くために」

良寛については、昔、若いとき、唐木順三を読んで知っているぐらいである。あまり知るところところはない。浄土思想という観点から良寛がどうとらえることができるのか、良寛について考えてみたいと思う。

丹羽文雄の作品は読んだことがあったかどうか、はっきり記憶にない。もう今ではあまり読まれない作家になってしまたかもしれない。検索してみると、いくつかの作品は刊行されているようだ。親鸞について書いていることが分かる。

何よりもこの回で興味深いのは、宗教はアヘンであるということを、認めていることである。少なくとも、そのような一面があることは確かである。だが、それを認めたうえで、社会の変革、不条理の克服のための継続性のために、それを持続させる精神的なささえが必要であるとして、そこに宗教の価値を見出している。

それから、安満稔麿の言うこととしては、死を通過点として浄土がある。浄土教を信じる立場からするとこう言うことになるのだろうが、素朴なアニミズムの立場にとっても、通過点として自然に回帰していくと考えることもできるだろう。どのような立場をとるか違いはあるかもしれないが、死を壁ではなく通過点であるととらえる考え方には首肯するところがある。

来世で救われるのだから、この世における悪を肯定する、やむを得ないものと考える……このように考える傾向について、宗教は何をなすべきなのか。仏教で言う「諸悪莫作、衆善奉行」を具体的に実践するにはどうあるべきか、課題は残ることになる。特に、近現代の価値観の多様化、そして平行してある絶対的なPCの主張、このなかでどう考えるべきかということになる。

このシリーズ、言うまでもないことかもしれないが、宗教は生きている人間のためにある、という基調をつらぬいていることは重要なことである。

2024年2月25日記