「幻の骨 〜日本人のルーツを探る〜」2025-06-14

2025年6月14日 當山日出夫

幻の骨 〜日本人のルーツを探る〜

夜見ヶ浜人の人骨をめぐる番組であるが、ちょっと期待外れというところもある。夜見ヶ浜人のことは、いったいどの番組だったか忘れてしまったが、以前に、NHKでもとりあげている。

本物ということが分かり、年代が確定できれば、日本における旧石器時代の最古の人骨ということになる。

新しい情報としては、次の二つ。

人骨のなかに入っていた砂。最初に見つかったときの記録を信じるとすれば、6メートルの地下からということだが、そこには旧石器時代の地層はない。ということは、どこか他の場所から移動してきたことになる。では、もともとどこにあったのか。砂は、それを解明する手がかりとなるかもしれない。砂の成分から、推定は可能かと思われるが、はたしてどうだろうか。

骨の一部を削って、年代測定の科学的な分析をこれから始めることになった。これは、まだやっていなかったのか、ということの方がおどろきでもあるのだが。

番組では、もしこの骨が旧石器時代のもので年代が特定できるならば、歴史を書きかえる、と言っていたが、はたしてそうだろうか。まあ、いつごろから日本列島で人間が住み始めたのか、ということについて、考古学的な証拠の一つにはなるにちがいない。だが、はっきりとそれと判定できる旧石器時代の遺跡が発見されているならば、それで十分だとも思える。

もしDNA鑑定が可能であったとすれば、どこからやってきた人間なのかということは分かるだろう

しかし、それがどうしたというのか、とも思う。

現代、日本列島に居住している人間のDNAの分析から、その伝来は、多方面、多層的であることは、すでに言われている。縄文時代以降の人骨の分析を加味すれば、日本列島に住んできた人間の来歴は、総合的に分かることになる。それを、さかのぼって考えることはできるかもしれない。

しかし、問題になると思うのは、生物学的に日本人というものをどう考えるということもあるが、それ以上に大きな問題であるのは、「日本」という概念を、歴史的にどの時点まで、どのようにさかのぼって考えることになるのか、ということである。

縄文時代から考えることになるのだろうか、稲作が始まったとされる弥生時代にもとめるのか、それとも、古代国家の成立となる古墳時代以降のことになるのか。これは、「日本」というものをどうイメージするかということと、その源流を、歴史上のどこにもとめるか……おそらくは、ニワトリとタマゴのような議論になるにちがいないが、これを冷静に考えることが必要になる。

DNA解析の結果としては、純粋な「日本人」ということは設定できない。(同様に、純粋な韓国人もいないし、漢民族もいない、ということになるはずである。)

であるならば、「想像の共同体」としての「日本」の成立はいつごろ、どのようにしてあったことなのか、という、むしろ観念的なことについての議論にならざるをえない。それはうらがえせば、現代の日本の文化と思われているものを、過去の歴史のどこに投影することになるか、ということでもある。そして、「日本」の連続性を担保してきたものは何であるのか、ということが問われることになる。

番組のタイトルに、「日本人のルーツを探る」とあるのが、そもそもおかしい。仮に夜見ヶ浜人の年代が確定したとしても、それが、「日本人」の成立になるなどと思うまともな研究者はいないはずである。その時代から、人がいたことは確かであっても、それをもってして「日本」の成立にはならない。夜見ヶ浜人を「日本人」のルーツとしたがるのは、学問的にはあまりにも短絡的で粗雑な議論である。

もし、明石原人の骨が現在まで残っていたら、また、議論はちがってくるかもしれない。だがそうだとしても、現代の歴史学としては、DNA解析によって、現在までの連続性の立証が必要になる。夜見ヶ浜人にせよ、明石原人にせよ、旧石器時代から日本列島に人が住んでいたとしても、それで、旧石器時代から日本列島には「日本人」がいた……とするのは、どうだろうか。また、どの地層から出土したものなのか特定できない人骨について、C14分析ができればいいが、それができなければ、いったいどれほどの意味があるのか。専門家の冷静な考え方をきいてみたいところである。

私見としては、夜見ヶ浜人、明石原人、などが実際に存在した人間であったことよりも(その現代にいたるまでの連続性/非連続性が立証されないかぎり)、日本をふくむ東アジア、さらには、世界における、ホモ・サピエンスの歴史をDNA解析から総合的にたどることの方が、より学問的に説得力があり魅力的であると考える。

それから、番組のなかでは言っていなかったが、骨と化石がどう科学的にちがうのか、ここはきちんと説明をいれて番組を作った方がいいだろう。これが区別できない人が多いかもしれない。

考古学に限ったことではないが、アマチュアの研究と、専門の研究者によるアカデミズムの世界の問題は、これはこれとして別に考えるべきことである。特に考古学の場合、旧石器遺物の捏造ということがあっただけに、この問題のあつかいは、より慎重であるべきである。

直良信夫の業績やその評価については、また、別に考えるべきことであると思うが、まずは、日本人のルーツというような概念から自由になって考えることが必用であろう。

最近のニュースとしては、小豆が日本発祥で、それが中国などの伝播していったということが、DNA解析から判明したということがある。小豆がかってに移動するはずはないので、これは、それを栽培する人の移動があった、あるいは、交易があったということになる。古代の人類の歴史は、想像以上にダイナミックなものであると考えることになるだろう。

2025年6月4日記

フロンティア「蘭奢待 天下無双の香りの謎」2025-06-14

2025年6月14日 當山日出夫

フロンティア 蘭奢待 天下無双の香りの謎

蘭奢待については、NHKでは、以前に「歴史探偵」であつかっている。

やまもも書斎記 2023年11月26日
歴史探偵「蘭奢待」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2023/11/26/9637460

今回の「フロンティア」は、まったく新しく現代における調査の様子である。宮内庁の協力を得ての、蘭奢待の調査研究についてであった。

基本としては、正倉院の宝物は勅封で守られているので、この調査は特別にということになるのだろう。(ただ、時期的なことを見ると、正倉院展での開封に合わせてということになるようである。毎年秋の正倉院展も、単なる展覧会ではなく、形式的には正倉院宝物の曝涼があり、それに付随的に行われているもののはずである。)

蘭奢待の実物を調べると、アクイラリア、という樹木であることが分かる。ここは、樹木の専門家の判断だから、そうなのだろう。この種の樹木は、沈香となる。これまでに見つかった蘭奢待の破片を、特別に分析してみると、八~九世紀のころということになるらしい。炭素の同位体の分析による。これは、考古学などではよく使われる科学的な年代判定の方法である。

沈香は、現在はではベトナムで多くとれる。沈香ハンターというべき専門の人がいて、森の中にわけいって探している。これも、近年では採れなくなっているらしい。また、新たに沈香を人工的に作ることもこころみられているが、あまりうまくいっていないようである。(番組に出てこなかったところを見ると、沈香御殿というのはないのかもしれない。)

SPring8で、蘭奢待の断片の高精度スキャン画像を撮ってみる、というのは、今ではこのようなことも出来る時代になったのかと思う。

また、その断片を特別に加熱して実際に香りを聞いてみて、また、ガスクロマトグラフィーで分析する。その結果として、その成分を知ることができる。その結果は、蘭奢待は、非常に特殊な成分の配合になっているらしい。

さらには、その成分分析をもとに、新しく材料を調合して、香りを再現するこころみもある。

こういう科学的な調査は面白いのだが、それと、日本における香道のことをからめているのは、ちょっと無理があったような気がしないでもない。たしかに、香道というものの成立は室町期以降になり、それには、足利義政が蘭奢待を切り取ったということが、深く関連しているのだろうということは分かる。

だが、香道の文化史ということと、蘭奢待の科学的調査は、とりあえずは別物と思うのだが、どうなのだろうか。

やはり気になるのは、蘭奢待を切り取ったのが、足利義政、織田信長、明治天皇ということなのだが、これらは、その後、どうなったのだろうか、ということである。明治天皇のときのことは、近代になってからのことだから、記録が残っているかと思うのだが、いったいどうなっているのだろうか。

今の時代に、蘭奢待として伝わっているものがあるのだが、このことについては、この番組のなかで一切触れていなかった。できるなら、これらについても、同様の科学的分析をおこなうこともできるだろう。だが、現実の問題としては、伝・蘭奢待、というような形で所有されているのが、ふさわしいのかもしれない。

2025年6月5日記

よみがえる新日本紀行「水のわたる橋 〜熊本県矢部町〜」2025-06-14

2025年6月14日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行 「水のわたる橋 〜熊本県矢部町〜」

再放送である。2023年の放送。オリジナルは、昭和49年(1974年)。

通潤橋のことは、ニュースなどで見たことはあるかと思う。実際に目にしたことはない。

たしか、通潤橋は、『オードリー』で登場していたかと覚えている。

この橋が、布田保之助というこの地域の惣庄屋の事業であったということを、この番組で知った。昔は、このような人がいた。地域の人びとのため、道路を作ったり、トンネル(隧道)をほったり、治水事業をしたりとか、さまざまに地域のためにつくした人がいた。これらの多くは、今では、ほとんど忘れられてしまっていることが多いかもしれない。布田保之助の場合は、現在まで、神様として神社に祀られている。

江戸時代に作られた石のアーチ橋が、現在でも使われている、その技術の高さは、やはりすばらしいと思う。この仕事をした石工が、皇居の二重橋の仕事もしているということは、この時代の日本の技術の水準を示すものといっていい。国宝に指定されていることは、その価値がある。

ただ、今では、この地域の棚田を守り、水路を維持するのは、地元の人たちだけでは無理になってきていることも、(番組のなかでは、はっきりとそう言っていたわけではないが)難しくなってきている。現在のところ、棚田の風景は守ることが出来ているが、米作農家としてこれからもやっていけるかどうかは、疑問かもしれない。

米の価格、生産調整、ということは、ここにきて大きな動きがあることになるが、このような山間の棚田での米作の維持ということまで、視野にいれたものになるかどうかは、分からない。

通潤橋の放水、棚田の風景が、この地域の観光資源になっているということは確かなことである。

村のみんなで水路を管理する、お祭りのつくりものの制作に力をあわせる、このようなことは、現代の日本社会で、前近代的封建的遺制として否定してきたものであるが、これが、昭和49年(1974)までは残っていた。この時代は、まさに、日本の社会の構造が大きく変わろうとしている時代でもあったことになる。

2025年6月11日記