文学は書かれたものだけですか ― 2008-09-19
2008/09/19 當山日出夫
昨日のつづきを、すこしだけ。
日本語史(国語史)の授業で、学生に、こういうと、だいたいみんな唖然としたような、わけのわからないような様子でいる。
キリスト教で、「聖書」という本があるが、これは、誰が書いたんでしょうか。イエス・キリストが、自ら、書いたのでしょうか。
仏教にはたくさんの教典がありますが、それは、仏陀(釈尊)が、書いたものでしょうか。
「論語」という本がありますが、これは、孔子が書いたものではありませんね。
……などと言うと、わけのわからないことを言われたような表情になる。
学生(日本文学科・国文科)の頭では、「文学作品」=「文字で書いて書物になったもの」、という意識の枠組みが、強固にある。書かれない文学というものを、想像してごらん、というのだが、難しいようである。
しかし、少なくとも日本語の歴史を考える範囲でも、書かれない日本語があった、ということは確かな事実。そして、『古事記』も『万葉集』も、日本語が書かれない時代に、それ自身が成立している。日本語が書けるようになってから、書いて本にできた。
これ以上ふみこむと、専門的な議論になってしまうので、ここでやめておく。
ところで、学会発表のレジュメ。まるで論文のように書く場合もある(特に、大学院生の発表)。あるいは、パワポのプリントアウトだけで、済ませてしまう人もいる。
これも、考えてみれば、口頭発表という音声言語中心のコミュニケーションに、どのように、書いたものがかかわるのか、という身近な事例かもしれない。
當山日出夫(とうやまひでお)
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