電子図書館の可能性2010-07-17

2010-07-17 當山日出夫

昨日は、国立国会図書館(関西館)に行って、「電子図書館の可能性」の講演会。その様子は、次のURLにまとめられている。(他にもあるかもしれないが。今の時点で気づいたところで。)

http://togetter.com/li/35818

当初、どれほど人があつまるか危惧されていたようであるが、実際に行ってみると、非常な盛会であった。関西館のような場所で開催したとしても、(言っては悪いが、非常に不便な場所にある)、これほど人があつまるというのは、やはり関心の高さを示すものだろう。

全体的な印象を記すならば、だいたい次のようになるだろうか。

第一に、長尾真館長の考え方は、基本的に一環していている。

第二に、だが、それをとりまく周囲の電子図書館についての考え方の方が、その時々の状況によって非常にゆれうごいている。昨年からのグーグルブックス、それに、最近の、Kindle、iPadの登場によって、そのたびごとに、大騒ぎする。

第三に、それでは、問題の解決の方向にむけて進展しているかというと、どうもそうではなさそうである。これは私の観察。さして進展しているというわけではないが、論点の整理だけはできるようになってきたか、というところ。

このように考えたうえで、私見として、最大の問題点をひとつあげるならば……過去の書籍コンテンツの電子化は、画像ですむもの(あるいは、画像でなければならないもの)と、テキスト化する必要のあるものにわかれる。これらの区分・判断をどのようにしていくのだろうか。

そして、テキスト化するときのコストと、技術的課題をどのように克服するのか。著作権などは、制度的な問題であるので、ある意味でどうにでもなる。しかし、過去の著作のテキスト化は、単純にコスト、それも膨大なコストがかかる。それだけに、問題ははっきりしている。そのコストを、誰が、どのように負担するのか。

一つの解決策としては、個別のプロジェクト、たとえば、DVD版内村鑑三全集のような形で、テキスト化していく。これに類する形で、「~~全集」「~~資料集」のようなものを、すこしづつ蓄積していく。この蓄積が、ある程度以上たまった時に、電子図書館の新たな形が見えてくるのかもしれない。

もちろん、これから刊行される本、すでに、組版データがコンピュータにあるものについては、それを利用することになるだろう。ここでは、著作権や利害関係の調整などの問題が、主な課題になるにちがいない。

だが、過去の本はそうはいかない。単に、画像データだけで見えたのでは、あまり意味がない。(無いより、あった方がいいにきまっているが。)テキスト化されて、検索の対象になって、絶大な力になる。

電子書籍とひとくくりにされてしまう中で、画像であるもの(画像でなければならないもの)と、逆に、テキスト化される必要のあるもの、このあたりを巡っては、まだ、議論の余地が残っているようにおもえる。

當山日出夫(とうやまひでお)

電子図書館の可能性(2)図書館は何を残すのか2010-07-17

2010-07-17 當山日出夫

電子図書館の可能性(国立国会図書館/関西館)で、質疑応答の時、私がした質問はつぎのようなもの。

電子書籍は、デバイスに依存する。紙の本であれば、100年後でも同じものとして見ることができる。しかし、電子書籍はどうか。今のiPadを、10年後、20年後に見ることが可能であろうか。

この質問に対する仲俣暁生さんのこたえは……コンテンツを分離して考えるべきである。電子図書館としては、そのコンテンツが残ればいい。デバイスは変わってしまっても、それは必然である。

これについて、さらに言うだけの時間はなかったのだが、ここで、私の思うことを書いておく。仲俣さんのこたえには、半分賛成できるが、半分は納得できない。

紙の本でも、実は、歴史的に見れば、デバイスの変革は経てきている。写本の時代から、版本の時代へ。さらに、活字印刷の時代に。たとえば、『万葉集』。はるか古代、現存する二十巻本の成立がどのようなものであったかは事情が不明であるにしても、少なくともいえることは、仮名(平仮名・片仮名)は無い時代。いわゆる万葉仮名の時代である。しかも写本。それが、仮名つきの表記に変わる時期がくる。それは写本の時代。その後、いろいろ変遷があって、近世になって版本がつくられ、近代になって、活字本になる。また、万葉仮名表記もなくなる。読み下し文での表記に変わる。

しかし、現在でも、古写本もいくつか現存しているし、版本も残っている。また、活字本でも、読み下し文のものもあれば、万葉仮名表記を保つテキストもある。これも、何種類かある。

そして、これら多様な、『万葉集』は、基本的に図書館で見ることができる。書物として。

写本・版本が、活字本になっても同じ本(同じ『万葉集』)である、という側面が確かにある。その一方で、万葉仮名表記を読み下し文に変えてしまったら消えてなくなってしまうものもある。それを残すテキストも必要。

さて、では、電子図書館は、何をどのようにのこすべきなのか。ただ、電子図書館は、現在流通している本の閲覧にだけ利用されるというものではないだろう。一つの役割として、本を残すということもある。このとき、のこすべき本とは、いったい何だろう。

本のコンテンツであるのか、本そのものであるのか。

国会図書館は、近世以前の貴重な写本・版本も所蔵している。これら、コンテンツが同じであるからかといって、新しい活字本があれば、不要になる、ということはない。これらは、モノとして残すべきものである。

近代の活字本についてもいえるだろう。やはり、モノそのものとしての本を残すことに価値がある。(そのための保存の一手段として、書籍のデジタル化という側面もある。近代デジタルライブラリーはそのためにある。)

何十年か後、21世紀の初頭の、電子書籍はどんなものであったのか、それ自体を、モノとして残す必要性は、「図書館」として、どのように考えるべきであるか。ここを単純に、コンテンツだけが残ればいい、と言えるだろうか。

さらにいえば、MLA連携ということがある。図書館においても、アーカイブズの機能が、なにがしか求められるとするならば、原型保存の原則は必須になる。つまり、オリジナルのもとの形のものを残さなければならないということである。

電子書籍になったとき、図書館は、本にとってどのような機能をはたすべきか。閲覧の機能もあるが、その一方で、本を保存しておくという機能もある。それが作成されたときの状態で、そのコンテンツを閲覧したいという要求にこたえることも、図書館にとっては必要なことではないであろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

付記 2010-07-19
中俣→仲俣、人名表期を間違えていました。失礼しました。訂正。