長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「なぜ民主主義なのか?」 ― 2016-08-07
2016-08-07 當山日出夫
つづきである。
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
やまもも書斎記 2016年8月2日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「なぜ多数決なのか?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/06/8146766
面倒なようだが、順番に著者の言っていることを追ってみることにする。(この本は、そのような読み方を要求する本だと思うのである。)
第2章「なぜ民主主義なのか?」
「なぜ多数決なのか?」(第1章)という問いをうけて、
「まず、なぜ多数決なのかという問題と、なぜ民主主義なのかという問題は同じではない。」(p.30)
としたうえで、
「なぜ多数決なのかという問題に対するさまざまな答えは、なぜ民主主義なのかという問題に答える際にも、流用することが可能であろう。」(p.30)
そして、民主主義には二つの立場があるとする。(p.31)
「第一は、そうした社会の決定には、客観的に見て正しい答えがあるのであって、民主主義および多数決は、その「正解」を発見するための、あるいは少なくともそれに近づくための、手段だという見方である。」
「第二は、政治的な決定には、人々が抱いているさまざまな主観的見解を超える「客観的な正解」は存在せず、したがって、われわれは民主的な手続きに従って出された答えを、「自分たちの答え」として受け入れるしかないという見方である。」
さらに、もう一つの立場があるとする。ハンナ・アーレントの立場である。
「民主政治に参加すること自体が人を真に人たらしめることであり、ともかく参加すること自体に意義があるという考え方を見出すことができる。」(p.34)
この立場については、このように留保をつけている。
「こうした民主政治の見方は、意外と広く支持されている。とくに、インテリの間にこうした見方をする人がしばしば見られる。しかし、こうしたヒステリカルな民主政治観は、民主政治の意義を過剰に評価しているとともに、議論そのものとしても、自家撞着を起こす、成り立ちえない議論のように思われる。」(p.35)
ハンナ・アーレントの立場を「ヒステリカル」といってしまうのは、どうかと思うひともいるかもしれない。そして、つぎに、民主主義は必ずしも最善の答えをみちびくものではないことをいう。
「民主主義が期待されている最低限の役割、つまり人々の意見の対立する問題について、社会全体としての統一した結論を下すという役割を果たしうるには、一定の条件がある。その条件がそろっていないところで、民主主義が社会全体としての統一した結論を出そうとすると、社会はむしろ対立の度合いを深刻化させ、分裂を招きかねない。」(p.39)
具体例として、アメリカの南北戦争とか、フランスのアルジェリア問題、ワイマール共和国の事例などをあげる。
そして、ロバート・ダールに依拠して、つぎのようにのべる。
「通常の民主的政治過程によっては到底解決できないこともありうる。」(p.40)
「経済的・文化的にさほどの危機にさらされているわけでもなく、かつ、平等な権利を享有するメンバーのみから成っているはずの民主社会であっても、なお、民主的には決めるべきではない問題群がある。立憲主義による民主主義の制限がそれである。」(p.42)
「民主主義を使うべきではない場面がある。この世の中には、社会全体としての統一した答えを多数決で出すべき問題と、そうでない問題があるというわけである。答えを先取りしていえば、その境界を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を警備するのが、立憲主義の眼目である。」(p.41)
この観点をさらに、先取りしてのべるならば、安全保障にかんする議論は、憲法に明記すべきことがらであって、そのときどきの民主主義(強いていえば、多数決、あるいは国民投票など)で決めるべきことではない、ということになる。
これは、先に見た井上達夫の考え方と、まっこうから対立する立場ということになる。井上達夫は、憲法九条を削除したうえで、安全保障にかかわることは、通常の民主主義の手続きで決めるべきだといっている。
やまもも書斎記 2016年7月24日
井上達夫「憲法と安全保障」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/24/8137326
このような、議論の対立を、法学の方面でどのように議論を整理すればいいのか、門外漢には分からないとしかいいようがない。しかし、ここで、長谷部恭男の議論にしたがって考えるならば、少なくとも、立憲主義というのは、民主主義を制限するものである、ということになる。
安保法制についていえば、このような国の安全保障にかかわるような重大なことは、国民主権なんだから国民が決めるべきである、国民投票をすべきである、極論すればこのような立場……安保法制に反対した人の多くの意見・心情としてはこのようなものだろう……への、反論ということになる。安保法制は、憲法で決めておくべきことであって(立憲主義)、通常の民主主義の手続きによってはならない、ということになる。
ここで確認しておくと、立憲主義は民主主義を制限するものなのである。
追記 2016-08-09
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「比較不能な価値の共存」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/09/8148465
つづきである。
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
やまもも書斎記 2016年8月2日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「なぜ多数決なのか?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/06/8146766
面倒なようだが、順番に著者の言っていることを追ってみることにする。(この本は、そのような読み方を要求する本だと思うのである。)
第2章「なぜ民主主義なのか?」
「なぜ多数決なのか?」(第1章)という問いをうけて、
「まず、なぜ多数決なのかという問題と、なぜ民主主義なのかという問題は同じではない。」(p.30)
としたうえで、
「なぜ多数決なのかという問題に対するさまざまな答えは、なぜ民主主義なのかという問題に答える際にも、流用することが可能であろう。」(p.30)
そして、民主主義には二つの立場があるとする。(p.31)
「第一は、そうした社会の決定には、客観的に見て正しい答えがあるのであって、民主主義および多数決は、その「正解」を発見するための、あるいは少なくともそれに近づくための、手段だという見方である。」
「第二は、政治的な決定には、人々が抱いているさまざまな主観的見解を超える「客観的な正解」は存在せず、したがって、われわれは民主的な手続きに従って出された答えを、「自分たちの答え」として受け入れるしかないという見方である。」
さらに、もう一つの立場があるとする。ハンナ・アーレントの立場である。
「民主政治に参加すること自体が人を真に人たらしめることであり、ともかく参加すること自体に意義があるという考え方を見出すことができる。」(p.34)
この立場については、このように留保をつけている。
「こうした民主政治の見方は、意外と広く支持されている。とくに、インテリの間にこうした見方をする人がしばしば見られる。しかし、こうしたヒステリカルな民主政治観は、民主政治の意義を過剰に評価しているとともに、議論そのものとしても、自家撞着を起こす、成り立ちえない議論のように思われる。」(p.35)
ハンナ・アーレントの立場を「ヒステリカル」といってしまうのは、どうかと思うひともいるかもしれない。そして、つぎに、民主主義は必ずしも最善の答えをみちびくものではないことをいう。
「民主主義が期待されている最低限の役割、つまり人々の意見の対立する問題について、社会全体としての統一した結論を下すという役割を果たしうるには、一定の条件がある。その条件がそろっていないところで、民主主義が社会全体としての統一した結論を出そうとすると、社会はむしろ対立の度合いを深刻化させ、分裂を招きかねない。」(p.39)
具体例として、アメリカの南北戦争とか、フランスのアルジェリア問題、ワイマール共和国の事例などをあげる。
そして、ロバート・ダールに依拠して、つぎのようにのべる。
「通常の民主的政治過程によっては到底解決できないこともありうる。」(p.40)
「経済的・文化的にさほどの危機にさらされているわけでもなく、かつ、平等な権利を享有するメンバーのみから成っているはずの民主社会であっても、なお、民主的には決めるべきではない問題群がある。立憲主義による民主主義の制限がそれである。」(p.42)
「民主主義を使うべきではない場面がある。この世の中には、社会全体としての統一した答えを多数決で出すべき問題と、そうでない問題があるというわけである。答えを先取りしていえば、その境界を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を警備するのが、立憲主義の眼目である。」(p.41)
この観点をさらに、先取りしてのべるならば、安全保障にかんする議論は、憲法に明記すべきことがらであって、そのときどきの民主主義(強いていえば、多数決、あるいは国民投票など)で決めるべきことではない、ということになる。
これは、先に見た井上達夫の考え方と、まっこうから対立する立場ということになる。井上達夫は、憲法九条を削除したうえで、安全保障にかかわることは、通常の民主主義の手続きで決めるべきだといっている。
やまもも書斎記 2016年7月24日
井上達夫「憲法と安全保障」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/24/8137326
このような、議論の対立を、法学の方面でどのように議論を整理すればいいのか、門外漢には分からないとしかいいようがない。しかし、ここで、長谷部恭男の議論にしたがって考えるならば、少なくとも、立憲主義というのは、民主主義を制限するものである、ということになる。
安保法制についていえば、このような国の安全保障にかかわるような重大なことは、国民主権なんだから国民が決めるべきである、国民投票をすべきである、極論すればこのような立場……安保法制に反対した人の多くの意見・心情としてはこのようなものだろう……への、反論ということになる。安保法制は、憲法で決めておくべきことであって(立憲主義)、通常の民主主義の手続きによってはならない、ということになる。
ここで確認しておくと、立憲主義は民主主義を制限するものなのである。
追記 2016-08-09
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「比較不能な価値の共存」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/09/8148465
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